研日オメガバ

 

孤爪研磨はオメガである。

この世には男と女の2つの性に加え、アルファとベータとオメガという計六つの区分けがある。
すなわち、アルファの男女、ベータの男女、オメガの男女である。
そして、アルファはベータやオメガよりも優秀とされ、逆にオメガはアルファやベータよりも劣っているとされてきた。アルファは雄としての本能を持ち、女であっても精巣を持ち、相手を孕ますことが出来る。逆に、オメガは雌としての本能を持ち、男であっても子宮を持ち、子供を宿すことが出来る。オメガ性を持つ者には三か月に一度の発情期、ヒートが訪れ、誰彼かまわずフェロモンで誘惑するためまともに生きてくこと自体が困難。その現象に対する唯一の救済は優秀なアルファが劣ったオメガの番となることだけ。そうすればオメガは番にのみ発情し誘惑する。
そんな事を言われていたのが十数年前。
現在は研究も進み、アルファとオメガ、ベータに優劣は無いとされている。そしてヒートに関しても、医療が発達し抑制剤で完全では無いがほとんど防げるようになった。
それでも根強い偏見はあり、妊娠することの出来るオメガは就職の場面では不利であるが女性と同じ扱いである。

昔、オメガは迫害されていた。ヒートの期間は少しでも自衛が甘いとレイプされても裁判で勝つことは難しい。ヒートの期間のオメガはただの淫乱なケモノである、と。


でもね、このヒートは貴方を生むために、貴方の父と出会うためには必要なものだったのよ。

そう言っていたのは研磨の母だった。
アルファの父親とオメガの母親、その間に生まれたのが孤爪研磨であり、彼はオメガである。



ヒートは薬で抑制できるようになった。
そうは言っても薬はすぐに効果が表れるものでは無く、生理現象が周期から外れた時に突然起こった時はどうしようも無いものだ。
遠征先の他県。チームメイトとははぐれ、一人。
そんな状況でソレは訪れた。
最初はただの違和感だった。体温がいつもよりも高いとかそんな程度で、日差しが強いせいだと研磨は思った。
しかし、体温の上昇は止まらないのにどこか寒気がするようで、次第に頬を伝う汗は暑いからなのか冷や汗なのかが研磨には分からなくなった。
熱中症にしては吐き気の様なものは無く、頭痛もない。
ワケの分からない身体の疼きで、やっと研磨は自身が突発的な発情期に入った事を悟った。
研磨の発情期は先月終わったばかりであり遠征中にくるとは思ってはおらず、完全に油断した状態で入った発情期は今まで薬で抑制した状態で入った発情期よりも苦しく激しいものだった。
何故このタイミングで起きたのかは分からないけれど研磨の今までの人生の中で最大の窮地であった。
あまりのことに道端でうずくまり、自身の腕を抱きしめた時、不意に声を掛けられた。

「あれ、どうしたの?」

発情し、道端に蹲った研磨に声を掛けたのはアルファだった。
ジャージを着ている。恐らく男。

「あ……ぁ…」

生理的な涙のせいでそれしか分からなかった。
ただ分かったのはその男を認識した瞬間、腹部がズンと重くなった事だ。
発情期のオメガは優秀なアルファの子種を求める。
話には聞いていたが研磨には今までそれを体験する様な事が無かったためソレがその現象なのか判断はつかなかった。
ただ、激しい動悸と息切れ、朦朧とした頭に熱の開放だけが頭をかすめる。

「オメガの…ヒート……?」

少し高めの声だった。
それを認識して少し研磨の頭が冷めて体温は上がったまま背筋がゾクリとした。
発情期のオメガのフェロモンの前にはアルファの理性なんて無いようなものである。
自分がオメガだと分かった時に散々教えられたことだ。自衛をしろ。さもなくば酷い目にあう。
おそらく、これから自分は目の前の雄にレイプされるのだろう。熱に浮かされた身体とは裏腹に冷めた頭がそう認識して、諦めた。
今の状態では抵抗なんて出来ないし、いつも助けてくれる幼馴染もいない。
ゆっくりと目を閉じて、奪われるのを待った。

「ひっ……」

予想通り、アルファの男は研磨に手を掛けた。
男の触った所が熱く、ぞわぞわとした何かが背中を伝った。
研磨が小さく悲鳴をあげるとその手はすぐに離れた。
レイプされることなど望んではいないのに、何故かすぐに離れてしまった熱を研磨は残念に思った。
そして男の気配が少し遠退いて、パンッと渇いた音がした。
ソレは肌が肌を打つ音で、研磨は少し驚いて今度こそしっかりと男の顔を見た。
男は研磨と同じくらいの年ごろの少年だった。オメガの発情期にあてられて全体的に肌は上気していたがそれだけでは無い不自然な赤い痕がついており、渇いた音は少年が自分で自分の頬を叩いた音だと分かった。

「すぐ、助けてやるから……っ!」

うずくまっていたのをぐいっと引っ張られ、研磨は自分が男に背負われるのを感じた。
発情期中のオメガである研磨にとってアルファとの身体的接触はツラいものであったが、少年にとってもソレは同じらしく、苦しそうにしていた。
このままどこへ連れてかれるのかも分からないけれど何故か感じる安心感に身を任せて、研磨は意識を手放した。


・・・


数時間後、研磨は目を覚ました。

「……?」

熱中症にでも掛かったかの様な火照りも無く、自身は柔らかいベッドに横たえられていた。
白いカーテンに区切られた空間に白い簡素なベッドは研磨に保健室を思わせた。
カラカラと音がしてカーテンが開けられた。

「おや、起きたんだね」
「此処は……?」

顔を覗かせたのは研磨を運んだ少年とは別の、白衣の男だった。

「産婦人科だよ。君はヒートで倒れていたところを運ばれたんだ。覚えてるかい?」
「……はい」

運ばれた。
あのアルファの少年は自分に手は出さずに発情したオメガの自分を背負って運んだというのか。と、研磨は無表情のまま驚いた。

「君を見付けたのが彼で本当にラッキーだったよ。他のアルファやベータに見つかっていたらとんでもない事になっていただろう」
「俺を此処に連れてきた人は……?」
「あぁ、もう帰ってもらったよ。用事があったみたいだしね。代わりに君の先生と友人が来てくれてるから、せっかく東京から来たのに災難だったねぇ」
「……」

その後、軽い問診だけで済み、特に問題も無く帰る事が出来た。
待合所では顔を真っ青にした幼馴染がいて、大きな迷惑を掛けてしまったと研磨は気まずく思った。

「ソレ……」

幼馴染、黒尾が持っていたのは見覚えの無いジャージだった。

「あぁ、コレか。お前を運んできた奴が忘れてったらしい」
「……烏野高校」

ソレは研磨達の遠征の、最期に戦う学校だった。



・・・


日向翔陽はアルファである。

この世には男と女の2つの性に加え、アルファとベータとオメガという計六つの区分けがある。
すなわち、アルファの男女、ベータの男女、オメガの男女である。
そして、アルファはベータやオメガよりも優秀とされ、逆にオメガはアルファやベータよりも劣っているとされてきた。アルファは雄としての本能を持ち、女であっても精巣を持ち、相手を孕ますことが出来る。逆に、オメガは雌としての本能を持ち、男であっても子宮を持ち、子供を宿すことが出来る。アルファ性を持つ者は長身で筋肉質、積極的で攻撃性を内包する。そして、発情期のオメガのにおいを感じるとアルファはソレが誰であろうと理性を失い、生殖本能に操られるようにオメガと性交する。アルファは優秀であるがどこか欠けた部分があり、ソレを補うことが出来るのはつがいであるオメガのみである。
そんな事を言われていたのが十数年前。
現在は研究も進み、アルファがそんなにも完璧ではない事も、つがいを必要としないアルファが意外と多いことも周知の事実となっている。
それでも根強いアルファ信仰はあり、アルファとオメガがつがいになる事は良い事と言われ、事実、魂のつながりを持った運命のつがいというモノも信じられている。

昔、運命のつがいは絶対だった。運命以外のアルファとオメガがつがえば、どこかに存在する運命のつがいは絶対に不幸になる。


だから、お前も運命の相手以外とは絶対につがってはいけないよ。

そう言っていたのは翔陽の祖母だった。
ベータの父親とベータの母親、その間に生まれたのが日向翔陽であり、彼はアルファである。
両親がベータであるのに子供がオメガやアルファであることは珍しい事だった。
しかし、珍しいだけで、無い事ではなかった。翔陽の祖母はアルファであり、祖父はオメガだった。隔世遺伝によって日向翔陽はアルファとして生まれ、妹の夏はオメガとして生まれた。
アルファとオメガに優劣は無いとされる今でも、オメガはその性質故に他の性を持つ人よりも生きづらい事に変わりは無い。
だから、翔陽が生まれた時は手放しで喜んだ両親も、夏が生まれた時は少し心配そうな顔をしていた事を翔陽は覚えていた。
そして、アルファとオメガの兄弟はその性質と距離の近さゆえに兄弟でつがってしまう事故も多く、片方を養子に出すことも多かった。
自分が原因で妹が捨てられてしまう。その絶望は翔陽には重いものであり、幸いにも翔陽と夏は年が離れていることから、両親は二人を一緒に育て、間違いが起こらない様に教育していくことに決めた。
オメガの発情期、ヒートが始まるのは十代後半から。
現在、十代後半に差し掛かったのは翔陽だけであり、まだまだ幼い夏は蝶よ花よと可愛がられた。そして、女でオメガであるがゆえにかよわい彼女を守る様にと育てられた翔陽はアルファというには大分華奢で小さく育ったが思いやりや正義感は同い年のそれよりも強いものとなっていた。
しかし、大人びたところはそこだけで、他の部分はまだまだ年相応かソレ以下だった。
例えば、ロードワーク中に道に迷い、今まで嗅いだことの無いような甘い匂いに誘われてしまう程度には。

「……?」

ふらりと歩みを進めた先にいたのは、年の近そうな少年だった。
彼はうずくまり、自身を抱きしめていた。

「あれ、どうしたの?」

不審に思い、近づけば翔陽が釣られた甘い匂いは彼から発されているようだった。

「あ……ぁ…」

最初、少年が熱中症か何かにかかっているのかと翔陽は思った。
しかし、紅潮した顔に涙に濡れた目、その二つを見て少年がどういう状態にあるのかをすぐに悟った。

「オメガの…ヒート……?」

話には聞いていた。思っていた程はよりは強い匂い誘惑でも無い様にも感じた。
ソレは既に彼が飲んでいた抑制剤が効き始めていたからかもしれない。
それでも、暑さのせいとは違う、瞬間的な喉の渇きに襲われ翔陽は生唾を飲み込んだ。
思春期の少年にとってオメガのフェロモン程では無くても、目の前の少年の扇情的な姿は欲を煽られるモノであった。
そして、鼻腔に甘い香りを感じるたびに下腹部に感じる疼き。
無意識に翔陽は少年に手を掛けた。

「ひっ……」

少年が小さく悲鳴をあげて、翔陽は彼から手を離した。
そして、自分は今何をしようとしたのかと唖然とした。
オメガの生理的な誘惑は本人の意志ではないと散々教わってきたのに、いざ本物を目の前にするとこうも自分の理性とは弱いものだったのか。
ソレは翔陽にとって今までの自信を砕くモノであり、ショックを受けるには十分な出来事だった。
しかし、自分の事だけを考えていられないと前を向いた。眼前には今も苦しそうに息を乱す少年がいて、周囲に頼りになりそうな人間はいない。ロードワーク中が故に携帯電話も持っていないから助けを呼ぶこともできない……。
このまま彼を放っておいたらまずいことになる。
ソレは翔陽の目から見てもすぐに分かる事だった。

目の前の少年を助けるために自分が今できる事は……。

そう考えて、翔陽は両手で自分の頬を打った。
本能なんかに負けてたまるか、と気合を入れる。すると、その音に気付いたらしい少年が潤んだ瞳で翔陽を見上げていた。

「すぐ、助けてやるから……っ!」

近付けば濃くなる匂いに歯を食いしばって、翔陽は少年を背負い上げた。
此処に来る途中に産婦人科があったハズだ。産婦人科ならこの少年の状態を何とかしてくれるかもしれない。処置が難しくても突然にヒートに襲われたオメガの為の保護室の様なものがあると母親が言っていた気がする。
肌を合わせた瞬間に濃くなる匂いと、どこかピリピリとしたあまやかな刺激に飛びそうになる理性を奮い立たせて翔陽は走り出した。


翔陽が産婦人科に着いた時には、既に背中の少年は気を失っておりヒートは収まる事無く何故かひどくなる一方だった。
最初はほのかに甘いくらいだった匂いも走っているうちにどんどん濃くなり、むせ返るような百合の香りの様になっていて、歯を食いしばるだけでは理性が持たず、翔陽は途中から唇を噛みしめてその痛みに集中して走った。
尋常でない様子の翔陽と少年に受付にいた看護師が駆けつけ、少年はすぐに保護室へと連れて行かれ、翔陽も別の部屋へと連れて行かれた。

翔陽が落ち着いた頃に医者がやってきて、事情を説明して、少年は保護者に連絡が言った事を聞かされた。

「そういえば、あの……俺が運んできた子は薬飲んで無かったんですか?」
「いや、一応検査はしたが服薬はしていたみたいだよ。でも周期から外れていたから遅れたみたいだね。何かに誘発されたのかもしれない」
「誘発……? そんなことがあるんですか?」
「ごくまれにだけどね。俗にいう運命のつがいが近くにいると誘発されるとか言われてるけど、まだ解明はされて無いことだからはっきりとした事は言えないよ。もしかしたら君が彼の運命なのかもね」
「え……?」
「ハハッ、冗談だよ。オメガの生理現象にはまだまだ謎が多いからね」

その後、突然の事にも冷静に対応した事を褒められ、食いしばり過ぎて血が出てしまった唇を軽く消毒してもらってから、オメガの少年の事が気にかかりつつ翔陽は部活に戻るべく帰路についた。

体育館に戻ると誰もおらず、オメガの少年の事を考えながらしばらく一人で練習していると、翔陽を探していたらしいチームメイトが戻ってきてから腫れた唇について心配された。
事情を話すと褒められたが、やはりはぐれた事については怒られた。
その間もずっと、あの少年の事が頭から離れなかった。


「運命……かぁ…」



・・・


運命かもしれない相手と出会ってから数日、宿敵音駒高校のバレー部との練習試合を目前にして翔陽は日々練習に明け暮れつつも頭の片隅に、あの日のオメガの事が過ぎり忘れられずにいた。
ソレと同時にどこかそわそわした落ち着かない気分が止まず、相棒であるセッター、影山から何度も怒鳴られ、首相の澤村から笑顔で小言を言われ、菅原からは心配されたりしていた。
しかし、ソレは音駒高校と練習試合が出来るからだと自分に言い聞かせ、オメガの事はいったん忘れ翔陽は練習に集中しようとしていた。それでも、翔陽にとってバレーは練習以外の時間ですら頭を占めていたのに、気が付けば無意識に彼の少年の事を考えてしまっていた。
こんな事では駄目だと思いつつも時間は過ぎて、音駒との試合当日になっていた。

烏野総合運動公園球技場に到着して、澤村の声掛けで整列をする。

「あっ⁉」

一列に並び、目の前に立った人物を見て翔陽は思わず声を上げた。
周りから不審な目で見られ、慌てて両手で口をふさぐが隣に立った月島に物凄く嫌そうな表情をされた

「挨拶!」
「お願いしアス!!」
「しアース!!」

何でも無いフリに失敗しつつ、挨拶を終えると翔陽は目の前の人物、先日であったオメガの少年に声を掛けた。

「音駒だったの!?」
「あ、うん」

少し気まずそうな表情で目を逸らされた。ソレを見て、翔陽は声を掛けたことを後悔する。
もしかしたら運命の相手に再び出会えたかもしれない。そうただ喜んだ自分とは違い、相手は翔陽と再会などしたく無かったかもしれない。
考えてみれば、オメガがアルファに自分がオメガだとバレることは死活問題になりかねない程危険な事であり、更に翔陽は少年が人には絶対に見られたく無いであろう発情状態を見てしまっているのだ。
もう二度と会いたくないと思われていても仕方ない。

「あ……ごめん」
「……」

思わず謝れば少年は翔陽を一瞥することなく俯いた。
無神経だったかもしれない。それでも、翔陽は何とか会話を続けようと口を開く。

「あの、もう……平気?」
「……うん」

今度はしっかりと、でも小さな声で返事が返ってきた。
どうしても話したくないというワケでは無さそうだと判断し、翔陽は敢えて先程と同じように明るく声を掛けた。

「おれ日向翔陽! 烏野高校1年! ポジションはミドルブロッカー!!」
「え、あ……孤爪研磨」
「そっか! よろしくな! あと、突然話しかけてゴメンな。おれ、考え無しだからさ」
「……」

できるだけふんわり、威圧感を与えないように笑いかける。
自分が研磨にとって脅威となりうる存在なのはもうどうしようもない。それでも、何故か、嫌われたくない、近づきたいと心が叫ぶ。そう翔陽は感じた。

「ヘイヘイヘイ、うちのセッターに何の用ですか」
「ちょっと」

ふいに、二人の様子を不審に思ったのか、音駒の強面の選手、山本がズイッと翔陽の前に研磨を隠すように立った。

「ごっ、ごめんなさ」

研磨の性別を考えれば、変な絡み方をする他校の選手を警戒してもおかしくは無い。
研磨は強面の選手に呆れた視線を向けたが、翔陽はその対応が正しいと思った。研磨がチームメイトに性別を教えているかは分からないがそのくらいの対応をするのが研磨を守ることになるのだろう。
目の前の強面に若干ビビりつつ素直に謝ったところで、烏野の強面、田中が翔陽と山本の間に入った。

「そっちこそ、ウチの1年に何の用ですかコラ」
「田中さん!?」

一瞬、翔陽は田中に気をとられたがソレは山本にとっても同じな様で、山本のイチャモンの矛先は即座に田中に向き、その隙に研磨は翔陽に近づいた。

「翔陽」
「ぁ……なに?」

ちょいと翔陽のユニフォームの袖をひっぱって研磨は真っ直ぐに翔陽の目を見た。

「ソレ、俺のせい?」

右手で軽く顎を掬い、研磨は左手で翔陽の唇をなぞった。
ソコには先日、翔陽が研磨を運ぶ際に唇をかみしめ過ぎたせいで赤い亀裂が入っていた。
研磨は自分を運んでくれていた時に翔陽の様子を知る余裕など無かったが、直感的にその傷が自分のせいだと感じた。確証など無かったが確かにコレは自分が付けたものである、と。

「え、あー……でもそんな痛くねぇし」

翔陽は翔陽で気の利いた嘘などつける性格では無く、素直にそうであると認めた。
そんな事よりも、研磨の指先が自分の唇に、顎に触れていることに気を取られる。それは相棒である影山のモノよりも細く、しなやかで繊細であるが山本の言った通り、セッターの指であると翔陽に認識させた。
ソレが今、自分に触れている。
恐らく万全の状態で此処に来ているであろう研磨がオメガのフェロモンをまとっていることは無いだろう。しかし、ふんわりとした何かが鼻腔をくすぐった気がして、翔陽は自分の体温が少し上昇するのを感じた。

「ごめんね」
「やっ! ホントにもう痛くねぇから!! おれの唇なんかより研磨が無事だったことのが大事だし!!」

悲しげに、しかしどこか満足そうに翔陽の唇を見つめながら謝る研磨に翔陽は慌てて両手をブンブンと振って否定した。

「そんな事無いよ。おれ翔陽に傷が付くの嫌だもん」
「お、おう……?」

先程まで、もしかしたら自分は嫌われているかもしれないと思っていたがそうでも無いかもしれないことに翔陽は戸惑った。急に積極的になった研磨に少したじろぐ。
そして、傷が付くのが嫌と言った割には研磨は翔陽の傷を満更でも無さそうに見ている気がした。

「また、後で話そうね」
「おう!」




そのすぐ近くで烏野の主将、澤村と音駒の主将、の黒尾が握手を交わしていた。

「今日は宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しくお願いします。……あの、ソレは」
「あぁ、コレは……」
そして、澤村は目ざとく黒尾が片手に持っているジャージに目をやった。
黒いアシックスのソレは澤村のよく見なれたものだった。何故、ソレを音駒の主将が持っているのかが解せない。
しかし、黒尾は澤村の胡乱気な視線も気にせずににこやかに研磨と翔陽を一瞥した。

「うちのセッターが先日お世話になった様で……」
「……」

その言葉の真意は、澤村には読み取れなかった。
視線の先の人物から、そのジャージは翔陽のものだろう。翔陽がジャージを無くした日、ソレはロードワーク中に翔陽が倒れていたオメガを助けた日だ。
そこから推測するに、そのオメガが今翔陽と話している音駒のセッターなのだろうと澤村は二人で話をしている翔陽と研磨を見た。
少しぎこちない雰囲気ではあるが、大きな問題は無さそうだ。

「……あのチビちゃんがいなかったら、今頃こちらは練習試合どころじゃなかったですよ」
「……」
「本当に、ありがとうございました」

最初はニコニコと挨拶をしていたため、食えないタイプの様に見えたが研磨を見る黒尾の表情は柔らかく、愛情深い人間なのかもしれないと澤村は感じた。
そして、オメガとアルファが同じ場にいる事への危険性を分かりつつも二人が近づいているのを見守っているあたりから柔軟な考えを持っているのだろう、とも。

「ただ……」
「何か問題が?」
「もし、試合中に何かが起きるようでしたら……」
「はい、こちらもあの二人の様子には気を遣う様にします」
「すみません。お手数を掛けさせてしまい」
「いえ……こちらこそ」

黒尾の心配は澤村にも分からない事では無かった。
そして、万が一の事が起こらないようにと思う事も同じである。
それでも何故か、楽しそうに話をする目の前のアルファとオメガを、引き離せはしないだろうと感じていた。



・・・


試合が始まり、烏野の攻撃を一通り観察したあと、音駒はタイムアウトを取った。
影山と翔陽によって繰り出される特殊な速攻を目の当たりにし、影山のコントロール力に驚きつつも何処か冷めた思いで研磨は二人を観察し続けた。
影山飛雄と日向翔陽。烏野バレー部にはアルファが二人いる。そのアルファが手を組んだ結果がこの速攻であった。
オメガである研磨よりも小柄で、明るく元気で子供っぽい。日向翔陽はアルファらしくないアルファだった。ソレに対し、背が高く高圧的で我儘、しかし圧倒的な実力がソレを許してしまう。影山飛雄はそんなアルファらしいアルファだ。
そんな両極端なアルファを見つめ、オメガである研磨は不思議に思った。
抑制剤が効いているのか、確かに鼻腔がアルファのフェロモンを嗅ぎ取っているが興奮はしない。それどころか不愉快な気持ちにしかならなかった。
翔陽のフェロモンの香りはリンゴの様な甘酸っぱい香りで、影山は柑橘系のすっきりしたモノ。そのどちらも本来なら良い匂いとして認識するハズなのに今の研磨にはどうしようもなく腹立たしかった。
通常のオメガならばアルファなら誰でも良いと思えたのかもしれない。もしかしたらアルファらしいアルファの影山にの方が惹かれるのかもしれない。
けれど、今の研磨にとって影山の香りは翔陽の匂いを邪魔するモノにしか感じられず、さらに果物の香り同士のその相性の良さにイライラした。
オメガである自分がアルファに嫉妬する事になるとは思わなかった。と、研磨はため息を吐いた。
そもそも、此処に来るまでは嫉妬をするほどの相手と出会うとも思っていなかった。まさか一度助けられただけの見ず知らずの相手にこんなにも執着するなど研磨にとっては予想外も良い所だった。
しかし、こうして再会して、同じ空間にいて、他のアルファと比べて、確信した。
このアルファは自分のモノである、と。

「天才が一人混じったところで、それだけじゃ勝てやしないのさ」

研磨の嫉妬心に気付いているのかいないのか、猫又監督が鋭い目でほくそ笑みながらチラリと研磨を見た。

「……翔陽が攻撃の軸、なら、とめちゃえばいい」

研磨が出した名前に幾人かが疑問符を浮かべる。ソレを黒尾に解説してもらっている間も、研磨は翔陽の事を考える。
縦横無尽に動かれて捕まえられないなら、その動く範囲を狭くすればいい。

「そんであとはひたすら追っかける……犬岡」

急に名前を呼ばれ、大柄であるがすばしっこい、研磨の作戦に不可欠な後輩が返事をした。

「ウチで一番すばしっこいのお前だよね」

……癪だけど。
バレーで翔陽を追いかけることは研磨にはできない。それは研磨の役目のせいでもあり、本人のスタンスのせいでもあった。
しかし、自分のモノを他人に追いかけさせるのは癪であった。
それでも、今は試合中であり私情を挟む場面では無い。

「あの9番10番は言わば―――鬼と、その金棒、まずは鬼から、“金棒”を奪う」

猫又監督の静かな声を聞きながら、研磨は翔陽を追い詰めることを考えていた。
細かい説明をして、試合が再開された。

安定したレシーブを軸に、じわじわと点を稼いでいくうちに犬岡が着実に翔陽に追いついていく。それは研磨の策であり、翔陽を追い詰めているのは研磨である。
しかし、どこか腑に落ちない気分で研磨は試合を進める。
試合が進めば進むほど、犬岡が翔陽のスパイクに触れる数が増える。犬岡が翔陽に追いつく。

そして……。

「やっと、捕まえた!!!」

犬岡が翔陽を捕えた。
そこで第一セットが終わり、第二セットへ移る。
一度捕えられた事は偶然などでは無くそれからも翔陽のスパイクは防がれ続ける。
縦横無尽にコートを動くせいで体力は消耗していき、スパイクが防がれる度に心も消耗される様に見えた。

「影山、もう一回」

光を失わない瞳で真っ直ぐに前を見て、そう影山に訴える。
そして何度でもスパイクを打ち、何度でも防がれる。
翔陽が攻撃すればするほど、犬岡は翔陽の攻撃に慣れていく。

「次ッ……」

その絶望感は計り知れないだろう。

少しでも高く飛んで、少しでも早く動いて、フェイントを掛けて、試行錯誤を重ねて、それでも引き離せない。
俯き、大きく息を吐く翔陽の顔は研磨からは見えない。
しかし、その様は己の無力に心が折れかけている様であった。

「……」

研磨は、真っ直ぐで純粋な所は翔陽の好ましい所だと思っていた。
それをへし折る事に、罪悪感は無い。
ソレが研磨のやり方であった。
相手が自分の運命であっても競技には手を抜かない。ソレが相手への最大の礼儀である事は研磨にも分かっていた。

そんな研磨の考えを知ってか知らずか、翔陽はゆっくりと息を吸いながら顔を上げた。

「っ……!」

その瞬間、研磨の何かに衝撃が走った。
恐らくソレはその場にいた研磨以外の人間にもあった衝撃だろう。しかし、ソレを一番強く感じたのは研磨だった。
先程まで追われる側であり、犬岡に捕えられた翔陽であったが今はもう捕食者の笑みを浮かべていた。
狩りを楽しむ狼のソレはアルファらしくない翔陽がアルファである証の様でもあった。
心臓が射られた様な衝撃に耐え、胸に詰まった何かを嚥下する。
抑制剤は飲んだ。確かに効いているハズだ。
しかし、息をついて翔陽を睨めば、不可視であるハズのアルファのフェロモンが見えるかの様で、ぞわぞわとしたモノが背筋を伝い筋肉を緊張させる。
それでも、頭の中が冷静なのは一つの想いが研磨の頭にあるからだろう。

「あいつが目の前に来ると、わくわくするんだ」

どこか嗜虐性を含んだ雄っぽい視線の先にいるのは自分では無い。

「もう一回、おれにトス上げてくれ」

興奮を抑えた、低い声を掛ける相手は自分では無い。

「当たり前だ」

彼に応えられるのは自分では無い。
独占欲が研磨の頭を冷めさせ、冴えさせた。


「あー……すっごい癪」


・・・


結局、試合は2対0で音駒の勝利であった。そこからまた何試合かして、それでも烏野が音駒に勝つことは無かった。
善戦はしたがソレがいまの雛鳥と成猫の実力差である。
試合中はほとんど交流の無かった選手たちもコートを片付ける段階になると、同じ競技をし、歳の近い者同士喋ったりし始めた。
ソレはだいたい同じポジション同士だったり、何となく傍にいた相手だったりで、ネットを片付けていた翔陽のもとにも元気よく声を掛けてきたのは犬岡だった。
波長が合うのか一声かけられてすぐに反応すれば、上手く説明できない感情も何となくで対応できて分かり合える。

「あ……」

そんな二人の後ろへと逃げて行く研磨が視界に入って、翔陽は小さく声を上げた。
何から逃げたのかと辺りを見れば先程まで一緒にネットを片付けていた影山が物凄い形相で研磨を見ていた。

「……」
「ショーヨー?」
「あ……えっと、何?」
「いや、何か怖い顔してたなぁって?」

少し焦った様な苦笑いで指摘されて、翔陽も思わず困り顔になった。

「いや、えーと……なんていうか…」

先程までの饒舌さがどこかへ行って、しどろもどろになる。
研磨を見ていた影山を見て自分が怖い顔をする理由なんて一つしかない。
でもそれは、自分がして良い事じゃあない。
そう思い唇を噛む。
その様子を犬岡は不思議そうに見た。

「ショーヨーってさ、研磨さんの番じゃねぇの?」
「は!? え、は? おれは、え、え……!?」

大袈裟な程驚いて声を上げる。
アルファと言えば影山の様にモテモテで恋愛においては優位に立ちやすいものであると認識されがちであるが翔陽に関してはそうではない。しかし、試合中の翔陽の姿を見て犬岡は翔陽も他のアルファと同じであると判断していた。

「え? 違うの?」
「ち、違うヨ!? だいたい研磨とはちゃんと話したのだって今日が初めてだし!!」
「あ、やっぱ研磨さん助けたアルファって翔陽だったんだ。てっきりその助けられた時に番っちゃったのかと思ってた」
「なっ! そ、そんなヒデェことしねぇよ!!」
「?」

薬の開発や普及が進んでも、発情期における子どものアルファとオメガの事故は珍しいことでは無い。そしてその事故のままに生涯番として生きることになることもままあることである。
しかし、そうならない様に育てられた翔陽にはソレは絶対になってはならない事態の一つであった。

「オメガのソレは生理現象だろ。此処が何処か、相手が誰かも分かんなくなった状態で求められて、たとえ誘惑したのがオメガでも判断能力が無い相手の誘いに乗るのは駄目だろ。ましてや番なんかになったら一生おれに縛り付けることになっちまうし……」

翔陽が知っているオメガと言えば妹の夏である。彼女が年頃になり、発情期を迎えた時に偶然傍にいたのが自分で、万が一の事が起こったら。
そんな事、想像もしたく無かった。

「ん? 逆じゃねぇの? オメガのフェロモンにアルファが縛り付けられるんじゃねぇの? 俺はベータだからフェロモンとかよく分かんねぇけど」
「まぁそういうとこもあるかもしんねぇけどさ、基本的には一度番になったアルファとオメガでも離れられるんだよ。でも、離れられるのはアルファだけで、オメガは新たなアルファとは番えない。一度番っちゃうとその相手にしかフェロモンが効かなくなっちゃうからさ、もう2度と他のアルファを誘惑することは出来なくなる。オメガだって気付いてもらえないし、一般的なオメガにとっての武器であるフェロモンが使えなくなるんだよ。だから、番になる時はすげぇ慎重になんねぇといけないし、その相手が本当に運命の相手なのかも大事だし……」

番とはそういう制度である。倫理も何もなく、生物学的にどうしてそうなっているのかも分からない。ただ、そのことについて翔陽はアルファの祖母に昔からずっと言い含められてきた。
詳しい事は聞かされなかったが、その関係で酷い目にあった……もしくは、運命の相手か運命の相手でないかオメガを酷い目に合わせてしまったのは基本的に鈍い翔陽でも察することができた。

「へー、そんな深刻な問題なんだな」
「まぁうちのばあちゃんが神経質なのかもしれねぇけどさ、俺は研磨をそんな目には合わせたくねぇよ……」
「ふーん……でもソレってショーヨーが浮気しなきゃいいって話じゃねぇの?」
「そりゃおれだって浮気なんかしたくねぇけど、運命の相手のフェロモンがどんなもんかも分かんねぇから今番うのは怖ぇよ。研磨と出会った時だって理性が切れるギリギリのとこで病院に運び込んだんだし……あれ以上強いのが来たらおれ自信ねぇもん」

その時でも唇を噛み千切ったのだ。
問答無用で理性を吹っ飛ばすという運命の番のフェロモン。
もしかしたら研磨が運命の相手かもしれないという思いが無い事は無い。
それでも、運命というあやふやで目に見えないソレに確信は持てない。

「アルファって大変なんだなぁ。好きになった相手と結ばれることにすら躊躇して考えなきゃいけないなんて」
「え……? 好き?」
「おう! だってショーヨー研磨さんのこと好きだろ?」
「好き……」

犬岡の言葉を復唱してみて、ソレが思いのほかしっくりきた。
病院で、医者に研磨が運命かもしれないと言われてからずっと意識はしてきた。彼が運命の相手かもしれない、と。しかし、そのことばかりを意識し過ぎてあまり恋愛感情自体には目を向けていなかった。
ソレが、口に出してみればぽんっと腑に落ちた気がした。

「だって好きじゃなきゃそんな真剣に悩まねぇだろ? それに、他のアルファに見られてるだけで嫌なんて完全に恋じゃん?」
「恋……」

ニカッと笑う犬岡に促され片付けに戻りつつ、翔陽の頭の中はそのことでいっぱいになっていた。
嫉妬なんて、番でも無い自分がしていいものじゃない。そう思っていたのに、犬岡の言葉がソレを否定してしまう。
恋。
運命だから、オメガだから、そんな理由では無い好意を翔陽は研磨に持っているのかもしれないと思い始めた。

そして片づけも終わり、音駒バレー部との別れが近づいた時、翔陽と研磨はどちらとも無く二人で体育館を抜け出した。

双方同じ目的で二人きりになったが、互いに何から話していいのか分からず無言になった。
しかし、そうしている間にも帰りの時間は刻一刻と迫ってきていて、翔陽は口を開いた。

「あのさ! おれ、オメガとかアルファとか番とか、まだ上手く分かんないけど! あの、ソレで……」

思いつくままに口にして、うまく言葉にならない想いを吐き出す。何かを伝えなければならない事は分かっていたがどう伝えればいいのかが分からない。

「翔陽」
「!」

翔陽があたふたと言葉を紡いでいたのを遮り、研磨はしっかりとした口調で翔陽に語りかけた。

「俺は、翔陽が俺の運命の番だと思ってる」
「!!」
「でも、翔陽はまだ確信が持ててないよね」
「……」

研磨の言う通りだった。
なぜ研磨は自分の考えてることが分かるのだろうと不思議に思っていると研磨は真っ直ぐに翔陽の目を見た。
その色の薄い、鋭い視線に捕えられる。
その行為、クレイミングは求愛や決闘を意味することを翔陽は知っていた。そして、後者の場合、目を逸らしたら負けだ。

「ソレならソレで仕方ないと思う。でも、俺は翔陽が欲しい。だから、これから全力で翔陽をオトしにかかるから」
「え……?」

視線を逸らせないまま研磨の話を聞く。瞬きをする事さえ出来ない。

「ゴメンね、犬岡との話、勝手に聞いてた。翔陽は俺を捨てることを心配してるみたいだけど、翔陽が俺の事捨てるなんて思えないくらいメロメロにしてあげる。万が一、俺が翔陽の運命でなくても、絶対に離せないくらい」
「……っ!」

するどい真摯な瞳で、しっかりと目を合わせられ、そんな言葉を投げかけられて、翔陽は観念した様に、気圧された様に、クシャリと顔を歪めてゆっくりと瞼を閉じた。

「……ます」
「?」
「お友達からお願いします」
「……うん」


クレイミングで負けた時点で、翔陽は研磨には勝てないだろうことを悟っていたが、ソレが翔陽の精いっぱいの返答だった。



・・・


音駒高校バレー部の宮城遠征から数日。
研磨と翔陽は欠かさず毎日メールをする仲になっていた。
それでも仲の良い友達と言う枠からは出ずに、研磨は日々やきもきしながら過ごしていた。
もともとあまり真面目に部活をしていた方ではないため、多少気を抜いていてもバレないがそれでも変化に気付く人間はちらほらと表れていた。

「あれ、研磨さんフェロモン変わりました?」
「……リエーフ。そういうの、気付いても言わないのがマナーだよ」
「はーい」

事情を知らないメンバーの中で、最初に気付いたのは音駒高校バレー部唯一のアルファであるリエーフだった。

「で、どうしたんです? 研磨さん今まで変調とかほとんど無いタイプでしたよね?」
「……まぁ、ちょっとね」

研磨は興味半分の質問に答えるべきかどうか少しだけ悩んだ。
リエーフはアルファであるが研磨に危害を及ぼす可能性は極めて低い存在だった。
普通ならオメガがアルファにフェロモンの変化がバレるのは死活問題なほどマズい事態であるがリエーフには既に番がいた。

「大会も近いんですし、何かあったら゛ぁ゛っ……!?」
「おいリエーフ、浮気か……?」

決して大きいとは言えない研磨を、心配するように覗き込む長身に蹴りを入れたのは音駒バレー部のリベロ、夜久衛輔だった。
音駒のオメガは研磨と夜久の二人だ。
夜久は烏野戦の時も正リベロとして試合に出ていたが、誰にもオメガと気付かれることは無かった。ソレは既に先程まで研磨と喋っていた長身の1年生と番っていたからだ。
番ってしまえばオメガはベータどころかアルファにすらそうだとは気付かれない。
勿論、妊娠中の男のオメガならば番っていてもオメガと気付かれるが、そうでなければまず気付かれることはない。

「なっ……そんなことありえませんよ! っていうか嫉妬ですか!? 嫉妬なんですグァあっ……!」

ありませんでは無くありえませんな辺りがリエーフの本気具合を表しているのだろう、と研磨は少し羨ましくなる。
これまで分からなかったが、愛されたいとはこういうことか、と研磨は幸せそうなリエーフと夜久を見て思う。
容赦無く怒ったり、嫉妬したり、自分のモノだって主張したり……。蹴ったりするのは研磨の取る様な行動では無いけれど、遠慮のない関係は見ていて親しさが分かりやすい。
翔陽に愛されたい。
ソレがオメガとしての本能なのか、窮地を助けられた吊り橋効果なのか、研磨自身にも判断が付いてなかった。
それでも、翔陽を自分のモノにしたいという主観的な飢餓感は消えないから、別れる直前にクレイミングまでしてしまったのだ。
もしかしたら、もっと絶好のタイミングがあったのかもしれない。クレイミングをしても完全にはオトすことの出来なかった翔陽の理性を思い出し少し唇を尖らせた。
もっと仲良くなってから……それこそ、ベッドの上とか。

「研磨!」

うっかり思考に没頭してしまっていたらしくぼうっとしている研磨に、ジャレ始めたリエーフと夜久に代わって今度は黒尾が声を掛けた。

「何? クロ」
「いや、ナニじゃねぇよ。部活ん時は集中しろよ。危ねぇだろ」
「まだ始まって無いじゃん」
「それでももうボール出してる奴いんだから気をつけろ」
「……ん」

自身の注意が散漫になっていることは研磨も気付いていた。
今までずっと気になっていた他人の視線すら今は注意しなければ分からない事がある。
それは運命の相手に出会えて浮かれている事だけが原因では無い。
引き金は翔陽であると考えられるが、現在の自身の状況は流石に身体的な異常だろうと研磨は確信していた。恐らく、ホルモンバランスの崩れが主な原因だろう。
番を見つけたオメガは体調が極端に良くなることがある。脳内の伝達物質やホルモンに何らかの影響があるらしい。
ソレと逆の事が今、研磨の身体に起きている。
できるだけはやめに翔陽をオトす必要があると考えて、研磨は無意識に携帯電話のある部室の方を見ていた。


・・・


「……集中、落ちてますね」
「烏野とやった時からな……。あん時は逆にすげぇ集中できてたんだが……」

大会を目前にした不調にコーチである直井と監督である猫又は渋い顔をした。
二人とも研磨の性別については知っているため、今回の不調の原因も何となく察しはついていた。
しかし、ソレはその理由故に二人に何とかできることでは無かった。

しばらくして練習が終わり、いつも通りすぐに支度をして帰ろうとする研磨を見つめ何と声を掛けるべきか二人が悩んでいた時、犬岡がタタッと研磨に近寄って行った。

「研磨さん!」
「……なに?」

元気よく声を掛ける犬岡に、研磨は気だるげに返事をした。

「その後ショーヨーとはどんな感じですか?」

ニコニコと問いかけた言葉は研磨の悩みの核心を突き、同時に数日前に烏野と試合をし研磨と翔陽の関係を知っているメンバーに聞き耳を立てさせた。

「別に……フツ―の友達だよ」

恋人になることを前提の関係ではあるがいつそうなれるかは分からない。
もしかしたら卒業後かもしれないのだ。
東京と宮城では距離がある。
会える距離ならば、フェロモンで意識させてオトすことも可能だろう。
しかし、今の二人は距離にして三百キロメートル、時間では五時間程は離れている。
繋がっているのは電話とメールのみ。しかも、互いの負担にならないためにほとんどメールだけのやりとりだ。
文面だけで人はどれ程人の事を好きになれるのか、研磨には分からなかった。

「えー、結局番わなかったんですか!? お互い絶対好きあってるじゃないですか!!」

大声で驚かれ、研磨は犬岡を睨んだ。
自分の色恋など他人に聞かれたくない。ましてやオメガと言う特殊な性別は人目に曝されるべきでは無いというのがいまだに一般的である。

「犬岡うるさい」
「だって……」
「翔陽は、俺が運命どうかまだ悩んでる。無理強いすることは出来ない」

研磨が翔陽を運命だと確信している事に理由は無い。
ただそうだと思っただけだ。
だから、翔陽が研磨を運命だと確信していないならもしかしたら運命なんてモノは自分の勘違いでしかないかもしれないという事も研磨は理解していた。
それでも、オトして、番にしてしまえば関係なくなるとも思っているが。

「研磨さん、研磨さんはショーヨーの何が好きなんですか?」
「いきなり何?」
「ショーヨーはちゃんと研磨さんのこと好きですよ!」
「は?」

犬岡の言葉に研磨は顔をしかめた。
何故、翔陽に一度試合をしただけの関係でしかない犬岡に、翔陽の気持ちを分かっている様な口をきかれなければならないのか、と。

「ショーヨーは自分のことよりも研磨さんのことを大事に思ってます」
「分かってるよ、そんなこと」

だからこそ、翔陽が納得するまで番になることを強いることは出来ない。
翔陽が自分を想っているように、研磨も翔陽のことを想いたいからだ。

「だから、研磨さんがショーヨーを好きなのは何でですか? 俺は音駒の部員ですし、研磨さんが悪い人じゃない事は知ってます。でも、もし研磨さんがショーヨーのことをアルファだから好きだとしたら、ソレは、俺は違うと思います」
「……」

アルファだから好き。そういった事は無いだろう。
現に、研磨が翔陽よりも先に会ったアルファはリエーフだが彼には何の想いも抱かなかった。
でもソレは、リエーフが研磨の運命では無いからだ。
翔陽は自分の運命だと、研磨は確信している。

「……」

そういう事では無いということは分かっている。
犬岡が言いたいのはそうではない、と。

「すみません、生意気言いました。でも、よく考えておいてください」
「うん、気にしなくていいよ」

自分は翔陽のいったい何が好きなのか。軽いハズの携帯電話が入ったポケットがずしりと重くなった気がした。



・・・


音駒高校との練習試合から数日。
烏野バレー部に特に大きな変化は無く、6月の予選に向けて全員が練習に励んでいた。

「そう言えば翔陽!」
「あ、はい」
「その後、あの音駒のヤツとはどうなんだよ?」

練習の直前、ニカリと笑って西谷は翔陽の肩を組んで捕まえた。そして、少し声をひそめてニヤニヤとした表情を作って声を掛けた。

「なっ……!」

からかい半分のソレに大袈裟なまでに顔を赤らめてから、それでも悪い気はしないとばかりに翔陽はへにゃりと笑顔を作った。

「毎日メールしてます!」

幸せですという表情でそう返され少し面喰った表情をしたが、西谷はまたニカリと笑いグシャグシャと翔陽の髪をかき回した。

「何だ何だー? 付き合いたてのカップルはそんな事でも幸せなのかよー?」

ぐりぐりと頭を撫でて、その可愛らしい交際内容に思わず笑みを浮かべた。
アルファとオメガのカップルと言えばその性質故に爛れた関係に陥りやすく、バレー部の上級生の間では少し心配をしていたメンバーもいたが目の前の純朴な少年にはそんな心配はいらなかったようだ。
勿論、オメガの発情期を卑しいモノと思っているワケでは無い。
しかし、二人はまだ高校生で、被保護者でしかない。早期のアルファとオメガの子作りは政府も推奨してはいるが学生という期間を本能のみに身をゆだね潰してしまう事は避けたかった。
万が一、子どもを授かってしまったらその間は部活は出来ないし、子どもを育てられる程おとなではない。更に、たとえオメガでも成長期の未発達の身体では出産に耐えられる保証も無い。
そんな心配も杞憂に終わったが、こっそりと聞き耳を立てていた3年生と2年生の三人は胸をなでおろした。
一人、田中だけはニカッと笑って「だから言ったじゃないですか! 心配ないって!!」と声を出さすに口を動かした。しかし……。

「え……? おれと研磨、まだ付き合ってませんよ?」

その一言が、和やかな空気の体育館を凍りつかせた。

「は? ちょっと待て、お前等結局付き合わなかったのか!?」

翔陽以外全員の疑問を、傍にいた西谷が大声で聞いた。
少し怒りの混じったソレに、翔陽は苦笑いで応えた。

「はい、だっておれ達まだ出会って数日ですし」
「だってじゃねぇよ! オメガって番がいないと危険なんだろ!? 何やってんだお前!!」

今度は困惑よりも怒りが大きくこもっていた。
西谷はベータであるが保健の授業でオメガとアルファの事は聞いていた。ベータでさえ惑わされるというオメガのフェロモンは性犯罪にあう確立を倍以上に引き上げることは常識である。
そんな状態から唯一オメガを助けられるのは番のアルファだけである。
そう分かっているから、西谷の怒りは翔陽を含めその場の全員が理解できることだった。

「ノヤさん」

ソレは翔陽も分かっている事で、それでも譲れないモノがあった。

「おれも、研磨にとって危険ですよ」
「っ!」

オメガに、望まない性行為を強要するのは他人だけじゃない。
オメガにとって安全なのは、フェロモンが効かない同じオメガだけである。
運命だと、そう言われても、翔陽には自分が研磨を助けられる唯一の存在だとは思えなかった。

「ベータよりもアルファの方がオメガのフェロモンには負けます。ソレは、全オメガに対してです。研磨にだけじゃないです。おれは研磨を裏切るかもしれません。ソレに、研磨が望まないことを強要する可能性だってベータよりも高いです」
「……」
「そうじゃなくても、今は研磨が俺を望んでくれていても、もしかしたら、もっとアイツに相応しいアルファがどこかにいるかもしれません。その時、すでに俺が番っていたら、アイツはソイツの元にはいけません」

オメガにとってアルファと番うのは人生に一度だけだ。
例え、ソレが間違いだとしても、オメガはやり直せない。
真摯な瞳でそう言われてしまえば、西谷に言い返せることは無かった。
いつもは子どもっぽい、高校生と言うよりは小学生の様な行動や表情の多い翔陽の本気を見て、ソレを否定できる人間はこの場にはいなかった。

「まぁでも、あと3か月以内には何とかするつもりです!」

重くなってしまった空気を変えるように、翔陽はニッと笑った。
ベータは黙っていろとは言わず、普段はあまり読まない空気を読んで、それでも譲れないものを持った翔陽を完全に理解できる人間はこの場に一人しかいなかった。

「……おい、ボケ日向! もう練習始まっぞ!! テメェ、へたくそのクセに喋ってんな!! ボケェ!!」

いつも通りの怒声で、翔陽を怒鳴りつけたのは影山だった。
翔陽に先に話しかけたのは先輩である西谷であり、その他黙認していた他の上級生への意味も含まれてしまいそうな内容であったが、影山は構う事無く西谷から翔陽を奪った。

「あ、お話し中にすみませんっした。でも、コイツ連れてくんで」
「お、おう。いや、ちょっと話すつもりが案外話し込んじまって悪かったな!」

話を長引かせて、これ以上空気を悪くすることは西谷には出来なかった。そして、影山なりのこの場全体への気遣いを無下にすることも。
せめて、一言謝りたいとは思ったが今はそのタイミングでは無い事は西谷にも理解できた。
いつもなら、謝罪を保留するなんて格好悪い事はしないが、自分には理解できない事を理解したふりも、西谷には出来なかった。
練習が始まると、その前のゴタゴタはが無かったかのようにいつも通りだった。
ソレは敢えてそのことに触れない様にした部員達のお陰でもあり、部活の時はバレー以外の事を考えていないせいでもあった。

「……」

しかし、そうも言っていられない人物は一人いた。

「おい、影山、部活終わったら話があるから後でちょっと来い」
「……ウッス」

監督の声に低く返事をして、影山はまた練習に戻った。

 


・・・


「勘違いだったら悪ぃ。こんなこと俺が首突っ込むべきじゃないかもしれんが聞かせてくれ」

部活後、他の全員が下校し、その場に他に誰もいない事をかくにんしてから、鵜飼はそう影山に頼んだ。
真面目な表情でそう言われ、影山は無言で続きを促した。

「お前さぁ、もしかして日向のこと好きか……?」
「……」

気まずそうにそう聞かれて、影山は少しの間、逡巡する様に視線を巡らしてから口を開いた。

「……最初は日向がオメガで、俺の番だったら、とは思いました。俺のことを肯定して、理解して、コイツは特別なんだって、思ってました」

はっきりとした口調で、そう告げる影山に鳥養は苦虫を噛み潰したような顔をした。
もともと、仲が良いとか、そういう次元じゃない絆の様なモノを鳥養が監督を任された時に、この二人に感じていた。

「高い運動能力、反射、自分の身体を操るセンス、勝利への執着、全てを持っていて、俺の期待に応えられる、唯一の人間だと思いました」
「でも、日向の身体能力はアルファだからだろ?」
「……いえ、アルファだから日向なんじゃなくて、日向だから日向なんだと思います」

アルファとして生まれて、アルファとして育つ。
確かにそうかもしれない。しかし、影山と翔陽は、アルファである前に影山飛雄と日向翔陽である。
例え、二人ともアルファとして生まれていなかったとしても、影山はこうして日向と出会い戦い、そしてコンビを組んでいただろう、と影山は確信していた。

「西谷先輩みたいに、ベータだって凄い人はいます。俺は知りませんけど、アルファでも普通以下の奴はいると思います。あと、オメガの凄い人、一人知ってますし。日向が中学の時、俺達は敵で、アイツはヘボで、アレだけの身体能力を持っていて、何をやっているのかと正直、腹が立ちました。その時、俺は暴言も吐きました。でも、それでも腐らずに、俺を倒すって言ってきたんですアイツ。アイツをアイツたらしめたのはこれまでのアイツです。だから、アルファとか、そういうの関係ありません」

キッパリとそう言い切られ、鳥養は何と言ったものか迷った。
普段はあまりそういった雰囲気は見せないが、影山は随分と翔陽を認めていたらしい。しかし、鳥養から見て、その感情は危険なモノに見えた。

「……。そうか」

人の感情はどうしようもない。
しかし、ソレによって何か大切なものが壊れてしまう事は避けたかった。

「アイツの言葉に俺は救われた気がしました。アイツの屈託のない言葉や、真っ直ぐな目はアルファのモノでは無く、アイツのモノです」
「だがな、アルファどうしは……」
「え……? ちょっと待ってください。別におれ、アイツと番いたいとか思ってませんよ?」

深く息を吐いてから、影山の想いを否定しない様に、言葉を選んでいると影山は不思議そうに鳥養を見た。

「え?」
「え……あ、最初の質問に答えてませんでした。俺は人として、同じアルファとしてある程度認めていないということは無い事は無いですけど、今は恋愛対象とは思ってません」

今は、ということは以前は思っていたのか……鳥養が不安になると、影山は少し嫌そうな表情を浮かべた。

「ホントに、最初はアイツが俺の番だったら完璧かもしれないとか思いました。正直で、同じバレー馬鹿で、番だったら申し分の無い相手だって。でも、所詮ソレって都合が良いってだけなんですよ。アルファなんてクソみたいにめんどくさい性別で、唯一このワケの分からない飢餓感を満たせる運命の相手なんてものがいるとしたらバレーの邪魔にならない奴が良いって」

色恋よりもバレーを優先させたいということらしい。
一緒にバレーをする仲間がそのまま人生の伴侶だったら楽、という価値観に安心して鳥養は苦笑いをした。

「お前なぁ……」
「今なら、ソレがもったいな事だって分かります。まさか、目の前に運命の番なんてのがいる奴に出会うとは思ってませんでしたけど。たぶん、日向ならあの音駒のセッターと上手くいきますよ。一生を共にする相手に、日向は申し分が無いってのは俺が保証しますし。あの試合中や試合が終わった後、おれ、日向とあのセッターの両方から敵視されてたんですけど、俺に嫉妬してるぐらいならさっさと番えばいいと思いましたし……」

その時の敵意を思い出したのか、眉間に皺を寄せて、影山はかなり嫌そうな顔をした。

「おれにはまだ分からない感覚ですけど、あんだけ他人を好きになれるってすごい事だと思います。アルファなんて、オメガに振り回されて、性犯罪の加害者になる時は一瞬ですし、思春期を超えたら理由の分からない心のどっかに穴でも空いてるみたいな不全感にずっと支配されますし、努力しても生まれのせいにされますし、全然良い事ないって思ってました。でも、もしあんな風に愛し合える相手がいるんだとしたら、悪くないかもしれないって思います」

試合中も、試合後も、鳥養には翔陽と研磨はお互いにあまり意識をしていない様に見えた。
ソレを愛し合っていると、影山が表現したことを不思議に思う。

「あ、ベータだと分かんないかもしれないんですけど、実はあの時フェロモンがヤバい事になってました。フェロモンって不可視なんですけど一部のアルファだと若干見えるみたいなんですよ。あの時、日向のフェロモンがあのセッターを覆うように出てましたし、セッターの方は明らかに俺を避けてる感じでしたし……」

呆れている様な、怒っている様な、微妙な表情からベータの目からは分からないがあの二人がバカップルなことが予想できて安心する。
影山が傷つくことなく、あの二人が番になれるならそれ以上のことは無い。

「でも、アイツ等が幸せになれるならそれで良いと思います。同じアルファとして、アルファの持ってる不全感は分かります。もしこれが解消されるなら俺は何だってしたいです。まぁコレがアルファとオメガの間での犯罪の原因でもあると思いますし、日向が不安に思っている原因だと思いますけど……。ベータが口を出すなとか言いたくありませんけど、俺達アルファだってアルファだから不利な事もあることを、俺は理解できてて、ソレが今、アイツを理解してやれるなら、俺はアルファで良かったと思います」

まだ鳥養がバレー部の顧問はしていなかった時、影山は日向の言葉に救われた。その時から、表に出しはしなくても影山は翔陽を人として認めていた。
そして、今その時の恩を返せる。
そう、言外に言われた気がして鳥養は自分の早とちりを恥じた。

「あー、妙な事言って悪かったな」
「いえ、アルファとオメガの問題は当事者以外分かり難いとは思うので……」

世の中にはどうしようもない事はあると分かってはいるが、まだまだ子どもである愛着ある生徒たちの役に立てない事が鳥養には歯がゆかった。
生まれた時から背負うモノが違っている。そう言われた気がした。

「それに、少しくらいはあのセッターに日向を取られるの癪だと思ってはいましたしね……」

少し唇を尖らせた表情はまだ幼く、よく見ればソレは友達に恋人が出来たばかりの少年の顔だった。



・・・

 


5月某日、朝。
……RRRRRR
「はい、もしもし……。え……? はい、わかりました。翔陽! 翔陽!?」
「なーに? 母さん」
「ゴメン、今日学校休んで。東京行くわよ。おばあちゃんが亡くなったって!」
「え……?」

日向翔陽に大きな影響を与えていた人物が死去した。

宮城県から祖父母の暮らす東京へと駆け付けた時には、既に祖母は亡くなっており、その夜には通夜、そして明後日の葬式に参列してから帰ることになった。
その3日間は祖父母が二人で暮らしていた家に宿泊することになって、学校と部活を休むことになった。
大会を目前にした今、なるべく部活は休みたくなかったが二等親の葬儀に出ないわけにもいかず、葬儀屋の予約の関係で一日伸びてしまうのも辛いが、翔陽にはどうしようも無い事だった。
家中がバタバタしている中、まだ幼い妹の面倒を見ているという仕事はあったし、不平を言える雰囲気でも無く、そもそも聞き分けの良い方である翔陽は淡々と祖母の死を受け入れる準備をしていた。

亡くなった翔陽の祖母は、翔陽と同じくアルファだった。
そして番であるオメガの祖父と結婚し、今朝、齢86でこの世を去った。
祖父は未だ健在で、祖母の最期を看取り、通夜や葬儀を取り仕切っていた。
くるくると働く祖父を見ながら、翔陽は祖母を思い出していた。
祖母はアルファらしいアルファだった。背が高く、凛としていて、リーダーシップがある。決断力もあり、性格は厳格、仕事が出来る女性だったが武道も嗜んでいたらしい。
対して、祖父は今でも可愛らしい感じの人だ。
古典的なオメガのタイプは2つかあるらしく、庇護欲をそそる様な儚げな人と、逆に雄を手玉に取ってしまう様な妖艶な人……。祖父は分かりやすく前者だ。
常に一緒にいて、幸せそうで、孫である翔陽の目から見てもお似合いな二人は、それでも運命の相手では無かったらしい。
翔陽には何がいけないのか分からなかった。
そんな事を考えたり、忙しそうな大人たちの代わりに夏と料理を作ったりしているうちに刻一刻と時間は過ぎ、気が付けば通夜の始まる時間となっていた。
祖母の通夜は粛々と執り行われ、泣いている大人たちも多くいて、翔陽はまだ現実感の無いまま淡々と焼香を終え、喪主である祖父の挨拶を聞いた。
挨拶をしている間も、祖父は泣かなかった。
感極まった他の遺族が目元をおさえ、嗚咽を漏らす中、祖父だけは凛とした声で、しっかりと全ての挨拶を終えた。
その様子は今まで思っていたか弱いオメガ像とは違い、翔陽には祖父が強い人に見えた。
そして全ての挨拶が終わり、通夜振る舞いの席で、翔陽は母と妹に挟まれる形で座り、あまり知らない親族の話す祖母の話を聞いていた。
祖母と翔陽は同じアルファであるが、他の親族は祖父と妹がオメガである以外は全員ベータらしく、少しだけ好奇の視線で見られている気がして、翔陽は夏を隠すように座り直す。
そこまで明け透けな事は言われないだろうと思っていても身内であるというだけで余計な口を出す輩もそれなりに多く、夏が生まれてから親戚付き合いが減ったことを翔陽は知っているため気は抜けなかった。
通夜振る舞いは故人をしめやかに偲ぶ席であるが、お浄めの意味でのアルコールが入るためだんだんとワイワイと話しだして、結局、気乗りがしないまま翔陽も親戚の話に入ることになってしまった。

「そう言えばお前さんはあのばあさんの直系の孫だったなぁ……」
「あ、はい」
「あの人は若い頃そりゃあ綺麗だったんだぞ、仕事が出来て品行方正で、そこにいるじいさんとの結婚式なんて新郎と新婦が入れ替わったみてぇでなぁ……」

ちょうど翔陽の前に座っていた60代後半くらいと思しき男性が、少し酔ったように頬を赤らめて、思い出すように言った。

「そんとき俺はまだガキだったがこんな幸せになれんのがアルファとオメガって人種なのかって本気で羨ましかったね」
「そう、なんですか」
「でもまぁ、そのせいで後で何かゴタゴタがあったって話もあったから何とも言えねぇが、お前さんもアルファならそのうち化けるかもなぁ」
「そのうち化けるって……俺、今でもカッコイイですよ?」
「お、言うじゃねぇか坊主」

冗談を挟みながら話せば、やはり親戚の多くが故人と翔陽を重ねて見ているらしく、翔陽に祖母のアルファゆえのエピソードを聞かせる大人は多かった。
しかし、ちょこちょこ話の隅にあがるゴタゴタというのは通夜振る舞いの席故に翔陽が詳しく知ることは無かった。
お経を拝みに来てくれた住職が帰って、比較的近くに住んでる親族も返って、結局家に残ったのは日向家と日向の祖父だけになった。
片付けも終えて、その頃には夏も慣れない状況に疲れてしまったらしくうとうとしていて、棺守りは翔陽と祖父、日向夫妻のペアで行うことになった。
普段あまり話さない祖父と二人きりという状況に少し緊張したが、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かな空間で、やっと、翔陽は祖母が亡くなったことに現実感を覚え始めた。
ぼうっと棺を眺めて、翔陽は祖母のイメージでは無い、実際のエピソードを思い出した。
翔陽が生まれた時、祖母はとても喜んだらしい。
そして、3歳児検診でアルファだと分かってからは特に世話を焼いてもらったらしい。実際、幼い頃の記憶では祖父よりも祖母に遊んでもらった記憶が多い。
同時に、多くの事を躾けられた記憶もある。
そして、アルファとして生きていく事への心構えの様なモノも全て祖母から教わった。
未だに、運命の是非は分からないままではあるが、この祖母のお陰で、翔陽は研磨に危害を加えること無く出会う事が出来たのだと翔陽は思った。
夏が生まれ、親戚からアルファとオメガの兄妹を育てることを両親が非難された時も、祖母が味方になってくれた。他の親族と疎遠になっても、祖母と祖父だけは日向家の味方だった。
そう思いだし始めてしまうと、次から次へと厳しく、そして優しかった祖母の思い出が溢れて、翔陽はツンと鼻の頭が痛くなるのを感じた。
目に涙の膜が張って、顔が熱くなる。
一筋ソレが零れてしまえばボロボロと溢れ、翔陽の頬を濡らした。
鼻をすすり、嗚咽を漏らす翔陽に、祖父がゆっくりと近付いた。

「……?」

ふわりと翔陽の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でた。
驚いて翔陽が見上げれば、今日一日ずっとしっかりとした態度で仕切っていた祖父がくしゃりと顔を歪めていた。

「君は、あの人によく似ているね」
「ばあちゃんに?」
「うん、君は彼女によく似ているよ。彼女も、泣くときはそうやって大粒の涙をボロボロと零していた」

そう言う祖父も、目にはうっすらと涙の膜が張っていた。

「ばあちゃんも泣いたのか?」
「あぁ、彼女は強い人だったが、かわいい人だったからね。よく泣いたよ」

翔陽には祖母が泣くというのは想像がつかなかった。
翔陽の知る祖母は強く、おおよそ泣いたりなどする人では無かった。

「今日は君に辛い思いをさせてしまってごめんね。でも、親戚連中を恨まないでやってくれ。確かに君と彼女はよく似ている」
「そう、ですか?」
「あぁ、見た目もそうだが仕草とか表情がね。だから、性別のことについてもつい口を出してしまったのだと思うよ。アルファと言うのは彼女のアイデンティティの一つだったからね」
「あいでんてぃてぃ……?」
「特徴って思ってくれればいいよ」

通夜振る舞いの席で、確かに翔陽は親戚からアルファという性別について色々と聞かされた。
しかし、ソレは一派的なアルファの事では無く祖母の特徴の一つでありソレに関連したエピソードだった。そのため、そこまで傷つく様なことも無かったが謝ったのは多感な年ごろの少年には何が心に引っ掛かるか分からないだろうという祖父の配慮だった。

「彼女はとてもアルファらしいアルファだったからね。運命の相手を番にしなかったこと以外は」
「あ……!」
「ずっと気になっていたんだろう?」

少し困った様に笑って、祖父はしっかりと正座していた膝を崩した。

「おそらく、君もそろそろ番とかそういう問題にあたる頃だよね。ずっと彼女は君に運命の相手のことを言っていたから、もしかしたらそれを気にして番う事に臆病になっているかもしれないと思ってね」
「え、どうして分かるんですか!?」
「ふふ、なんとなく、ね」

先程まで泣いていた翔陽が涙をぬぐって祖父の話に食いつくと、祖父もまた先程の涙をぬぐい笑った。
その笑顔は穏やかで、孫である翔陽ですら綺麗だと思う程だった。

「僕らが結婚したあとにね、彼女の運命の相手と出会ってしまったんだよ」
「運命の相手ってホントに分かんの?」
「僕には分からなかったよ。でも、彼女と運命の人にはなんとなく分かったみたいだね」

昔を懐かしむ様にそう言う祖父は、その話す内容に反し穏やかであった。
翔陽が相槌を打って話を促すのを見て、また続きを話しだす。

「運命の相手はまだ番がいない状態で、当時まだオメガの扱いが酷かったからね、彼女を見つけた途端に泣きだして求婚したんだ」
「え……」
「でも彼女は既に僕と番い済みだったからね、ソレを受け入れることは無かったよ」

祖父は少し嬉しそうに頬を綻ばせた。

「あの時は捨てられる覚悟もしてたから、とても嬉しかったなぁ……」
「その、ばあちゃんの運命だったオメガはどうなったの?」
「彼女の伝手で他のアルファと番になったよ」

それでも、運命の相手に番として選ばれなかったショックは大きかったようで、相手が見つかり、番うまで祖母の運命の相手はどんどん憔悴していったらしい。
その様を間近で見ている間、祖母は心臓が締め付けられる様な気持ちを味わったらしい。
たとえ番でなくとも、運命の相手を苦しめるとはそういうことらしい。そして、祖母の運命の相手が味わった絶望や苦しみは祖母の感じたソレの何十倍であることは祖母も理解していた。

「彼女は意志の強い女性だった。僕と番ったことを後悔してるとは絶対に言わなかった。でも、だからこそ、彼女は彼女の運命と番わなかったことを後悔できないことに罪悪感を感じていたみたいだ」

自分の運命の相手が辛い思いをする選択をしたことを後悔出来ないことに罪悪感を覚え、たとえ番である祖父を捨て運命を選んでも絶対に後悔する。
運命でない相手と番うとはそういうことだ。

「……きっと、君には辛い思いをさせてしまったね。彼女に色々と言われていただろう? アレも彼女が君に辛い思いをして欲しくなかったからだ。許してやってくれ」
「……じいちゃんは、ばあちゃんと番ったこと、後悔してる?」
「いや、幸せにしてもらったよ。彼女の罪悪感を最後まで取り除いてあげられなかったことは残念だったけどね……」

困った様に笑う祖父はやはり綺麗で、翔陽はもしかしたらオメガとはそういう生き物なのかもしれないと思った。
祖父と孫である以上どうなるということは無いが、綺麗だと思うことに変わりはない。
それでも、研磨に感じた様な圧倒的焦燥感の様なものはなかったけれど……。

「これから、君は後悔する選択をするかもしれない。誰かを不幸にするかもしれない。でも、これだけは覚えておいて。僕らは人間なんだ。愛し合った者同士が結ばれて、幸せになれないことなんて絶対にない。運命だけが幸せになれる唯一の道じゃ無い」
「……」
「実はね、この事を話すために君とペアにしてもらったんだ。このままじゃ彼女も安心してあっちに行けなさそうだしね」

ふわりと笑う祖父を見て、翔陽は自分の覚悟が決まっていくのを感じた。
祖父に礼を言ってから、チラリと時計を見ればまだ22時半で、この時間なら連絡を取っても大丈夫だと判断して廊下に出た。








……RRRRRR



「あ、研磨? おれ、翔陽だけど……いま時間大丈夫? 今、東京にいるんだ。明日、会える?」



・・・


翔陽の東京滞在二日目。土曜日。
音駒バレー部の練習は午前まで、研磨が翔陽に呼び出されたのはその後だった。
本音を言えば、今、研磨は翔陽に会いたくは無かった。
ソレは犬岡の言葉のせいでもあるが、研磨自身の迷いのせいでもあった。

自分は翔陽の何が好きなのか。

翔陽の傍にいるのはきっと心地が良い。
甘酸っぱいリンゴの匂いがして、アルファのフェロモンに包まれてしまったら、研磨はもう何も考えられなくなってしまうだろうと思っていた。
ソレがオメガという性別の本能であるから仕方が無い。
でも、もし翔陽が既に答えを出してしまっていて、今日、番う気でいたら研磨はもう一生翔陽の何が好きなのか分からなくなってしまう気がした。
そんな不安と当時に会いたいという欲もあり、会わないという選択肢はその欲に敗けてしまった。

時刻は午後12時半。
音駒高校の最寄り駅の改札で待ち合わせ。
無事落ち合えたら適当な店に入ってお昼ご飯。そこまでは決まっているけど、その後どうするかはまだ未定。
ヒート中のオメガを目の前にしてもギリギリ理性を保っていられた翔陽のことだから、研磨が望めば番うのを延期にはしてくれるだろう。
そもそも、オメガとアルファが番う時はヒート中が多い。ソレは機を見た結果なのか、本能に身を任せてのかは分からないが、場合によっては番う事によってヒートの周期が狂い、即座に発情期に入ってしまう事もあるらしい。

恐らく、性に関して慎重な翔陽が今日番うということは無いだろうと思ってはいても、やはりまだ会うのは怖かった。

会いたい。

でも、会えば分からなくなってしまうかもしれない。
研磨の不安を余所に、待ち合わせの時間は刻一刻と迫ってきて、ガタゴトとホームに電車が入ってくる音が聞こえた。
しばらくして、研磨は電車から降りる人の波の中に明るいオレンジ色を見つけ、同時に翔陽も研磨を見つけた様でニコニコしながら周りの迷惑にならない程度に駆け寄ってきた。

「ごめん、待った!? っていうか久しぶり!!」
「んーん、そんな待って無いよ。っていうかこの電車に乗ってくるって知ってたんだし」

太陽の様な明るい笑顔にふわりと香るリンゴの匂い。
少しクラクラする頭と、鼓動を早める心臓。
ソレを表に出さない様にしつつ駅から街中へと歩みを進めた。
某有名チェーン店のファミレスに入って、ちょうどお昼時だから混んではいたが窓際隅っこの二人席がちょうど空いていたらしくすぐに案内された。
ランチセットにデザートをつけて、大柄とは言えない二人だが高校の運動部員であるからそこそこの量を食べる。
近況報告をしながら食べていけば、最後のデザートに行きつくのにそう時間はかからなかった。
研磨が注文したのはシナモンの掛かったアップルパイで、翔陽のはチョコレートのパフェ。
一番上にのったブラウニーが美味しそうで、研磨が少し視線を遣っていると翔陽はニカッと笑って差し出した。

「食う?」
「いいの?」
「おう、代わりにそっちの一口ちょうだい?」
「うん」

サクサクとしたパイ生地を切り分けて、とろりとした中身が零れてしまわない様に注意しながらフォークにさして、どうしようかと研磨が翔陽を見れば翔陽はニコニコしながら口を開けていた。

「……」

コレはいわゆる「あーん」というヤツを要求されているのか、と少し躊躇してから丁寧に口に運べば嬉しそうに咀嚼した。
リンゴが熱かったのか口元を抑えつつ、ハフハフと息をする様はアルファなのに可愛くて、研磨はふんわりとした気持ちになった。
ソレを隠すように、ちょっと不機嫌な表情を作って声を掛ける。

「翔陽、ブラウニー」
「おう、はい。あーん?」
「……」

ちょいっと指でつまんだブラウニーを口許に持ってこられれば咥えるしか無く、気恥ずかしく思いつつも差し出されたソレに口を付けた。
翔陽はソレを確認して満足そうに笑ってから、指先にチョコレートがついていたのか少しだけ唇を尖らせて自分の人差し指と親指を食んだ。

「……っ」

どうして自然にそういう事をしてしまうのだろう、と不思議に思いつつ、研磨はそんな様子にドクドクと心臓を高鳴らせて凝視した。
視線を感じたのか指先から視線を離して研磨を見て、少し不思議そうな顔をした後、笑った。

「研磨エロい顔してるー」
「……翔陽のせいじゃん」

通常、フェロモンで相手を誘惑するのはオメガの専売特許だ。
アルファにソレが出来ないということは無いが、そんなことをしなくても多くのアルファにはオメガ、ベータ問わず人が寄ってくるため、フェロモンを使う事も無い。
なのに、翔陽は無意識ではあるもののフェロモンさえ使わず研磨を誘惑した。
ソレが少し悔しくて、むくれて見せる。

「翔陽は俺をどうしたいのさ……」

攻略してやろうと思っていたのに、いつの間にかオトされていた。
そんな心境だった。

「……実はさ」

不意に、翔陽の声が真剣になった。

「こないだ、先輩に研磨の事で怒られたんだ。研磨達は色々と危ないから、大切に思うならちゃんと守ってやれって」

場所が場所だからか、第二性についてはぼかしながらだが、その内容を研磨は理解することが出来た。

「でも、俺、自信が無かったんだ。むしろ俺が、研磨のこと傷つけることになるかもしれねぇ、って」
「でも、俺は……」

翔陽になら何されてもいい。そう続けようとして、遮られた。

「うん、研磨の覚悟は知ってる。でも、おれは研磨を傷つけたくない。俺んちは、俺と同じのはばあちゃんだけで、研磨と同じのは妹とじいちゃんだけ。俺は妹を守らなきゃいけないって思ってきたし、ばあちゃんに結構厳しくしつけられてきた。だから、間違いは起こしちゃいけないって……」

少し心配になって翔陽が息をついたのを見計らって時計を見れば、時間はお昼時を終えて、周囲の客も疎らになっていた。
だからと言ってあまり油断も出来ないけれど、今なら込み入った話をしても大丈夫だった。

「でもさ、ソレって、おれの事情でしか無いんだよね。研磨が俺をどれだけ望んでくれてるとか、考えれて無かった。ごめん」
「ううん、俺こそ自分の事情しか考えてなかった。こないだ、犬岡に言われたんだ。おれは翔陽の何が好きなのかって、オメガだからとか運命だからとかソレは翔陽に失礼なんじゃないかって」

犬岡に悪気はない事は分かっている。翔陽と俺が後悔しない方を選んで欲しいって思ってくれてるのも分かっている。

「だから本当は今日、翔陽に会うの怖かった。翔陽に会ったら、翔陽のこと、好きなの分かんなくなっちゃうかもって……」

少し落ち込むようにそう言って、研磨は机に突っ伏した。

「翔陽はすごいね、俺がクレイミングしても出来なかったこと、フェロモンも無しにしちゃうなんて」

少しむくれた様に、上目で翔陽を見れば少し困った顔をして笑った。

「……そんなことないよ。おれは、研磨みたいに、この先ずっと一緒にいる覚悟とかできてなかったもん」
「でも……」
「うーん……ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」

でも、ソレは研磨が翔陽を運命だと勝手に確信して、深く考えることも無く欲していただけだ。そう言おうとした研磨の言葉は翔陽に遮られた。

「おれは、おれが研磨を世界で一番幸せにできるって自信なんか無いし、いつか現れる研磨の運命やおれの運命に、自分が思った、研磨を好きだって感情を全部覆されるんじゃねぇかって怖かった」

翔陽はずっと困った様な表情のままそう弱音を吐いて、不意に、真剣な顔を作った。

「もし、研磨の本当の運命の相手が現れた時、おれは、研磨を手離せ無い。研磨が一番幸せになるハズの選択を選べない」
「……翔陽の運命は俺だし、俺の運命は翔陽だよ。俺はそれしか信じるつもりは無い。だから、翔陽が俺を手離す必要だって無い」

同じように真剣な表情でそう言うと、翔陽はまたちょっと困った様な表情になって、手を差し出した。

「うん。でも、まだ不安なんだ。なぁ、もしおれと不幸になってくれるなら、この手を取って欲しい。そしたらもう、離せないから」
「安心してよ。翔陽が俺の事捨てるなんて思えないくらいメロメロにしてあげるから。万が一、俺が翔陽の運命でなくても、絶対に離せないくらい。って前にも言ったよね」

翔陽はまだ俺の魅力がわかんない? 差し出された手を取って、そう強気な目で見つめて、視線を絡ませれば、以前は照れた様に逸らされた視線が、今度はしっかりと絡み合った。

「俺ね、翔陽の男前な所が好き。俺の幸せを一番に考えてくれる優しいとこが好き。可愛くて、カッコイイ所が好き。俺、翔陽と一緒だったら絶対に不幸になんてなれないから」
「うん、おれも、研磨のこと大好き」

翔陽がそう口にした途端、のどに、胸に何かが痞えて、呼吸すら忘れてしまいそうな激情が体内で暴れる様な感覚がして、鼻の奥がツンッと痛んで、目に水の膜が張って、研磨の視界を暈した。
強制的に合わなくなった視線で、研磨は翔陽に敗けたことを悟った。

「俺、ずっと、翔陽に愛されたいって思ってたんだ」

ボロボロと収まり切らなくなった涙が零れて、頬に伝う。

「うん、待たせてごめんな。でも、もう逃がさないから」
「うん……」

指先で顎から落ちそうになった涙を拭って、翔陽はくしゃりと表情を崩した。
見れば、少し頬が赤くなっているようだった。

「もー、泣くなよ。此処ファミレスだからなー」
「……泣かせる様なこという翔陽が悪い」

研磨が少しむくれる様に言えば苦笑いが返ってきた。

「じゃあさ、研磨。驚いて泣き止むかもしれないこと言っていい?」
「なに?」
「研磨は俺を抱く気ある?」
「え……?」

思いがけない言葉に驚いて、確かに涙は引っ込んだ。
しかし、何故そんなことを翔陽が言い出したのか分からず小首を傾げた。

「おれは、研磨になら抱かれても良いと思ってる」
「え、でも、翔陽はアルファで……」

通常、オメガとアルファならば同性であってもその役割は決まっている。
アルファがオメガを抱くのだ。
ソレが自然とされ、ヒートの熱を収める最良の方法とされている。

「でも、研磨は男だ」
「!」
「おれも男だし、アルファだけど、俺は研磨に抱かれたい。もちろん、研磨のこと抱きたいけど、ソレは今じゃ無くていい。オメガとアルファがセックスして、子どもが出来る確率はほぼ100%。避妊具をつけても絶対とは言えないし、一生一緒にいるにしても、俺は研磨には研磨の人生歩んで欲しい。万が一のことでも研磨の人生を奪いたくは無いんだ。正直、おれは発情期の時にちゃんと避妊できる自信は俺には無い」
「……」
「だから研磨、発情期の時は俺を抱いて?」

少し照れたように小首を傾げる翔陽はあざといくらいに可愛らしく見えて、ソレが上手くいくかは分からないがしてみたいと思った。
ソレがどんな形だろうと、翔陽が自分のモノになればソレでいいのだ。

「……うん」

責任感が強く、研磨のことを一番に考える翔陽の愛の形がそうならばソレが一番なのだろう。

「研磨はさ、俺に愛されたいって言うけど、俺だって研磨に愛されたいんだぜ? おれ達男同士だし、こんな性別じゃ無かったらこんな関係にはならなかったかもしれないけどさ。そうじゃくても、おれは研磨のこと好きだって示したいんだ。あと、コレでおれ、研磨以外じゃ絶対満足できなくなると思うし」
「……そんな保険かけなくても、メロメロにしてあげるのに」
「いーの! おれが抱かれたいんだから!」
「……」

太陽の様に明るい笑顔でそんな事を言われてしまえば反論などできず、この恋人には一生敵わないのだろうと研磨は思うのだった。



END