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後編

花垣武道は変な女だった。

けして手入れが行き届いているとは言い切れない、それでもふわふわとした金髪。キラキラと輝く大きな瞳はクルクルと色を変え、溌溂とした物言いは活発な少女らしく彼女を彩った。
そんな影の無い少女は、時々酷く大人びた表情かおをする。

聞けば、武道は八戒の所属する東京卍會に性別を隠して入っているらしい。そんな不良少女に影の一つもない方がおかしい。
更に言えば、武道はオメガで、きっと幼い頃からオメガとしての役割を期待されてきたのだろう。彼女の輝く瞳には、意思の強さとともに諦観が宿っていた。

しかし、それだけではないモノがある、と柚葉は思う。

ただの擦れた少女ではない落ち着きと、母性の様なものを感じる瞬間があった。一つ年下の少女に母性を感じるなどおかしな話だと思いつつも、武道の自分たちを見る目が穏やかで微笑ましいものを見るような色をしている様に感じる時がある。

そんな武道に惹かれたのはどこか亡き母の面影の様な物を感じたからだと、柚葉は思っていた。

勿論、顔立ちは全く似ていないし、病弱だった母の儚さを武道は全く持っていない。
ただ一点、オメガという共通点しかない。

しかし、その優しげな目が、母親という生き物をふとした瞬間に連想させた。

デートを繰り返すうちに元気で少し生意気な少女と母性的なオメガの部分に“良いオンナ”だと思った。将来結婚するのに相応しいと値踏みをしていた。
柚葉はあくまでもアルファであり、柴家の人間選択する側だった。

それが変わったのが大寿率いる黒龍と邂逅した時だった。

今まで、暴力的な兄から弟を守ってきた。
だから、伴侶になるであろうオメガを守るのも当然だと思っていた。

住宅地で刃物を取り出す馬鹿イヌイを蹴り倒し、オメガの前に立つ。
自分は婚約者でありアルファなのだ、守る側である、と。

殺気立ったその場で、柚葉は自分の“役割”を演じる事しか考えられなかった。
そこに、穏やかな笑みを浮かべ、一歩、柚葉の前へと歩み出たのが武道だった。

ナイフを持った男の前に、柚葉を庇う様に立つその姿は母親でもオメガでもなく、花垣武道だった。

この少女がどんな存在なのかは八戒に聞いていたため知ってはいた。副総長を守るためにドスを持った男と対峙し、敵チームに寝返った壱番隊隊長を守るためにナイフを持った男の間に割って入った。
そんな逸話があって、今は壱番隊隊長代理をしているという。

そんな女が、婚約者が刃物を向けられて黙って逃げるワケが無かったのだ。

生意気な奴だと殴られるかもしれない、刺されるかもしれない。そんな事は一切気にしてはいない様子で、勝算すらある風だ。
確かに、武道の言う通り、黒龍が武道に危害を加えれば困るのは大寿だった。ソレを馬鹿がどのくらい理解しているかは分からないが、理屈としては間違っていない。
しかし、危険な橋を渡っている事に変わりはない。

コンビニに行ったという大寿が来るまで、黒龍の隊員が武道に危害を加えないか、そればかりが気がかりだった。
そんなことになれば大寿が黙ってはいない。父がどんな反応をするかも分からない。守れなかった自分に責任と叱責と暴力が来る事は確定している。

なにより、自分を守ろうとしてくれた少女が傷つくのが耐えられない。

初めて会ってからデートを繰り返すこと数回。
少し母親の面影を感じるオメガだと、嫁にしても良い相手かもしれない、とそんな風に思っていた。

それが、崩れていく。ただのオメガだった相手が、花垣武道という人間に変わっていく。
高揚とも焦燥ともつかない何かがグルグルと胸の辺りを彷徨い、脳みそに到達する頃にソレは恋に変わっていた。

大寿が来て、一触即発の空気のまま花垣と大寿の交渉の様な口喧嘩の様な会話の間も、柚葉は口を出すことができなかった。
大寿への恐怖で思考が停止している脳に、武道という劇薬が流し込まれた。状況を見守るしかできない自分が歯がゆいのに、前に立って守ろうとしてくれる少女への恋慕が高まっていく。

大寿たちが去って、ようやく正常に脳が働き始めてやっと、状況のまずさに気付く。

花垣武道がオメガだと東京の不良界隈に知れ渡ってしまう。
そうしたら、きっとその項が狙われるに決まっている。

子どもは馬鹿で、残酷だ。

相手にダメージが与えられるというだけで、気軽に酷い事する。
面白半分にレイプして、番契約をして、奴隷の様に扱った挙句に捨てるなんて簡単にするだろう。その残酷さがどんなものなのかも理解せずに。
著しく共感性に欠けているのだ。

武道がそんな目に遭うかもしれない。

自分のオメガが。

脳みそが沸騰する様だった。
ついカッとなる、なんて言葉が自分に起こるなんて思ってもいなかった。何かを考えている様子の八戒のこともうまく考えられない。

そんな時に、武道が笑った。
その気の抜けたような顔に、張り詰めた糸が切れるような感覚がした。

「今から、アンタをアタシのものにする」

八戒を追い出して、武道を抱いた。
他の誰かに傷付けられるのが耐えられなかった。

幸いにも、武道は柚葉を受け入れ、番契約も問題なく済んだ。
これで、武道が他の誰かのモノになることはない。

あとは、東卍と黒龍の問題だけだった。


・・・


「で、最近出回ってるタケミっちがオメガだって噂についてなんだけど」
「あ、オレもうちゃんと番に項噛んでもらったんで大丈夫ですよー!」
「うーん、ちっとも大丈夫じゃねぇ」

東卍が根城にしている廃墟の一つに隊長格が集められた。
議題は先日の武道と黒龍の接触についてだった。

ケロリとした武道の態度に隊長たちからヤジが飛んだが、今の武道は婚約者と番になったばかりで幸せの絶頂期であり無敵だった。デヘヘと女らしからぬニヤケ面で笑えば誰もその性別に疑問を持たず、肯定されたオメガという第三性ですら疑わしいものになる。

「あー、悪ィんだけど、最初から全部説明してくんね? いつからお前オメガだったの?」
「え、分化ですか? 小学3年生くらいの健康診断にはもう判定でてましたね」
……
「割と早い方ですよねぇ」

つまり、3番隊の奴に奴隷にされていた時も、ソイツからドラケンを守ろうと隊員でも無いのに抗争に紛れていた時も、掌刺された時も、場地と一虎の間に入って腹を刺された時も、コイツは“オメガ”だったのだ。
そんな衝撃を受ける周囲を気にせずに世間話のノリで武道は笑う。笑い事ではない。一番立ち直れないのは龍宮寺だったのだ。別に武道に守られた事を恥じることは無い。しかし、自分のせいで“オメガ”を危険に晒してしまったという事実には少なからずショックを与えられた。
その時、同時にエマも危険に晒してはいたが、出来る限り彼女を守ろうと動いていた。しかし、武道に関しては男だと思っていたのだ。退かない姿勢も、男としての意地だと思っていた。

その武道が“オメガ”だった。

衝撃から立ち直れない龍宮寺を置いて、総長としていち早く立ち直った佐野が武道に再び質問をする。

「分かった。タケミっちは俺たちに会う前からずっとオメガだったんだな」
「そうですよー」
「危ないと思わなかったのか? ここにいるアルファの数を知らないワケじゃねぇだろ」
「まぁ、ソレは分かってましたけど。バレてないし大丈夫かな、って」
「危機感無さ過ぎ……

呆れと安堵が混ざったその声は危なっかしい妹を持つ兄としての実感がとてもこもったものだった。何も無くて良かった、と。

「あ? じゃあヒナちゃんは? お前の彼女じゃねぇの?」
「ヒナは親友ですよ? オメガじゃ彼女を幸せにできないですし」
「あー……

一瞬だけ怒った顔を見せた佐野だったが、武道の返答を聞いて微妙そうな顔をした。
コレは、武道が日向を好きだけれど第二性を理由に諦めた、と勘違いしているなと武道にも分かったがあえて否定はしなかった。自分が男であるという嘘を吐き通すのならそのくらいの方が信憑性があるだろう、と。

「で、番が出来たって何? 最近だよね?」
「先日、ちょっと親の事情で政略結婚のためにお見合いさせられまして」
「セイリャクケッコン」
「あはは、今どきナニソレって感じですよね~」

あまりにもあんまりな単語に思わず二度目の処理落ちをしている周囲に構わずに武道は笑う。自分は“可哀相な弱いオメガちゃん”では無いのだと知らしめる必要がある。

「そこに現れたのが、そこの八戒と、そのお兄さんとお姉さんですね」

そう言って八戒を指差せば視線が集中して八戒は居心地悪そうに身を竦めた。この話の流れでは時代錯誤な政略結婚で可哀相なオメガちゃんを手籠めにしようとしている悪いアルファにしかならない。

しかし、そうでは無いのだと武道は続けた。

「そのお姉さんがめっちゃ美人だったんですよ!」
「は?」

小さくガッツポーズをしながら、武道は出来るだけ喜色を前面に出して興奮した様に話す。イメージ的には自分は童貞中学生男子だ。マコトになるのだ。

「柚葉さんって言うんスけど! もうホント! 小顔だしおっぱいでっかいし腰細くて脚綺麗でマジで非の打ちどころが無いっていうか!」

ムフー! と鼻息も荒くして話す。鼻の穴が広がっていても良い、私は役者。
その表情は誰が見ても可哀相なオメガちゃんでは無かった。もう既に何人かが「コレがオメガとか嘘だろ」と武道が本当にオメガなのか疑い始めた。
龍宮寺も立ち直り、そういえばコイツは調子コキだった、と遠い目をした。

「もうオレってホント果報者ですよね。あんな超絶美人の女子にオメガってだけで乗っかってもらえるんですから……
「いや、タケミっちこないだは膝に抱っこされてたじゃん」
「八戒五月蠅い」

内心ではナイスアシストと思いつつ、柚葉とのイチャつきを全力で自慢する。ここまで言われてオレを“オメガ”という枠で見る奴はいないだろう。そして嫉妬しろ、“花垣武道”という男に。
“オメガ”だから東卍にいさせられないなど言わせない。
ここまでやってきた“花垣武道”をそんなつまらない事で否定するな。今まで何を見てきた。自分以上に東卍一番隊隊長代理に相応しい人間などいないだろう。

そんな強い気持ちで武道は周りを見つめた。

「そんなワケで先日オレは柴柚葉さんと番いました。今まで以上にオメガと思われにくい何かになりました。ちょっと今、お義兄さまと揉めてますが、今年中にあの姑モドキを何とかする予定です」
「お義兄さま……
「そんでお前は義弟おとうとな」
「えぇ……?」

既に義兄面する武道に八戒だけでなく他の東卍メンツも呆れ顔だ。完全に自分が流れを作ったと武道は内心でガッツポーズをとった。

「お義兄さまが黒龍のボスであるばっかりに揉め事が東卍にまで影響をだしてしまってすみません。少しだけ、待ってもらえませんか」
「分かった。タケミっちがそう言うなら少しだけ待ってあげる。でも、今年中に何とかするんだよ? じゃなきゃオレ達も馬鹿にされたんだから黙ってられない」
「はい!」

仕方が無いとでも言う様に佐野が折れれば武道は人懐っこく笑う。花垣武道とはこういう男だった、とその場の幹部たちも苦笑いをする。
調子が良くて、情けなくて、それでも決める時は決める男だ、と。どうせ今までオメガだと気付かなかったのだから更にフェロモンが出せなくなった今、ソレを気にする必要はない。

問題は黒龍から喧嘩を売られている事だけで、それも総長である佐野が期限を設けて武道に任せたのだからそれまでは様子見で良いのだ。年末までもうそう遠くはない。
もしもダメなら抗争でも何でもしてやろうという気持ちであるし、ソレは別にオメガ隊長を守ってやろうというヤツではない。ナンなら今すぐナメた事しやがった黒龍相手に一暴れしてやろうかというレベルで単純に血の気が多いだけだった。
しかし、嫁ぎ先の家族との問題だからと武道が言うので仕方なく我慢してやっている。確かに、嫁の兄貴と上手くやれないのは彼氏として名折れだろう。例え兄貴の方に問題があったとしても。

「てワケで八戒! 一緒に対策考えようぜ!」
「え゛」
「お前の実兄だろ? そしてオレはオマエの義兄になるんだからさ、協力してくれよ」
「えー……オレ大寿嫌い。タカちゃんが兄貴が良かったぁ」

2人で吊し上げという状況だったが、武道がペースを作ってくれたおかげで八戒もいつもの末っ子らしさが出せていた。そして甘ったれた言葉を吐いて武道以上に周りから武道以上に呆れた目をされている。

「ほー、ソレはオレと柚葉の番関係に口出すって話かー? 三ツ谷君が理想の兄貴なのはまぁ認めるけど」
「ちがっ」
「悪ぃな八戒。オレもアルファの端くれだから柚葉アルファはちょっと……
「タカちゃんも悪ノリやめて!?」

和やかな空気で幹部会議が終わろうとしている中、二人から声が掛かる。

「待てよタケミっち! 相棒のオレを置いて八戒と話進めるのはナシだろ!」
「黒龍か。花垣、一枚噛ませろ」
「千冬、と稀咲……?」

松野が巻き込まれに来るのは武道の予想通りだった。オメガとも女ともバレてはいなかったが、場地を助けるという前回の目的を果たしても相棒であると言って憚らない男だ。
しかし、稀咲が武道に協力しようとするのは分からなかった。オメガと知って同情する様なタイプではない。

判断材料として未来の事を思い出す。
未来の東卍では自分は古参東卍幹部、八戒は新参の黒龍組幹部という扱いだった。未来で聞いた話では大寿を殺して黒龍を乗ったらしい。
そして、その両方の統括として何故か佐野の代理となっていた稀咲。

自分が使えないイキり女でしかない状況の未来で、一体何があったのか。

恐らく、あの未来でも自分の番は柚葉だったのだろうと武道は思う。不貞腐れて見合いに出て、父親の意向に逆らえずに婚約した。そして、あとは今の世界と同じように大寿に邪魔をされて八戒と柚葉が追い詰められたのだろう。
八戒が何をトリガーに大寿を殺してしまったのかは分からない。大寿が言っていた“交換条件”が何なのかが武道には分からないからだ。恐らくオレを守るために何かを八戒が差し出すハメになり、ソレに耐えきれなかったのだろう。

黒龍について、今の武道は何も知らない。
恐らく、未来での会話から想像するに、黒龍は金稼ぎが上手い組織なのだろう。その資金力を稀咲は目を付けている。

方法としては羽宮を殺した佐野の世界線でしていた、替え玉出頭あたりだろうか。そうして八戒に貸しを作って、黒龍のトップについた八戒を傀儡にした。

……

そこまで考えてふと、交換条件の内容に想像がついた。
恐らく、大寿は八戒を黒龍に引き入れてから殺されたのだ。そうでなければ東卍の八戒が黒龍のボスになるハズが無い。

そう考えるとこのまま八戒と稀咲を一緒にするのはどうか、と武道は稀咲を訝し気に睨んだ。
すると稀咲はニヤと薄ら笑いを浮かべた。

「まぁそう警戒すんなってタケミっち。オレは大寿と喧嘩する策を持ってんだ」
「ふぅん?」

訝しみながらも、いっそコイツを好き勝手させるよりは自分と八戒の傍に置いた方が良いと判断する。どこで何をしているか分からないよりはいいだろう。

取り敢えずその場で吊し上げ会はお開きになって、対黒龍の作戦会議は後日という話になった。
その際に三ツ谷が意味深な眼で武道を見ていたことに気付いたのは総長だけであった。


・・・


医者を交えて互いの両親に番った報告をすれば少し怒られたがまぁそこまで滅茶苦茶に怒られたワケではなかったので良しとする。今更取り消せとも言う程の事ではないし、会社の仲も良い現状、二人が仲良くすればするだけ親同士の関係も良好となっていく。
無理矢理取り消させた結果、二人で心中なんてことにもなりかねないのが番という習性の恐ろしい所だ。少なくとも、オメガは衰弱死する可能性が高い。それは両家、そして会社にとっての醜聞に違いない。
このまま上手くいけば将来的には柚葉が婿入りし、大寿か八戒が家を継ぐだろう。

そうした現状、番ったばかりのオメガとアルファは一緒にしておいた方がいいという医者からのアドバイスに従い、集会が終わって、武道が帰る先は柴家だった。

玄関のドアを開ければ呼び鈴を鳴らさずとも武道のフェロモンに気付いた柚葉が待っている。ラット(アルファの発情期)とまでは言わずとも番ったばかりは何かと敏感らしい。
武道としては噛んでもらったおかげで柚葉以外の誰にもフェロモンが感じ取られない様になったのは安心感しかないがアルファ側は違うらしい。他のアルファに粉を掛けられてないか等、過敏になっている。
武道にとって柚葉はただ一人の番であるが、柚葉にとっても武道はただ一人である。武道の世界にアルファは柚葉しか存在しないが、柚葉の世界にアルファは他にたくさんいるのだから大変だろう。
柚葉が学校でオメガ及び女子にたいそう人気がある事は武道も知っているが、今の所は特に嫉妬心の様なものは感じていない。その原因は分からないが、少なくとも悪い事ではないと思っていた。

「ただいま、柚葉ちゃん」
「武道、おかえり」

一緒に帰ってきた八戒にも構わず、柚葉は武道を抱き締めた。柚葉よりも小柄な武道を覆い隠す様にギュウギュウすりすりする様は大型肉食獣のマーキングの様であったが、ここ数日の柚葉はずっとそんな感じであるので今更気にはならない。
柚葉が気が済むまでマーキングさせて、落ち着いた頃にくっついたままリビングへと向かう。その辺りでやっと離れ、柚葉は武道と八戒に夜食は要るかと尋ねた。

言われなければ気付かなかったが、そう言われてしまうと少し空腹感を感じ、武道は甘えた様に「ちょっとだけ」と答える。あまり夜中に物を食べるのはどうかと成人済み女性の感覚では思うが、今は代謝の良いティーンの身体である。腹が減るのは仕方が無かった。
柚葉も年頃の女子の気持ちは分かっているため、八戒とは違う量で簡単な夜食を作ってくれる。そうして、尽くされてるなぁと武道は安心する。
こういった柚葉の献身を一心に受けている自覚があるため、恐らく他のオメガや女が気にならないのだろうと思う。

そして、量が多いのにも関わらず先に八戒が食べ終わり、シャワーを浴びに向かう。そのまま自室へと戻り翌朝まで顔を合わせないのがいつものパターンになっていた。

武道たちは食後にゆっくりとハーブティでも飲みながら、八戒が自室へ戻るまでお喋りをして待つ。今日あったことや、父親たちの悪口、最近気になる芸能人など実に女子らしく姦しくだらだらとお喋りをする。
この様子を知ってどうして八戒は武道を女だと疑わないのか柚葉は疑問であったが、八戒はそういう所があるよな、と適当に納得した。恐らく女子っぽさもオメガ由来の事だと思っているのだろう。

八戒が風呂から上がれば順番で武道が入り、その間に柚葉が食器の片付けをしてくれる。
何度か武道も悪いと思い、食器を自分で洗おうとしたが柚葉曰く、武道が家事をしたりシャワーを浴びている時間が手道無沙汰であるため自分がやりたいとの事だった。
ソレが本当なのかは分からないが、もし武道が食器を洗うのであば、シャワーは一緒に入ると宣言されてしまったため武道は折れざるを得なかった。
恋人の家とはいえ、人様の家のシャワールームでえっちな事をする自信はなかった。特に一階は二階よりも防音がイマイチらしいので、フェロモンが他人に感知されなくなったにしても触れ合うのなら二階が良かった。

寝間着に着替え、シャワールームを出て、軽く髪をタオルドライしながら武道はリビングへと向かう。武道の髪にドライヤーを掛けるのは柚葉の拘りだった。
武道は結局、未来の世界でもガサツで無精な女だったため、今まで大したケアをしてこなかった。ブリーチ分の痛みがあるからとトリートメントやリンスぐらいはしていたがそれだけだった。

そんな様子の武道を見て、柚葉は嬉しそうに彼女の世話をした。

まだ大丈夫だけれど、と言いつつも武道の分からない基礎化粧品の類をコットンで武道の顔に塗り、パックをする。
パックの間にヘアオイルを髪に馴染ませ、ドライヤーをした。ドライヤーが終わってパックを取って、更によく分からない液を顔につければプルプルもにもにのお肌と髪の完成だった。

武道は精神年齢年下の女子に女子力で完敗し、もうされるがままに彼女の好意を受け入れた。美容に金を掛けるなら少しでもマシな食事をしようとしていた未来の自分はソレはソレで間違っていない。どんなに化粧品に金を掛けようとも深夜まで仕事をして、炭水化物や油ばかり取っていては焼け石に水というものだ。
それでも、しないよりはした方が良いし、実際、彼女にケアをされるようになってから自分の手や頬のすべすべもちもちっぷりが全く違う。自分の身体は彼女が触れるものなのだから好きにすればいい。

自分の身体が他人のものである、など自分が一番嫌がっていた事であるのに、今は自然とソレが受け入れられていて不思議だった。

シャワーとドライヤーで火照った頬に彼女の少し冷たい手で触れられるのが気持ち良くて、武道は表情筋をふにゃふにゃと蕩けさせる。幸せとはこういう事なのだな、と彼女に出会うまでは知りもしなかった感覚に浸ってしまう。
男を恨み、アルファを恨み、過去の自分を恨んだ底辺オメガが、親友の命を助けると必死になっていたのに、こんなに幸せでいいのかと恐ろしくなってしまう。

もちろん、親友を助ける事も、そのために次は黒龍を何とかしなければならない事も分かっている。しかし、心地良いフェロモンに包まれて、番に触れられてしまえば今だけはと思ってしまう。

総長に与えられた期限は一か月。
そう長い時間ではない。ソレまでに大寿との関係を何とかして、八戒が黒龍に入らない様にして、八戒が大寿を殺さない様に仕向けなければならない。

一番良いのは武道と大寿が家族として話し合いでカタを付ける事であるが、恐らくそれは望めない話だ。
あのレイシスト兄貴は自分のことなど眼中にない、と武道もよく分かっている。

武道の事は、自分の妹の柚葉の所有物としてしか見ていないし、だからこそ、危害を加えてほしくないのなら八戒が交換条件に応じろと言っているのだ。大して家に帰っても来ていない、父親の役に立つわけでもない長兄の癖に、と武道は眉間に皺を寄せた。
その瞬間、ツンと柚葉の指が武道の眉間を軽く突く。

「あのクソ兄貴の事でも考えてんの?」
……うん」
「今日、集会だったんでしょ? どうするって? 抗争?」
「ううん、取り敢えずオレと柴家のお家騒動として今月中までは待ってくれるって。ダメなら年明けに抗争になるかも」
「そっか……

ソレが良い事なのか悪い事なのか柚葉には判断がつかなかった。
柚葉としては武道には即刻不良なんて辞めてほしいと思っている。今現在、父親からの心象の大して良くない大寿や八戒よりも柚葉はそういう意味では家の中では一歩リードしている状況だ。
もしも、大寿が武道を傷付けたりなどすれば柴家から追い出されるのは大寿だ。
今現在、反社と繋がりがあり、悪い金を稼いでいる大寿は恐ろしいし、自分もその片棒を担がされている状況は良くない。しかし、本格的に司法や親に助けを求めるのなら女である自分は恐ろしい長兄に脅されたのだという言い訳が立つ。

反社と繋がりがあると言っても所詮は足切り要因だ。
どんな伝手と信頼があるのかは分からないが、使っていた捨て駒の未成年が少年院に入ろうとも大した問題ではない。むしろそうして社会から孤立した子どもを本格的に飼って構成員にしていく手口だ。

既に関りのある自分はともかく、八戒は東卍という喧嘩&バイク愛好会の様な可愛らしい不良でいてほしいと柚葉は思っている。そして、武道もだ。
叶うなら二人とも不良なんかやめて普通の中学生として部活でもしていてほしい。

しかし現状、二人が東卍を辞めれば黒龍に取り込まれるのが目に見えている。
ならば抗争になって無敵のマイキーとやらがあの大寿をノシてくれれば良い。ソレが出来るのであれば、だが。

一番恐ろしいのは、大寿との交渉で八戒が黒龍に移動、武道が東卍除名で柚葉の持ち物として反社とのやりとりに使われるという流れだ。現状の柚葉は長兄である大寿の持ち物扱いであるため、武道の除名が一番危ない。
今月中にカタを付ける方法が分からない。失敗して武道が除名になるビジョンしか柚葉には思い浮かばなかった。

だって、武道はかわいいオメガの女の子なのだから。自分の雌なのだから。

アルファの中のアルファである大寿に敵うなど思えなかった。

そんな柚葉の不安と心配に気付き、武道は彼女を抱き締めて額にキスを贈った。

「大丈夫。オレは一人じゃないし、考えがゼロってワケでもないよ。八戒も他の東卍の仲間もちょっと手伝ってくれる」
……アタシといる時は“オレ”って言わないで」
「うん、ゴメン。柚葉」

武道の言う“考え”がどの程度のものかも、通用するのかも分からない。その言葉には不安しかないのに武道を信用できなくて、尊重できないのが悲しくて、柚葉は言葉を濁してしまった。
ソレが武道にも分かったので、言及するのはやめた。

「もう部屋行こっか」
「うん……

リビングを片付けて、電気を消す。
翌日もしも髪の毛なんかが落ちていて、もしも大寿が帰ってきたら嫌だからと毎晩念入りに掃除をしている。ちょっとぐらいなら柚葉も気にしないし、武道なんて全く気にしないけれど、ソレを気にする男がいつ帰ってくるか分からないのだから仕方ない。しかもその男がぶん殴ってくるタイプのクソDV野郎なのだから手に負えない。
片付け自体は悪い事ではないため行うが、絶対にギャフンと言わせてやると武道は思っていた。

トントンと階段を上がり、柚葉の部屋に二人で入る。
先に武道がベッドに座り、柚葉が化粧品置き場からボディミルクを取り出した。顔と髪のケアはリビングでしても良いが、身体のケアは万が一にも八戒に性別がバレたら面倒だという事で柚葉の部屋でしていた。
武道は風呂上がりに自分ですれば良いと思いつつも、自分にその習慣は付く自信が無かったし、何よりも柚葉自身が武道の世話をしたがった。ただただ番に触れる機会は多い方が良いという下心もあるのだろうとは思っていたが、武道はソレを許していた。

「んぅっ、ふっ……♡」

足先からマッサージする様にミルクを塗り広げられ、武道はくすぐったさに呻く。
血行を良くする様にリンパに沿って足の甲に指を滑らせていく。普段はブーツに押し込められていて浮腫みがちで、しかもこの時期は末端から冷えるのだからと理由を付けて、柚葉は念入りに武道の足に触れた。
普段なら全く触らない様な足の指もその股も、一つ一つ丁寧に揉みほぐし、ミルクを塗り込んでいく。武道はソレがくすぐったく苦手だったが、その反応が好きで、柚葉はわざと念入りにケアをし、時々ケアに関係ない悪戯をした。

ソレが終われば足首、ふくらはぎと位置を変えていく。
適度な運動とは言えない男の喧嘩に混ざる中で、武道の筋肉は発達していき、正直に言えばゴリゴリとした硬い筋肉になってしまっている。柚葉のスラリとした脚とは比べるまでも無い。
むちむちとムキムキの間のソレを柚葉は可愛いと思っていたが、もっと柔らかくなった方が良いのは間違いないので張った筋肉を解し、ストレッチもしていく。将来的にはそこがたるたるになっても触れたいとは思っているが、そんな先の事は分からないとも思っていた。
丁寧に丁寧に揉みほぐし、時々いたずらに擽って、柚葉は武道を悶えさせた。本気五割、下心五割の中、武道は柚葉の下心に気付かないワケではないけれど、好きにさせた。
むしろいっそ、わざと、甘やかで悩ましい声を抑えるフリをして漏らした。目の前の美女が自分ごときに発情しているのがどこか愉快だった。コレが私のアルファなんだと自慢したいくらいだった。

何だか自分の性格が悪くなってる気もするけれど、元からこんなもんだったと思い直す。
怠惰で、僻みっぽくて、調子に乗りやすい。自覚くらいはある。

ヒーローの器なんかじゃなかった。

それでも、守りたいものがあればヒーローにでも何でもなってやるという気概があった。それだけだった。

脚の付け根の際どい所を優しく摩り、ミルクを塗り込んでいく。そんな所を柔らかくすべすべにしてどうするのだと思わなくも無いが、柚葉がしたいのならすればいい。
自分はわざとらしく擽ったがって誘うだけだ。

きゃらきゃらと笑いながら仰向けに倒れれば、馬乗りになった柚葉が今度は手のケアにとりかかった。短く切っただけの爪は綺麗とは言えないけれど、最近は柚葉が暇があれば磨いている。本当はもう少し伸ばさせて整えたいと言っていたが、不良をしているうちは爪が長いのはいろんな意味で危険だろうから諦めてほしい。
指から始まったケアのフリをした愛撫は腕、肩、脇へと進められる。首は顔のケアの時にやっているのに何度もフェザータッチで触れられるからゾクゾクしてしまう。

「ほら、ちゃんとしっとりしたね」
「んっ♡」

デコルテまでケアをして、そのまま頬や首筋にキスをして戯れる。
柚葉は武道に体重を掛けない様にしつつも肌が触れ合う距離でむつみ合う。

「ゆず、ちゃ……♡ ちゅうしよ?」
「うん、良いよ……
「んっ♡」

チュムチュムと啄む様にキスをして、柚葉の背中に腕を回した。もっと密着したくてぎゅうっと抱きしめれば素直に近付いてくれて、ゆっくりと体重が掛かってだんだんと動きづらくなってくる。むっちりとした胸が合わさって潰れて、ミルクで滑りが良くなった脚が絡む。
いっそローション濡れになっていればもっと気持ちいいのかと思わなくも無かったが、このサラリとした肌の感触が堪らなく好きだった。

それに、こうしてイチャイチャするだけで最後まではしないのがいつもの流れだった。隣の部屋に弟がいる状況でそこまでする気は流石に起きない。

それでも触れ合うだけで気持ちが良くて、お腹の奥がジンと痺れる様な感覚が何度も起きる。番の子種を欲しがってるのを感じながら、じれったい快感を享受する。

ふと、このまま子どもまで作って、自分は未来に帰ったらどうなるのか、と思う。

流石にソレは過去の自分が可哀相すぎるだろう。
しかし、そうでなくともいつの間にか女アルファの婚約者しかも番済みが出来たなんて最悪も良い所だろう。それも何とかしなきゃなぁ、と武道は考える。

「また考え事? ベッドの上じゃやめてよ」
「うーん、柚葉の事でもあるんだけどね」
……大寿?」
「ううん、オレのこと」
「?」

指を絡め、顔中にキスを落としながら柚葉との今後を考えれば武道には気が重いとしか言えない。
今こんなにも満ち足りた幸せを分かち合っているのに、用が済めば自分はこの時間軸にはいられないのだから。そして、自分のいなくなったこの世界には本来の役立たずで身の程知らずの小娘が戻される。

その矮小な存在こそが自分なのだから、彼女こそが本当の“花垣武道”だ。

未来の知識も無い、経験も無い、柚葉との思い出も無い。

「ねぇ、もしもさ」
「うん」
「もしも、私が私じゃ無くなったら、柚葉はどうする?」
……

もしも、“花垣武道”を柚葉が愛さなかった時、ソレが一番恐ろしかった。
度胸とズルい未来の知識で立ち回れるそれなりに出来る武道が、好きだった場合、“花垣武道”と柚葉の先に未来はない。例え未来に戻っても、そこにいるのは年相応に愚鈍な自分でしかない。

「アンタがアンタじゃない、のレベルによる」
「レベル?」
「うん。例えば、アンタが頭でも打って性格が豹変しちゃったとしても、アタシはアンタに寄り添うよ。でも、ファンタジーみたいな話、アンタが宇宙人に乗っ取られるだとか、同じ顔をした他人に成り代わるだとかされた場合、一緒にはいられないかな」
「同じ顔をした他人……

この時間の“花垣武道”と“自分”は同一人物と言えるのか。武道には答えが出せなかった。

「なに? また変な映画でも見たの?」
「うん」

柚葉の言葉に合わせて適当な映画を脳内で検索する。

「記憶喪失になっちゃった女の子が彼氏と一緒に過ごすんだけど、記憶を取り戻した自分に彼氏をとられるのが嫌だって泣く話」
「ふぅん。また変なの見てるね。前は記憶を消去されたアンドロイドのSF見てなかった?」
「アレも面白かったね!」

世間話の範疇、もしも、で終わらせるべきか。今、本当の事を話すべきか。
ずっと武道は迷っていた。

話すべきなのだとは思う。
自分は正しい“花垣武道”ではないのだと。

「そろそろ寝よっか。明日も学校だし」
……うん」

番との出会い、契約、全てを自分はこの世界の“花垣武道”から奪おうとしているのだと思うと心が苦しくなる。その苦しさを紛らわす様に武道は柚葉を抱き締めた。

……

そんな武道の行動を、柚葉がどう思っているかは分からない。
ただ、この時代の自分との引継ぎだけは上手くいくようにしなければ、と武道は心に誓った。


・・・


翌日の朝、八戒からコトヅケをもらった。

「え、三ツ谷くんがオレに用事?」
「うん。放課後、ここ来るって」
「えー。オレでさえトラブってんのに黒龍のシマに他の隊長もくるの?」

顔を顰める武道の言に流石に八戒自身も不安を感じているのだろう少し困った顔で答えた。

「今日は柚葉に先に帰ってもらって、大寿がいない事確認してもらってからルート考えて連れてくるよ」
「友達を家に連れてくるだけでスネークしなきゃいけないのクソ過ぎるね」
「まったくだ」

三ツ谷の来訪のために柚葉は放課後はすぐに帰って来なければならないとふくれっ面だ。しかも三ツ谷の自宅自体もそう遠くない場所にあると言うだから本当に馬鹿らしいことだ。

「じゃあオレは柚葉と一緒に先にここにいればいいんだね。授業終わり次第メールでいい?」
「そうだな。いつもどおりアンタの学校向かうから」
「ちょ、二人とも寄り道しないで急いでよ⁉」

放課後デートは番ってからのルーティーンだった。学区が違うため帰宅まで少しだけ時間は掛かってしまうが出来る限り柚葉が武道の学校まで迎えに行く。
昨夜のマーキング同様、柚葉のアルファとしての独占欲が武道が一人で出歩くことをまだ許せなかったためだ。武道の方も女子の制服から着替える時間が必要なため待たせるよりは柚葉が迎えに来てくれるのを待つ方が良いと思えた。ソレで安心が出来るならば一人で出歩く必要もないだろうと思えた。

その関係でそのまま少し食べ歩きなんかする日もあれば真っ直ぐ家に帰る日もあるが、どちらにせよ柚葉単体の帰宅時間は遅くなっていた。

「寄り道はしないけど、三ツ谷のために急いで帰る気にはなれねぇんだよなぁ」
「三ツ谷くんには二番隊時代にお世話になったけど、柚葉が不安にならないの優先かなぁ」
「もー! タカちゃんはタケミっちのこと心配してくれてるのに!」
「ごめんなぁ」

プンプンと怒る八戒を宥めつつ、武道と柚葉は早めに家を出た。行きも離れがたいと駄々をこねたのは柚葉で、仕方なく武道が折れる形で柚葉には遠回りにしかならない行きの道も武道の通う遠くの学校にまで一度歩く。
護衛される程のものではないと武道は思うが、ダイエットにもなるし、とにかく傍にいたいのだと番に甘えられるとどうしても許してしまう。

武道としても一緒にいるのは嫌ではなかった。

しかし、武道からすれば今までと何が変わったと言う事はないため、登下校にも学校生活にも変化はない。
柚葉と番う前は発情期が来ていなかったし、柚葉のフェロモンで発情期を誘発して番になってからは武道のフェロモンは柚葉にしか嗅ぎ取れないし、武道も柚葉以外のアルファのフェロモンは分からない。
未来から来た武道はキズモノであるため、他のフェロモンを知ってはいるが、この身体は本当に柚葉しか知らないし、分からない。勝手な事をしたと思うが、どうせ過去の武道も親には逆らえないのだから柚葉のものになる以外の未来など無いに決まっている。

「柚葉ちゃんはさ、オレが私じゃなくなっても愛してね」
「またその話? ハマッてるね」
「答えが出ない問答って楽しいじゃん。思考実験だと思ってさ」
「ふぅん?」

柚葉はよく分からないと微妙な顔をした。
武道は映画好きが高じて、こうした“答えのない微妙なテーマ”について考えるのは嫌いでは無かった。そして実際に、タイムリープという超常的現象によってどうしようもない状況に追い込まれているのだからその事が頭から離れないのも仕方はない。

「柚葉ちゃんも考えといてね。もし、オレが変になっちゃったらどうするか」
「まぁ、退屈な先生の授業の暇つぶしくらいには考えとくよ」
「ふふ、答え楽しみにしてるね」

そんな話をして武道を中学へと送りつおけ、自分も登校すべく柚葉は歩き出した。
そして考える。最近の武道がしきりに気にしている問題について。

何故彼女はそんなことをずっと考えているのか。
問題はその仮定の解決ではなく、何故そんなことを考えなければいけない状況なのか、だ。
彼女が多少の不思議チャンである事は分かっていた。不思議な空想をすることも、共感だけではない芸術的観点で映画を見る事も知っている。
ソレが高じて奇妙な仮定の話を掘り下げて考えているだけ、というのもありえるだろう。

しかし、柚葉に対し、同じ様な何度も話を振り、柚葉の答えを知りたがるのは奇妙だった。

柚葉の知る花垣武道は案外クールな所がある社交的で従順な女子だ。
勿論、不良に憧れて男のふりをして暴走族に入るなんてとんでもない事もやらかしているが、同時に親の決めた見合いに大人しく参加し、礼儀正しい挨拶ができる二面性がある。
大寿の失言を録音したり、強かに生きたいとも思っている様だ。

ソレがあまり乗り気でない柚葉に空想の問答をさせるのは違和感が強い。
武道の社会性ならば柚葉がその話題に興味が無いと分かれば別の話にすぐ移るだろう。それをわざわざ何度も聞くと言うことは恐らく本気で何かを危惧している。

その内容を教えてもらえないのは自分の不甲斐無さだと柚葉は素直に反省した。

そして答えをミスれば番からの信用を失う可能性もある。
慎重に考えなければならない。

……

ちょっとめんどくさいな、なんて思いながら柚葉は歩を進める。
しかし嫌悪は感じず、不安を取り除いてやりたいという気持ちの方が強い。ソレは集会から帰ってきた武道にマーキングをする自分と同じような気持ちに、きっと武道がなっているだろうと思ったからだ。

変わってしまった恋人を受け入れられるか、否か。

きっと武道の顔色を伺った返事は見抜かれる。
大切なのは事実。何を不安に思っているのかを話してもらえる様に持っていくことだ。
本気で好きな相手に信用してもらうなんて、どうやったらいいのか分からない。間違えたくはない。
そんな事ばかりが先行してしまう。

なるほど、コレが恋か。

妙な納得を覚え、柚葉は学校へと向かった。


・・・


柚葉の予想に反して、帰り道で武道が例の問答を口にすることはなかった。
もう飽きたなんて事は無いと思うが、どうしたのかと柚葉は武道を観察する。すると、わざと色々な話題を移り変わらせて話が途切れない様にしている。
いざ、本当に答えが聞けると分かったら怖気づいたのだな、と少し和んでしまった。

しかし、ソレだけ本気で何かを悩んでいるということなのだろう。

さて、どうやって聞き出すか。
恐らく、適当な隙を狙って答えを思いついたと言っても武道は逃げてしまうか、一番肝心な所の話はできずに当たり障りない「もしもの話」として終わらせてしまうだろう。そうなった場合、武道の悩みを聞き出す手段が減ってしまう。

出来れば武道から話題を出してくれるのを待つのが良いのだろうが、時間制限のあるタイプの悩みだった場合手遅れになる可能性もある。

……

そうこうして機会をうかがっているうちに時間が過ぎ、柴家に三ツ谷がやってきた。
ニコニコと歓迎する武道に対し、柚葉の表情は硬い。リビングのソファに案内しているうちに勝手知ったると武道が紅茶を用意し「お疲れ様です」などと言いながら出した。
柚葉からすれば塩でも撒いて追い出してやりたい気分だったが、元部下だったという武道からしたらそうもいかない相手なのだろう。柚葉も特別嫌いな相手ではないが、タイミングが悪い。

どうにも悪い予感がする。

「どうぞー」
「おう、ありがとな。タケミっち」

ニコリと武道に微笑み掛けるアルファにイライラする。
自分のテリトリーの中とはいえ、番の傍に他のアルファがいるのが気に入らない。

隣だって座る三ツ谷と八戒の前に武道と柚葉が座る。今日用事があるのは武道にという事で、三ツ谷の正面が武道だ。それも気に食わなかった。
そんな柚葉のイラつきと威嚇フェロモンに三ツ谷が苦笑いしかしていないのもムカつく。

「さて、時間をもらって悪いな」
「いえ。でも、どういう事ですか?」

武道が出した茶を片手間に褒めつつ、さっそく三ツ谷が本題に入ろうとするのに、武道はニコリと笑った。

「オレ、今年中は時間もらったハズですけど。総長であるマイキーくんに」
……

一見和やかなまま、室内に緊張が奔る。
柚葉の威嚇フェロモンでピリピリしているのに隠れて、武道もそれなりに思う所があったらしい。三ツ谷は少し驚いた様に目を開いて、一番暢気な顔をしていた八戒は分かりやすく焦った様に武道と三ツ谷を何度も見た。

「あぁ。お前が今月中に上手くできなかったら東卍と黒龍が当たる事になる」
「そうですね。日本一目指すならそのうち当たる問題ではありますが、そのきっかけがオレの私情なのはオレもちょっと目覚めが悪いですし」
「そうか? どのみちなら同じだろ」

あくまでも穏やかに、三ツ谷と武道は会話を続け、腹を探り合う。
三ツ谷はともかく、そんな武道に柴姉弟はどう反応すべきか迷ってしまう。普段は可愛くてお調子者の武道が真剣な顔をするギャップにまだ少し慣れていない。
最初から分かっていたギャップであるが、新婚も同然な日々を過ごしていた柚葉とソレを見ていた八戒だから仕方が無い。

「大寿をどうにかする当てはあるのか?」
「まだですね。稀咲が何かしたそうでしたけど、その算段を立てる前に三ツ谷くんから先にアポとられたんで、作戦会議は後日に伸びました」
……

事実を羅列しただけだと言う態度で武道は笑う。しかし、その嫌みが通じない程、三ツ谷は鈍感でもない。

「そりゃあ悪かったな。稀咲がいるならじゃあ大丈夫か」
「まぁ、えぇ。そうですね。アイツの悪だくみを止めてれば東卍としてのオレの役目は果たせますしね」
「あ゛?」
「どうかしましたか?」

売り言葉に買い言葉、そのまま舌戦になりそうな流れに柚葉も威嚇フェロモンを止めてしまう。武道を止めるべきか、否か。
橋を渡した八戒もまさかこうなるとは思っていなかったのだろう。三ツ谷の隣でオロオロしていた。

「タケミっち、オレはオマエのガッツや土壇場の判断を悪く思っちゃいねぇよ? でも、心配くらいさせてくれねぇのか?」
「その心配の結果、何をするかによりますね。集会でも言いましたけど、コレ、オレと大寿くんの嫁姑問題でもあるんスよ。そこに他の東卍幹部入れるのは気が進まねぇッスね」
「稀咲たちはいいのか?」
「アンタ等と違って、オレは稀咲を信じてねぇんで。見えない所でコソコソされるよりは傍で見張った方がマシって所ですかね」

あまりにも武道の態度が変わらないので三ツ谷が態度を軟化させ、懐柔を狙うが立て板に水だった。先ほどから何度か出てくる“稀咲”という名前に何かがあるのだろうと東卍ではない柚葉にも分かる。

「オマエのその稀咲への対抗心は何なんだよ。そんなに同い年で先に幹部になったのが気に入らねぇのか?」
「まぁそんな所です」

ニコリと笑う武道に三ツ谷はわざとらしく大きく溜息を吐いて頭を抱えた。

「オマエなぁ、オレ達だって話してくれねぇと分かんねェのよ。何でそんなに稀咲を嫌うんだ」
……

話すべきか、否か。
武道は三ツ谷のグレーの瞳を見つめる。
この男は信用足るか、否か。

もうフェロモンを感じる事も発することも出来ないが、ポーズとしての威嚇だ。ソレに気付き、柚葉がもう一度威嚇フェロモンを発する。フェロモンの分泌こそできないが、武道が行おうとしているのはクレイミングだ。
アルファ同士のソレは威嚇であり攻撃、オメガとアルファのソレは求愛になる。

しかし、武道は自身が“男”であると主張する。

オメガであるが、お前たちに支配される謂れはないのだ、と。
柚葉が咄嗟にフェロモンを出したのは、ソレが理解できたからだ。番は一心同体も同然であり、フェロモンを出せない武道の代わりに柚葉が威嚇フェロモンを出して何が悪いと開き直る。
一見、求愛にも見えるためとても腹立たしいので今夜は少しイジメてやろうと決めた。

……
……

膠着して数分。
三ツ谷は耐えきった。柚葉の威嚇フェロモンは自身の嫉妬心も若干込められているせいでかなり強めであったが、目を逸らす事なく、自身を信用しろ、と訴えかける。
その意思の強さに、武道は柚葉の手を握る事で折れる事を決めた。
もう少し威嚇してやりたかったが、武道のために柚葉はフェロモンを止める。少しの残り香を残して。

「信じてもらえるかは分かりませんが、ぱーちんくんを唆したのは稀咲です」
「は?」
「その場に一緒にいたでしょう。長内を刺した時、来るハズもないタイミングで警察が来た。アレは完全にぱーちんくんが嵌められてたからです」
「いや、そんな……
「今まで喧嘩してて、そんな早く警察来た事あります? 街中でも何でもない場所で、狙いすましたように?」
……
「そんで、空いた3番隊隊長の席にまんまと入ったのがあの稀咲鉄太。その後の芭流覇羅戦でも、あのクソ野郎は暗躍してます。芭流覇羅の、最初にマイキーくんに殴り掛かって稀咲に倒された男。オレはアイツが稀咲と一緒にいるのを昔見ました。八百長ッスね。まだ入院中の場地くんとも協議中ですが、恐らく一虎くんにも稀咲は接触してるハズです。信じてもらえるとも思って無いのでオレは一人で稀咲を牽制してますが」

武道の言葉に、三ツ谷だけでなく柚葉と八戒まで何を言って良いか分からずに口籠ってしまった。
想像以上に、今の東卍の状況は悪いらしい。

「はぁ……。なるほどな」

再び、三ツ谷は大きなため息を吐いた。
ソレがその話を信用した合図なのかは分からないが、一応は武道の思考は分かった、と言った所だろうか。

「と、いうワケで、オレは稀咲が嫌いですが、ソレが今回の事に何か?」
「いーや、もし本当にアイツが悪さしてんならソレはソレで監視頼むワ。俺はてっきりアイツへの対抗心だけでお前が手柄を急いで黒龍に挑もうとしてんだと思ってたからな。お前の元隊長として、ドラケンや場地の時の事もあるし無茶しようとしてんじゃねぇか心配してただけだよ」
「そうですか」

もう稀咲に関しては何も言わないとばかりに三ツ谷は両手を軽く上げた。武道が理由を話してくれたからと言って、総長が信用した稀咲を簡単に悪だと決めつける事も三ツ谷にはできなかった。
場地が武道側であるのは確かに一つの信用できる要素であるが、如何せん場地であるため、何とも言えない。三ツ谷が一番信頼しているのはドラケンであり、次いで総長だった。

そして、武道に関してはオメガだったこともあり完全に庇護対象である。
信用、信頼未満の対象でしかない。

それを武道も感じ取ったため、武道も三ツ谷を信頼しなかった。
三ツ谷がどちらかと言えば保守派であるため、この話が三ツ谷から稀咲に行くことはないだろう程度には考えているが。

「これで、話は終わりですか?」
「いんや、コレで半分だ。結局、大寿をどうするかは考えついてないんだろう」
「そうですね。稀咲の話を聞いてから逆張りすればギリギリ最悪は免れるだろうか、ぐらいの所ですね。アイツが噛ませろって言って来たって事は、黒龍を潰して傘下に入れる算段があるって事だと思うので」

稀咲の狙いは基本的に東卍を巨悪にすることだ。
どうしてそんな事をしたいのかは分からないが、未来の情報から考えれば恐らく、東卍が黒龍を吸収するのはこのタイミングだろう。その未来で、自分は生きていたが、龍宮寺、三ツ谷、場地はいなかった。
恐らく、邪魔だから消されたのだろう。二つほど前の世界と同じく、龍宮寺は死刑囚である可能性もある。まぁ自分も捕まったタイミングで過去に戻ったので死刑囚かもしれないが。

「オレにも考えがある」
……

そんな武道の考えを他所に、三ツ谷は真剣な顔で武道に言った。

「それは?」
「大寿の事だ。どうせ今回のいざこざも八戒を黒龍に移籍させたいがために起こしてんだろ?」
……

それは半分くらい当たりだろう。交換条件だ、の内容はソレ以外ないと武道も考えていた。しかし半分は、単純に武道が大寿にカチンと来て喧嘩したという理由だったので沈黙で答えた。

「だから八戒、オマエを除名する」
「タカちゃん⁉」
「八戒、テメェもそろそろ漢見せろや」

思っていなかった三ツ谷からの言葉に八戒が立ち上がって抗議しようとする。柚葉も顔を顰めて三ツ谷を睨んだ。
武道だけが三ツ谷の真意を確かめる様にジッと見つめていた。

「だが、それだけじゃ弱い。東卍がタケミっち守るために八戒差し出したと言われる」
「でしょうね。そもそも、オレがオメガだから、女を殴らないって言ってる東卍はオメガをチームにいさせるのか、が今回の悪口の焦点だし」

何の解決にもならない。

「だから、柚葉を黒龍から抜けさせる。互いに一人ずつチームから抜けさせるのを条件に和平を結ぶ」
「はぁ⁉ 三ツ谷アンタ何言ってんの⁉」
……

激昂する柚葉の手を握って、武道は無言で三ツ谷に続きを促した。
その視線に三ツ谷もニコリと笑った。

「お前等が東卍と黒龍でロミジュリしてるのが悪ィんだからさ、タケミっちは柚葉守る事に専念しろよ。テメェのオンナ守るために族抜けならオメガも女も関係なく面目が立つだろう?」

その言葉に胃の腑が煮えくり返るような気分になる。
武道が東卍をやめる事が三ツ谷の中では決定事項らしい。

コイツも、大寿と同じ側の人間なんだな、と武道はようやく理解した。暴力をどれだけ伴うかの違いで、結局は他人を自分の思うが儘に動かしたい人間だ。

正直に言えば、その選択も無いワケでは無かった。もう東卍なんか見捨てて、この世界のナオトと組んで外から東卍を潰して日向を守るという選択だ。ここまで来れば諸悪の根源は稀咲だと分かっている。

しかし、ソレをするには東卍を、佐野を好きになり過ぎていた。

今更、あの総長を一人にして、孤立させ、我が物にしようとする稀咲の策略を黙ってみているなんて武道にはできない。傍にいて、部下として支える意思があった。
柚葉も、日向も、佐野も守る。ソレが武道がやりたい事だった。

「なるほど? 総長判断の今年中にオレが何とかする、を三ツ谷くんは信じてないんですね」
「いんや? オマエの何とかする方法にアドバイスをしてるだけだよ。なぁ、八戒」
「タカちゃん……

柚葉と武道からの怒気を感じ取り、八戒は口籠る。
武道の意思を無視すれば、三ツ谷の意見はもっともな物だと八戒も思った。自分が黒龍に行けば、柚葉と武道を守る事ができる。そして、三ツ谷の言う理由で武道が東卍から抜ければ、東卍はオメガを抜けさせる理由に格好が付く。

自分の意思としては、黒龍なんかに行きたくないのが本音だ。
しかし、ここ最近の姉と武道の仲睦まじさと、先ほど三ツ谷に言われた「漢見せろ」という言葉が頭の中をぐるぐると回る。

自分はアルファで、男だ。女の柚葉と、オメガの武道を守るべきなのではないか。

そんな迷いが生じる。
そんな八戒と三ツ谷の関係を、武道は歪だな、と思いながら見た。

「八戒、好きにしな。どのみち、柚葉はオレが守る」
「でも、柚葉は……
「柚葉は?」
「八戒!」

八戒が何かを言おうとしたのを、柚葉が遮った。顔色が悪い。
柚葉もまた、自分に何か隠しているらしい。彼女はアルファで、オメガの自分を守ろうとしてくれている。ソレが分かるから、武道は怒る事が出来なかった。

代わりに、色仕掛けをすることにした。

「柚葉……

手を握り、肩を寄せる。
少し荒い柚葉の呼吸に、自分の呼吸を合わせ、ゆっくりと宥めていく。

「大丈夫」
「たけみち……
「大丈夫だよ」

柚葉の呼吸と顔色が良くなった所で、甘える様に肩に頬を寄せて腕を絡めた。

「オレ、柚葉が何してても怖がらないし、嫌がったりしないよ。隠されてる方が不安」
……
「柚葉は黒龍の隊員ってワケじゃないのに、三ツ谷くんの口から黒龍が柚葉を手放すって言葉が出て来た時点で、もう何となくは察してる。だから、柚葉の口から聞きたいな」

優しく手を握り、甲から腕をさすりながら、誘惑フェロモンをわずかに出す。我ながら器用な事をすると思うが、歳の功だ。
興奮しすぎない様に、しかし、自分の存在を強く感じる様に。自分は弱いだけのオメガではない。お前のパートナーなのであると主張する。

フェロモンは感じられないながらも、そんな武道の様子を目の前で見て三ツ谷と八戒はゾッとした。

今まで知識として知っていたオンナ、そしてオメガという存在は自分たちよりも弱いものだ。可哀相なソレが蹂躙されない様に自分たちが守ってやらねばならないと思って来た。
しかし、アルファである柚葉とその番であるオメガの武道のやりとりを見て、自分たちの思うオメガ像に若干の罅が入る。

もちろん、男を手玉にとるタイプのオメガが存在する事も知っていたが、武道がそうであるとは思えなかった。男達の中にいてもバレない程度には雌としての性徴が見られず、オンナとして媚びる様子の無い武道は雌として他人を翻弄する様には見えなかった。
ソレが、目の前で、自分が情報を得るためにアルファ篭絡しようとしている。

完全に想定外の事であった。

そんなフェロモンを感じ取れないギャラリーにすら妖艶であると思われる程、今の武道の行動はサマになっていた。

「アタシは……
「うん」
「黒龍で、金の受け渡し係をしている……
「そっか……
「黒龍は、隊員を金持ちに貸し出して、金をもらってるんだ」
「へぇ……

ポツリポツリと話す柚葉に、武道は相槌を打つ。
「オレの番に何させてんだ」と再び腸が煮える武道だったが、その怒りを隠し、柚葉の言葉を引き出していく。

「なるほどね、ソレは大寿の指示?」
「あぁ……。けど、実際は九井がブレーンだ。大寿じゃなきゃ荒くれ集団の黒龍はまとめられないけど、そういう金稼ぎができる伝手と信頼があるのは九井」
「九井くん、か……

先日出会った黒龍の集団の、アシメの黒髪の方を思い出す。金髪のスカーフェイスの方では無いだろう。
なるほど、そういう力関係と組織図なのか、と武道は理解する。

「そっか、よく分かったよ。ありがとう、柚葉」

少し腰を浮かして背伸びをして、柚葉の額にキスをした。
そのキスに照れながらも柚葉は憮然とした表情を作った。今夜覚えとけよ、と小声で言う。

そんな二人の様子を真正面から見てしまった三ツ谷と八戒の二人は、引き攣った表情で、しかし食い入るように見つめるしかできない。武道はそんな二人を見てニヤッと嗤った。

「何見てんスか」
「見せてんだろうが……

引き攣ったままの顔で三ツ谷がやっと返すと武道は普段見せない様なニヒルな顔をした。

「集会の時も言ったじゃないっスか。オレ、柚葉ちゃんと番えて幸せだって。こんな美人のヨメ、他にいないじゃないッスか」
「おーおー、見せ付けやがって」

武道も、あまり可愛い姿の柚葉を三ツ谷には見せたくなかったが、コレはオメガを守るだ何だと言って東卍から武道を排除しようとする三ツ谷への意趣返しのようなものだった。

そして、その反応を見て少し安心する。
集会ではアルファである柚葉に興味はないと言っていたが仲の良い八戒の姉である柚葉と三ツ谷は関係が浅くはない。女の子として三ツ谷が柚葉に気がある可能性はゼロでは無いと武道は気を揉んでいた。
しかし、この状況で、三ツ谷の視線は女の子の柚葉ではなくオメガの武道に釘付けだった。まったく柚葉を見ていないワケでも無いが、フェロモンも感じ取れない状況でこれならば三ツ谷に柚葉をとられることはないだろう。

武道がニヤニヤと調子に乗った嗤いを見せれば三ツ谷はバツが悪そうに視線を逸らした。

「じゃあ話を戻しますけど、三ツ谷くんの案は柚葉を黒龍と剥がして、八戒を生贄にする、ついでにオメガのオレには東卍を出てってもらう、で間違いないですね」
「おいおい、そういう言い方はないだろ」
「他にどう言えってんですか。ともかく、案としては受け取っておきます。採用するかはおいておきまして」

困った様に、人の良いフリをする三ツ谷に辟易としつつ武道も笑う。

「別に、オレが東卍から出てくかどうかはマイキーくんの沙汰にもよるんで。少なくとも昨日の時点ではそんなつもりは無さそうでしたが」
……
「マイキーくんは嫌がる隊員を無理に引き留めたりはしないとオレも思います。場地くんやアンタみたいな創設メンバーは置いといて。後はその作戦で行く場合、八戒はどうしたいか、ですね」

まだ、そうすると決まったワケではない。

「八戒、オレはオマエが黒龍に行こうと行くまいと、番である柚葉をこのままつまらねぇ半グレ集団に置いとく気はないよ。まぁまだ無策だけど」
……

思いつめた顔で、八戒は俯いた。
大寿と三ツ谷、どちらがマシかと言えばむやみに暴力を奮わないし懐に入れた相手には面倒見の良い三ツ谷だろう。しかし、結局こうして自分の正しさを押し付けるのだから武道にとっては同じようなものだった。
思い通りの結果にするために、殴るか、期待と信頼という真綿で首を絞めて脅すかの違いだ。武道はどっちも御免だった。

「オレは……
「うん」
「タカちゃんにつくよ」
「そっか」

ソレは、覚悟を決めた顔というよりは暗く、絶望した顔に武道は見えた。それは柚葉も同じだった様で、八戒に何か言ってやろうと腰を浮かせた柚葉を武道は制した。

「タケミっちの男気には悪いけど、現状無策なら、オレが柚葉を守る」
「うん」
「大寿の横暴には慣れてるし、ずっと自由にさせてもらってたんだ。そろそろ、オレもしっかりしねぇとな!」

ニカリ、とむりやり作った笑顔で八戒は笑う。
それを見て、武道は「ロクでもない結果に終わるな」と確信した。もしかしたらコレは既に三ツ谷の方に稀咲の手が入ってる可能性すらある、と。

「オレ、しばらくここ帰らねぇから、家は自由にしてよ!」
「八戒……
「柚葉も、そんな心配そうな顔しないで! せっかくの蜜月なんだからさ! 今が一番幸せで、タケミっちとイチャイチャしたい次期でしょ!」
「いや、まぁ……

そうだけど、と柚葉はそんな八戒から視線を逸らす。
婚約する、番を作る、とはそういう事だ。家族から離れて、その一人を大事にする。どちらかしか選べないなら番を大事にすべきなのだ。オメガと一度番えば、そのオメガを幸せにできるのは自分しか存在しないからだ。

「じゃあ、落ち着いたら連絡するね!」
……

暗い顔をする柚葉の手を握り、代わりに武道が答えた。

「分かった。さっき言った様に、稀咲の甘言に気を付けてね。いってらっしゃい」
……うん」

赤ずきんちゃんを心配する母親みたいなセリフだと自分でも思いながら、武道は手を振る。八戒を連れて、三ツ谷は柴家を後にした。

その背中を見届けて、すぐさま武道は携帯を取り出した。

「何すんの?」
「マイキーくんに連絡。オレとの約束の期限は守ってね、ってのと、八戒が東卍を出て黒龍に入るって言っても三ツ谷くんに脅されてのことだから後で再加入希望しても許してね、って。さっきの会話の録音付き」
……アンタ本当に用意周到ね」
「まぁマイキーくんが八戒達を許すかは分かんねぇけどね」

あー、パケ代かかる。母さんに怒られるかもー。
と武道は普通の女子の様に嘆くのだった。

そして、本題の三ツ谷の件は置いておいて、ばっちり録音されていたオメガ武道の色仕掛けの声にスペースキャットならぬスペースマイキーになる佐野がいたとかいないとか。


・・・


その日のうちに、八戒は東卍を抜けたらしい。
武道からのメールについては伏せたまま、三ツ谷が許可を出したのだからと許したらしい。自分でそうする様に促した癖に二番隊の副隊長は不在のままらしいのが武道は少し笑えてしまった。

その話は翌日に集まった稀咲から聞いた。
オマエは何か知らないか、と少し焦った様な表情で武道に話しかけて来たのを見て、三ツ谷へのソレは稀咲の策略ではなかったのかと少し意外に思う。もしかしたらその表情も演技かもしれないが、取り敢えず気にしない事にした。

稀咲は武道の考えていた通り、黒龍を傘下に入れて東卍の規模拡大を狙っているという事だった。下手なウソなど吐かずに正面から話をされたという事は恐らく武道に諸々がバレている事は分かっているのだろう。武道としても隠してはいない。
そして、今回の騒動に乗じて消すつもりなのだろう。

現状、愛美愛主の中学生組と芭流覇羅で東卍の過半数は超えている。ソレが稀咲の下についているのだから東卍を自分のモノにする下地は整っているだろう。
そこに、黒龍の、恐らく九井の暴力の貸し出しシステムと伝手を引き入れればあっという間に東卍は反社へと転げ落ちる。

未来での様子を見るにどこかのヤクザの下に付く様な事はせずに、ギリギリまで半グレモドキで資金稼ぎの後にフロントの法人を作ってそのまま犯罪組織化だろうか。

頭が良い奴はやる事が違うな、と中卒フリーターだった武道は呆れ半分脱帽半分と言った感想だ。

「三ツ谷くんはどう思ってんだろな」
「ん?」
「八戒の事だよ。ずっと自分を慕ってた弟分を“あの”黒龍にやったんだぞ。どんな気持ちなのか全然分かんねぇよ」
「あー」

カラオケボックスで作戦会議をしながら、松野がぼやいた。松野からすれば三ツ谷の行動は場地が自分を敵地に送った様なものだろう。
芭流覇羅戦の際に、場地に危険から遠ざけられた自覚のある松野には三ツ谷の気持ちは不可解が過ぎた。

「何か、“漢”見せろやとか言ってたよ?」
「オトコォ?」
「うん、柚葉が黒龍で金の渡し役やってるから八戒が代わりにやれってさ」
「そりゃあ……

むしろお前が柚葉守るべきなんじゃねぇの?
と千冬が微妙な顔で武道を見つめた。

「おう、だから八戒にはお前がどうしようとも、オレが柚葉を守るって言ったんだけど、2番隊は“オメガ”は信用できねぇってさ」
「何だそれ。1番隊隊長代理ナメてんのかよ」
「ナメナメだよなー。腹立つ」

ドリンクコーナーで作ったコーラにソフトクリームを乗せたフロートを貪りながら武道は唇を尖らせた。

「で、三ツ谷くんは八戒に“女”の柚葉と“オメガ”のオレの両方を守らせたいっぽいんだよな。将来的にはオレの事も東卍から追い出したいみたいだぜ?」
「うっわ……。やっぱ場地さん以外の兄貴分はダメだわ」

2人で三ツ谷の悪口で盛り上がっているとホットココアを啜りながら稀咲が口を出す。

「俺は分かるけどな。三ツ谷の言い分」
「はぁ? マジかよ」
「実際、オメガのお前にその柚葉ってオンナを守れる確証があるのかよ。だったら姉夫婦がまとめて守られる方が安心だろ。弟からしたら」
「ソレを三ツ谷くんがどうして決めんだよって事だよ」
「八戒が自発的に言えないから代わりに促してやってんだろ兄貴分として」
「強要の間違いだろ」

吐き捨てる様に言う武道を、稀咲は観察する。
太陽の様に笑うヒーローだった武道がこうも露悪的になるのは珍しい、と。

「三ツ谷くんはさ、八戒に“男らしく”あってほしいんだろ。実の兄貴と何も変わんねぇよな」

確かに、三ツ谷本人は特攻服を仕立てたり妹たちの面倒を見たりなどしているが、チームの中ではドラケンなどと比べると喧嘩っ早い所もある。東卍に入る前には武道も何度か怒鳴られた記憶があった。
隊長同士ではより喧嘩っ早い林にも怒鳴り付けているシーンすらある。ギャップがあるというよりは、裁縫や家族仲を理由に舐められない為だろうと思えた。

舐められないというだけであれば八戒は十分に男らしいと言える。身長もあり、喧嘩も出来る。武道と柚葉と三人で黒龍に絡まれた時は冷静に矢面に立ってくれた。
今以上の男らしさなど必要なのか。しかも、守られる事など柚葉も武道も望んでいない。

狂犬の様に噛み付く八戒などソレは既に八戒ではないとすら思える。
三ツ谷から強要された“男らしくオンナを守る八戒”など何の魅力も無い。

「三ツ谷が柚葉を好きな可能性は?」
「は?」

稀咲が考え込むような仕草から思い立った様に顔を上げた。

「ねぇよ。三ツ谷くん、オレが目の前で柚葉をフェロモンで誘惑した時、柚葉じゃなくてオレの方見てたもん」
「何やってんだよタケミっち……
「色々聞き出すのに必要だったんだよ。ってか稀咲、テメェいい加減呼び捨てやめろや。マイキーくんの事も呼び捨てにしやがって。マイキーくんが優しくなきゃとっくにテメェ頭蹴とばされて気絶コースだかんな。あと人のヨメの事も呼び捨てにしてんじゃねぇぞ」
「俺とマイキーはソレが許される仲なんだよ。柚葉さんに関してはすまなかったな」
「お前が柚葉を呼ぶな」
……

武道の理不尽八つ当たりマシンガントークに稀咲が黙るのを見て、一人カラオケしていた半間が爆笑しながら口を挟んだ。

「稀咲言われてやんの。タケミっちウケるわー」
「半間……
「てか、そろそろ作戦会議しねぇの?」
「あぁ、そうだな……

半間に促され、稀咲が仕切り始める。
本来は武道が当事者なのだから武道がするのが妥当だと思うが、本人がコーラフロートと悪口に夢中なので仕方が無い。
武道としては、自分に策があると寄ってきたのだからお前から手の内を明かせ、と言いたい気持ちだったが稀咲には伝わっていなかった。

「柴大寿、および黒龍の強みはその組織力だ。黒龍が金持ち相手に武力を売ってる話は先述の通りだが、それ故に柴はその総長として常に身の回りを隊員で固めている。俺たちが特攻した所で意味はねぇ」
……
「柴をどうにかするのなら一人の時を狙うしかない。そんな時があればだけどな」

もしくは、相当心を許した身内に殺させるか。と武道は心の中で思うが口には出さない。

「そこの情報は黒龍を抜けたがってる男に俺は当たりがある」
「んー、知りたきゃ柚葉から聞くよ? 今」
……

何てこと無い事かの様に、武道は携帯を取り出す。そのまま電話を掛ければ柚葉は数コールもせずに電話に出た。メールの返信も早いし、大分心配をかけているのだろうと思うと少し申し訳なかった。

「あ、柚葉? 今大丈夫? ……うん、そう。東卍の……。そう。大寿くんの対策練ってる。でさ、大寿くん暗殺するならいつにする?ってなってんだけど……え、クリスマス? マジで? 一緒に過ごそうと思ってたのに。マジか。最悪じゃん。ごめん、夜だけちょっと出て良い? ……ごめんって。埋め合わせじゃないけど終わったら正月までずっと傍にいるからさ。もうマジでオレのこと好きにしていいから……。え、今夜? 今夜はちょっといつになるか……分かった! ごめん! ごめんって! 帰ったら好きにしていいから! じゃあね! 後でね!!」
……
「というワケで大寿くん一人になるのクリスマスだってさ。ミサ? 終わった夜に教会で一人で祈るんだとさ。センチメンタルだね。あと早めに帰らないと柚葉に怒られることが決まった」

稀咲の心底嫌そうな顔に満足しながら、武道は柚葉に教えてもらった事を悪口を交えながら報告する。他の面子としては、武道の彼女持ちらしい会話に開いた口が塞がらない状態だった。

「相棒……。マジで彼女持ちになっちまったんだな。」
「彼女超えて婚約者で番だけどな」
「クソー……

机に突っ伏して松野がジタバタとする。
オメガが政略結婚と聞いた時は胸糞悪さを感じたが、当の武道は気にしていない様子で安心と共に嫉妬心が湧いてくる。オレも少女漫画みたいな恋がしてぇ、と。

「まぁいい。じゃあクリスマスの夜に教会で決戦だな」
「おー。ちなみに稀咲、策ってのは大寿くんが一人にならねぇって情報と裏切り者がいるって情報だけか?」
「そうだが?」
「ふぅん?」

黒龍を傘下に入れる立役者の一人になりたいと言う割に策と言える策ではないな、と武道は稀咲を見た。四人がかりでなら倒せるという程、大寿は弱くは無さそうだと武道は思う。
やはり、ここで話す内容は武道を潰すための算段でしかないのだろう。本命は八戒に大寿を殺させることか。

「お前が黒龍とモメてから必死にそこまで調べたんだ。お前が恋人とイチャイチャしてる間にこれだけ集めたのをむしろ褒めてほしいくらいだ」
「ほーん、オレの役に立てて良かったッスねー?」
「テメェ……
「あ?」
「あ゛?」

稀咲の嫌味に嫌味で返せば下らない言い合いになる。正直に言えば、この場で一番強い半間を従えている稀咲にむやみに楯突くのはリスクであるが、半間は稀咲が他の誰かにしない反応を武道に見せているのを喜んでいる節があるため気にしない。
どんだけ稀咲の事好きなんだよ、と引き気味ではあるがどこぞのスカーフェイスの狂犬と比べるとこちらの方がお利巧さんだ。

「じゃ、オレは帰るわ。千冬も帰ろうぜ」
「ん、あぁ」

フリータイム分の料金を机の上に置き、武道たちは部屋を出た。間もなく半間の歌声が背後から響いてきたのでしばらくしないうちに稀咲も部屋をでるだろう。

「相棒さぁ」
「ん?」
「何か隠してる?」

外に出て、繁華街の雑踏の声に紛れる様な、そんなさり気無さで松野が言う。その瞬間に目を少しでも見開いてしまった時点で武道の敗けだったのだろう。

「隠してんだな」
「あー、まぁ、うん。色々と」

少し困った様に、武道は頭を掻く。

「お前、隠し事ばっかだな。性別もだけど」
「ソレは別に隠してるつもりはなかったというか、聞かれなかったし誰にも何も言われなかったからなぁ……。東卍に入ったのもマイキーくんに誘われた流れだし」
「流れでマイキーくんに誘われんのが相棒の持ってるトコだわ……。オレが場地さんに出会えたのには敗けるけど」

このまま話を流してしまおうかと武道は一瞬だけ考える。
しかし、ソレはあまりにも千冬に失礼だ、と武道は思い直した。恐らく、武道が本気で誤魔化そうとしたら松野は誤魔化されてくれるだろう。気になると思いつつも踏み込み過ぎない優しさを松野は持っていた。

「千冬、ちょっと話聞かれない所で二人になろうぜ?」
「良いのか? 彼女が待ってんだろ?」
「うーん、まぁ、今夜は滅茶苦茶されるのは確定済みだから」
「生々しいノロケやめろや」

軽く頭をはたかれて、松野と武道は駐輪場へと向かう。
2人でタンデムし、繁華街を離れる。千冬の背中にくっついて、コレは帰ったら柚葉に本格的に全身マーキングされ直すだろうな、と思う。

そして、何から話そうか考えた。

未来で、日向を殺したクソオンナでしかなかった自分。自分を助けて死んだ千冬。そんな自分よりも千冬を守りたかった一虎。
巨悪になる東卍。その一部となった黒龍。八戒がクリスマスに大寿を殺すであろうこと。

どれから伝えるべきなのか。

「千冬、オレ、未来から来たんだ……


・・・


千冬に未来の全てを話した日から数日、とうとう決戦の日、クリスマスとなった。

昨夜はいつになくしつこく抱かれ、少しだけ身体がダルかったが問題なく朝ごはんを用意する。八戒もいなくなってしまって、広い家に二人は少し寂しかった。
目玉焼きとトーストを焼き、コーヒーを入れている間に柚葉が時間差で降りて来た。

「おはよう、柚葉」
「何で武道が先に起きてんのさ」

念入りに抱き潰したのに、と柚葉は不満顔をする。そして武道も、まぁそうだろうな、と苦笑いで返す。
今日の決戦が無くなればいいと柚葉が思っているのは分かっていた。八戒が勝手に東卍を出て、黒龍に入ったおかげで柚葉はここ数日、全く兄からも弟からも連絡を受けていない。自分から八戒にメールをしても「大丈夫」としか返っては来ない。

何が姉夫婦を守るためだあのクソ野郎ども。

武道と柚葉の総意はソレだった。
心配をかけて、ろくでもない未来しか来ない事が分かっているのを蚊帳の外で見せられている事のなんと苦しい事か。守るためだと抜かして本当に守りたいのは自分たちの特権意識だけだろう。

そんな奴等の戦いに、女で、オメガの武道が入って行くのが柚葉は許したくなかった。

それでも、柚葉は武道を尊重したいと考えて、無理に引き留めはしなかった。情報も出し惜しみはしない。
ただ、行ってほしくないという期待を込めて、丁寧に愛する事しかできない。

「座ってて、もう朝ごはんできてるから」
「うん」

皿に先ほどのトーストと目玉焼きを乗せ、ついでに簡単なサラダを乗せてワンプレートブレックファストを作る。武道はゴマドレッシングを多めに、柚葉はさっぱりとしたフレンチ風が好きだった。

武道の両手が塞がっている事に気付くと柚葉はコーヒーを取りにキッチンまでやってくる。そうして二人で手を合わせて「いただきます」をした。

「今日は、夜出かけるんでしょ」
……うん」
「じゃあ、夕方まではせめて一緒にいて」
「分かった」

不満げな柚葉に武道は是と答える。
元々そのつもりだった。番に寂しい思いをさせてしまうのは心が痛かったが、今夜の決戦はこのまま放って置ける様な案件ではない。
恐らく放って置けば、自分は反社と化して日向を殺し、大寿も柚葉も死ぬのだろう。

朝食の片付けを終えて、武道は何も言わずにソファに座る。
そんな武道の膝に頭を乗せて、柚葉はボンヤリと何かを考えている様だった。武道は武道で、柚葉のなめらかな髪を指で梳く。ただただ、時間だけが過ぎていく。幸せで無意味な時間だった。

そうして、先に話を切り出したのは武道だった。

「もしさ、私が私じゃなくなったらどうする? って話前にしたじゃん」
……うん」
「答え、出た?」

柚葉はまた少し不満そうに顔を顰めて、身体を起こす。そして武道の短い髪を、頭を撫でる様に漉いた。
そのまま唇を寄せ、口付ける。

番ってから十数日、随分と手入れが行き届き、柔らかくしっとりした感触だった。

「アンタがアンタじゃなくても、ちゃんと愛すよ。そんでアンタが戻ってくるまで待つ」
「戻ってくる、って確証があるの?」
「記憶喪失なんだろ? その映画の子」
「あぁ、うん」
「記憶が戻るまで、待つ。もしも戻らなくても、アンタがアンタであるなら、ちゃんと愛す。愛せるよ」

額を合わせ、ジッと瞳を見つめる。求愛だ。
三ツ谷にした様な、威嚇じゃない。甘いフェロモンがふわりと香った。それに応える様に、今度は武道から口づけを贈る。

瞳は合わせたままだった。

唇を重ねたまま、まるでにらめっこ勝負でもしている様な時間は、武道の敗けに終わった。クレイミング勝負はあまり強くないのかもしれない、と自信を失いつつ、身内に甘いだけという事に武道は気付けない。

「私ね、未来から来たんだ、って言ったら、信じる?」
「え?」

少し困った様に、武道は説明を続けた。
未来で殺され続ける親友を助けるためにタイムリープを繰り返している事。そのために、東京卍會に潜入捜査している事。タイムリープの条件は特定の個人と握手をすること。そして、きっかり十二年前の同じ時間に飛ぶこと。つまり今の自分は十二年後の、26歳の武道であるという事。

そして、今の自分がいる間の事は、過去の自分の記憶が曖昧になる事。未来に戻っても、その間の過去の記憶は曖昧になる事。

柚葉は今まで、一度も過去の、本来の時間軸の武道に会ったことはない。出会ってから今までの記憶は、武道が未来に帰れば無くなってしまい、そして十二年という年が過ぎれば今度は十二年間一緒にいた武道の記憶が恐らく人格ごと曖昧になってしまう。

正直に言えば、番になる前まで、武道はあまり深くその事について考えていなかった。
今までの人生で、武道が継続して共にある人間などいなかった。家族とも離れ、孤独に生きて来た。親友の日向とすら、今までの未来では共に無かった。

だから、周りの人間が“武道”を失う事を想定などしなかった。

柚葉といる間はずっと幸せで、未来の事など考えたくなかったけれど、否応なしにリミットは来る。
今夜、柴大寿は殺され、八戒が黒龍を継げば、東卍は最悪の未来を進み、恐らく柚葉も武道も死んでしまう。

「信じなくてもいいよ。ただ、柚葉の事、分かんなくなっちゃうから先に伝えただけ」
「いや、アンタの言う事を、アタシは信じる」
「こんなSF映画好きの妄想みたいな話を?」
「ウソでもいい。ただ、アンタが不安がってるから、アタシは信じる。そんで、アンタが私を忘れても、忘れたフリをしても、アンタを離さない。もう番ってんだから離れようが無いしね」
「契約解除もできるんだよ?」
「しないよ」

少し怒った様に、柚葉は言う。

「アンタが私を忘れても、アンタが発狂して死ぬようなマネはアタシにはできない。例えアンタがアンタじゃなくなってもね」

武道の頭を支え、アームレストを枕にする様にゆっくりと押し倒す。特に抵抗もなく、横になった武道の唇を柚葉はもう一度奪った。

「甘いなぁ……

武道のその言葉は柚葉の言葉に向けたものか、唇に向けたものなのか。
自分でも分かっていなかった。


・・・


そうして過ごし、暗くなる前に武道は柴家を出た。
雪の降る中、こんなホワイトクリスマスなのになぜ自分は抗争なんかに行かねばならないのだ、と不満を口の中で転がしたまま、ファミレスへと到着すれば、先に到着していた三人は露骨に武道を見て嫌そうな顔をした。

「お前、何だそのエグい首筋は。マフラーを外すな。猥褻物陳列罪だぞ」

眉間だけでなく鼻頭までシワッシワに皺を寄せて、稀咲が武道を叱責した。

「うーん、番による今夜は行かせない作戦の結果? 性の6時間いえーい」
「ソレを振り切ってきたのかよお前……

番って他人にフェロモンが感じ取れなくなり、八戒までいなくなってしまった腹いせに、柚葉は一階のリビングで武道を容赦なく抱いた。今夜の結果がどうであれ、武道が失われる可能性があると思えば行為は激しくなってしまう。

「スゲェマーキング臭。ヤベェなそのオンナ」
「柚葉は寂しがりやだから」

首から身体から、噛み痕に鬱血痕に、全身マーキングだらけで、更に言えばアルファの威嚇フェロモンがベッタリと付けられている。
ソレを寂しがりやで済ます変なオメガはヘラヘラと笑う。

「じゃ、行きますか」


・・・


基本的な作戦は簡単で、大寿が到着するより先に武道が到着し、恐らく中で待っているだろう八戒を説得する。
その間に残り3人が大寿の足止めをする。

それだけだった。

無理はするな、と松野は武道に再三注意した。
この勝負のポイントは八戒の説得であり、大寿が三ツ谷と結んだ和平は最悪無視してもいい。佐野も武道の家族の問題として何とかしたいと言う気持ちを優先してくれただけで、無理ならば黒龍と抗争をする気はある。
勝手な条件で勝手に和平を結んだのは三ツ谷であるため、武道がソレを守ってやる義理は無い。

稀咲もその条件で了承した。

恐らく、どのルートで黒龍を傘下に入れようとも稀咲にとっては些事なのだろう。八戒が大寿を殺して、替え玉出頭をさせて恩を売れるならベストぐらいの感覚か。

まぁその大寿の足止めが本当に残りの3人にできるかと言えば無茶だろ、と武道は思っているが少なくとも千冬はやる気だった。相手になるのは半間くらいだろうな、と思い武道からも千冬に「自分は確実に殺されることはないから無理だと思ったらすぐに通せ。稀咲達は最悪捨てとけ」と伝えた。

そうして入った聖堂に、やはり八戒はいた。

「タケミっち?」

驚き半分、納得半分という表情だった。

「何しに来たの?」
「もう分かってんじゃねぇの?」
「オレが何をしようとしてるか、タケミっちは知ってるの?」
「じゃなきゃ今頃オレは柚葉と一緒にいられたよ」
……

ヘラリと笑えば八戒は嫌そうな顔をする。
今日は方々から嫌がられる日だなぁ、と武道はニヤついた。同情されたり泣かれるよりもよほど良い、と。

「八戒、嫌々入った黒龍はどう?」
「最悪だよ。ホント」
「だろうね。いくら八戒程のモデル体型でも、その特服は似合わないよ」

世間話の様に聞けば、吐き捨てる様な答えが入ってくる。
押し付けられた義務感で姉夫婦を守るなんて馬鹿らしい。守られる側も面白くない。

本当に最悪な事をしてくれた、と武道は内心で三ツ谷に毒づく。

結局、八戒がここにいるという事は八戒が黒龍の所業に耐えきれなかった事を意味する。もしくは大寿を中心とする体制に、か。どちらにせよ、三ツ谷がどういう思考で八戒を黒龍に送り出したのか武道には理解できない。

「ねぇ、タケミっち。お願いだから、逃げてよ。もうすぐ大寿が来るよ? そしたら……
「そしたら、大寿を殺す?」
「あぁ……。オレはやる」

ギッと睨み付ける八戒の瞳を、武道は微笑みで返した。
ソレは聞き分けの無い子を諭す母親の様で、八戒をやるせない気持ちにさせた。

ママの様だと、以前柚葉は武道を評した。のちに、撤回されたが、こういう瞳のことだと八戒も同じように思う。ずっと年上の女の人を相手にするような気分だった。
母親と同じオメガと言えど、武道は同い年のおとこであるのに、と八戒は複雑な気持ちになる。

「ソレはダメだよ。人殺しはやっちゃいけない事だ」
「そんな事分かってるよ!!」

自分を諭し、叱る、母親の様な奇妙な男に八戒は声を荒げた。これ以上、自分を惑わすな、と。

「じゃあどうすれば良いってんだ!!!」

母親が死んで、父親が家庭に戻らなくなってから、大寿の“躾”は酷い物だった。暴力による圧政に耐え続け、逃げた先の東卍からさえも信じていた兄貴分に追い出された。

八戒自身も、姉に守られ、兄から逃げ続ける日々に嫌気がささなかったわけではない。しかし、自分に出来る事など無いと幼い頃から分かっていた。大寿によって分からされてきた。
そんな日々の中で、突然戻ってきた父親は会社の都合で誰も望まないオメガとの結婚を迫るだけ迫って、結局家にはいつかなかった。犠牲になった柚葉が偶然にも武道を好きになった事だけが救いで、大寿の行いなど気付きもしない。いっそ父親など二度と現れなければ良かったすら思う。

東卍から黒龍へ移って、自分の所属する組織で、今までしたことの無いような悪行ばかりが行われ、その報告を八戒は聞かされる。
ここ数日でしかないのに、裏切り者の悲鳴を何度聞いたかもわからない。

「あんなクソ野郎、生きてちゃいけねぇんだ! アイツが生きてる限り、オレは、柚葉は……ッ」
「八戒……

その慟哭に、武道は憐れむような、慈しむ様な声で名前を呼んだ。ソレが八戒の古い記憶の母親とダブって、グシャリと顔を歪めた。零れ落ちそうになる涙を寸での所で耐える。
本番はこれからなのだ、と。
しかし、そんな八戒の覚悟を崩す様に、武道は穏やかに笑う。

「八戒、生きてちゃいけねぇ人間なんていないよ。存在することに、許しを与えられるモノも否定できるモノもいない。どんな人間も、もうそこに存在するんだ」
「綺麗ごとじゃ誰も救えねぇぞ」
「うん、そうだね。でもさ、人を殺したら、綺麗ごとなんてもう二度と言えなくなる」

一歩、武道が八戒に近付く。
八戒よりも小柄で、弱いオメガだ。それなのに、怖気づいた様に、八戒はビクリと震えるだけでその場から動けなかった。

「一生、大寿の事引きずって生きるしかできなくなる。兄貴を殺したっていう汚ェ事実を背負っていくんだ」
「それで、柚葉が救われるなら……
「ふふ、柚葉がソレを本気で望むと、ソレで救われる思ってる?」

今度こそ、憐れむ様な声だった。
今までの優しい母親の様な声ではない。
八戒の知る男の声ではない、鈴の音を転がす様な、何かの声だった。

「柚葉ちゃんは、アンタが人殺しになって、喜ぶ様なオンナじゃねぇよ」
……ッ」

怒気と嘲りの混じるその声に、八戒は気圧され、何かに気付きかけた。
しかし、同時に開かれた教会の扉に気をとられた。

カツン、と靴音が響く。

「天にまします我らが父よ」

低い声が朗々と、しかし淡々と、主祷文を唱える。

「願わくば、御名の尊まれんことを」

来たか、と武道は納得した。
ゆっくりと振り向けば、予想通りの男がそこにいた。

「アーメン」

主への祈りにあまりにも相応しくない顔の男だった。どんな気持ちでソレを唱えているのか。武道はキリスト教徒ではないし、クリスマスを祝った数日後には初詣に神社に行く。

その男、柴大寿の気持ちは全く分からなかった。

ただ、想定よりもだいぶ早い大寿の到着に、少しだけ松野の安否が気になった。足止めできなかったらすぐに諦めろと言ったが、この早さは恐らく大寿の到着時点で教会前にはいなかったと想像がつく。
稀咲はここで武道の心も折りに掛かっているのだろう。

「テメェら、ここで何してんだ⁉」

怒声に少しだけ身を竦め、大寿も説得できるか、二人してボコされれば多少は事がマシに収まるか、という考えが脳内に巡る。
しかし、その一瞬の間に、自分をすり抜け、八戒が大寿へと向かっていった。

その手に持ったドスに、武道は声を上げた。

「八戒! ダメだ!!」

武道の制止も聞かず、八戒は大寿に向かう。
この距離では間に合わない、と武道が焦るも、大寿はあっさりと八戒のドスを叩き落とした。キンッと高い音が鳴って、ソレは床へと落ちた。
そして出鼻を挫かれ、よろけた八戒の首を締め上げる。

「オマエは本当にポーズばっかだな。本気で殺しにきたのかと少しは期待したぞ」

失望を滲ませた、呆れを隠さない声だ。
その言葉に、武道はやはり大寿も三ツ谷と同じなのだと確信する。

八戒を自分の思う理想の男に成長させたい、それだけだ。

本気で殺しに来ることを望むなんて馬鹿らしい。ソレが男らしさであるのなら、男にしか分からない世界であるなら、武道はそんなものは一生分かりたくない。
八戒には八戒の生き方があるはずだと武道は思う。

しかし、今はソレを模索する時ではない。
大寿はクズであるが、馬鹿ではない。どうせ殺される事はなく、ボコボコにされるだけだろう。ソレで済むのならそれでも良かった。

八戒の大寿殺害失敗が、直前の自分との会話での動揺によるものであればミッションはクリア。しかし、そうでないのなら他にこの場で何かが起きるハズだ。
とりあえず、ボコされる方向で特攻するかと走ろうとした瞬間、大寿がグルリと首ごと武道を見た。

「ッ!」
「おい、孕み袋。テメェ、オメガなら言うこときいてもらえると思ったか?」

残念だったな、と大寿が嘲笑う。

「違ェますよ、俺はアンタに喧嘩売りに来たんです。お兄様」

ヘラリと笑い、答える。しかし、状況の悪さは分かっていた。喧嘩なんて対等なやり取りができる相手ではない。

ただ、目の前の男に屈するのはどうしても嫌だった。

「分からねぇか。なら、覚えとけ。所詮テメェに出来る事なんざねぇんだよ」

八戒を投げ捨て、大寿が武道に殴り掛かる。
今まで直接対峙して来なかった総長級のその瞳の冷酷さにゾワリと悪寒を感じ、怯んだその一瞬で大寿が距離を詰められる。

「ギ……ッ」

反応が間に合わず、右ストレートがまろい頬にまともに入った。
ぐわん、と脳みそと視界が揺れ、武道の軽い体重では踏ん張る事もできずにふっ飛ばされる。何度か床にバウンドし、首がイカレ無い様に身体の感覚だけで受け身を取るのが精いっぱいだった。
安定しない視界で、上下も分からない三半規管で、それでも立ち上がろうとする武道の首を大寿が締め上げる。

「孕み袋、テメェはまだ柴家に来て日が浅いから知らねぇんだろ。教えてやるよ、八戒の秘密をよぉ」
「武道ッ」

傍から見ても大人と幼児の様な体格差に八戒が悲鳴を上げた。
ソイツはオメガなんだぞ、そう言いたいのに大寿が恐ろしくて声が出ない。荒くなる呼吸だけが響き、恐怖で勝手に身体は震えるのに、自分で喉を震わせることはできない。

情けない、涙が溢れそうになる。
泣くな。泣いても助けなんて……

八戒が絶望に瞳を染めきる直前、教会の長椅子をスルリと縫うように、大寿の背後にオレンジが舞った。

誰よりもその色を先に見つけた武道が、首を絞められ、意識も朦朧としているのに彼女の名前を叫んだ。

「柚葉ちゃんっ! やめてっ!!!」
「ッ‼」

武道の声にいち早く反応したのは、柚葉ではなく大寿だった。
振り向きざまに、若干身体を捻る。分厚い特攻服にズッと入って行く刃物は、彼女の殺意の証だろう。そんなもの、以前からこのために用意しなければ手に入るものでもない。

そして、大寿の背後を狙った完全な奇襲だった。
武道の声にも反応せずに、真っ直ぐに大寿の臓器を狙った。

しかし、それ故に、武道の声に反応した大寿の動きには対応できなかった。
脇腹を掠めるにとどまったナイフは致命傷とならず、大寿に反撃の余力を残した。

「柚葉テメェッ!!!」

ゴッと頭部を狙った拳が柚葉を襲う。それでも武道に対するソレよりも幾分か手加減をしたのだろう。滑る様に床を転がる柚葉のこめかみを少し腫れさせたが、彼女はすぐに態勢を整えて大寿を殺せたか確認する。

特攻服に刺さったままのソレは外からではどの程度の殺傷をもたらしたかは分からない。
しかし、大寿は怒声と共に、近くにあった長椅子を雑に放り投げた。ガシャンッと大きな音を立てて柚葉のすぐ傍に落ちた木製のソレは衝撃に割れる。

一番状況を把握できていない八戒が、呆然と呟く。

「柚葉、何で……?」
「オマエを助けに来た」

ギラリと柚葉の釣り目がちな瞳が光る。

「アタシが全部、終わらせる」

自分のソレよりも、よほど覚悟に溢れた瞳に八戒はグシャリと顔を歪ませた。

「何、で……

八戒が俯く前に、大寿がバサリと特攻服を脱いだ。
その肌には確かに傷があった。しかし、致命には至らない、裂傷だった。

「そこのクズを恨むんだな。ソイツが叫んだお陰で、一瞬早く動けた」

ニタリと嗤い、大寿は武道を嘲る。
そして、再び武道から目を背け、八戒と柚葉に向き直る。

「オマエらは血の繋がった兄を殺そうとした。オマエらの為に骨身を削る、家族を‼」
「アタシたちの為? 違うね。兄貴はいつも自分だけだ。アタシたちの事なんてどうでもいい。家族という言葉でアタシたち姉弟をずっと利用してきた」

怒れる大寿に、柚葉は武道と同じように言葉を返した。
まだ会話ができる存在だと、大寿の事を思っていた。

しかし、ソレはまずいと武道は走り出す。

「アンタは悪魔だ」
「柚葉ちゃんッ!」

その決定的な言葉で、大寿が激昂する。
容赦なく降り抜いた拳が、柚葉の顔面を狙う。当たれば、ただでは済まないであろうソレは、先ほどのソレとは違う怒りに任せた本物だった。

その拳が当たるギリギリのところで、武道が柚葉に体当たりをした。武道の額を掠め、裂傷を与えた拳はだらりと下ろされた。

「主よ、なぜ神は、私にばかり試練を? なぜ私は、愛する妹を殺めなければならないのですか?」

異様な光景だった。
男は涙を流していた。絶望に染まる八戒では無く、誰よりも痛みに耐えて来た柚葉でもなく。圧政者たる大寿が、涙を流す。

「柚葉、オマエを殺す」

その宣言は、その異様な姿から発せられたが故に本物であり、悍ましいものだった。

大寿の幼稚性を表した言葉だ。
思い通りにならなかったから癇癪を起こす子どものソレが、立派な体躯の青年から発せられる歪さ。

柚葉を庇い、大寿の言葉を、武道はまっすぐに受け止めた。

そして、散々二人で悪口を言った父親たちの事を思い出す。あのクソ親父たちに真っ当な子育てなどできるハズがない。
恐らく、母親が亡くなった年齢から、大寿はまだ進めていないのだと、武道は察する。

だからこそ、八戒と柚葉を止めた様に、大寿も止めてあげなければならない。

「大寿くん、人殺しはダメだ」
「はっ、オマエは八戒にもそのご高説を垂れていたな? 八戒にすら響かない言葉が、この俺に届くとでも思っているのか? オメガごときが」
「あぁ。届くまで言うだけだ。人殺しはダメだ」

真っ直ぐに、ただひたすら真っ直ぐに、言葉を掛けるしかできない。
届かない事も分かっている。それでも、暴力で相手を制御するマネだけはしたくなかった。

「どけ、クソオンナ」
「嫌だね。みすみす番を殺させるオメガはいないよ」

出来るだけ生意気に、ヘイトを稼ぐ様に、武道はヘラリと笑う。こちらに気を向けているうちに、柚葉が逃げてくれれば良いと思った。
頭の良い彼女が、警察でも呼んでくれれば最高だ。ソレが実行されるとも思ってはいなかったが、大寿の柚葉への怒りのクールダウンの時間稼ぎにでもなればいい。

「“家族”なんだろ? 今までの全て、大事にしたいと思っての行動だったハズだろ。ソレを台無しにする一手を、どうして一番家族を思ってるって言うアンタがとるんだ!」
「初めに殺そうとしてきたのがコイツ等だろうが!」
「ぐァア゛……ッ!」

柚葉を背に庇っているせいで、武道はその拳を避ける事が出来なかった。避けきれる自信も無く、出来るだけ覚悟をして受けるしかない。
しかし、その覚悟空しく、呻き声を上げて、軽くふっ飛ばされる。体格のいい男の拳を、小柄な女子が受けているのだから当然の結果だった。

グシャリと床に叩きつけられた武道に柚葉は声にならない悲鳴を上げた。

それでも、武道は立ち上がる。他に方法など知らなかった。出来ることなど、諦めない事だけだった。

あまりにも愚直だと、武道自身思う。

「なぁ、おかしいって分かってるんだろ。だから泣いてんだろ。向けられた殺意がおかしいのなら、向ける殺意だっておかしいんだよ」

殺し合う必要なんてないハズだ。
大寿のソレは、その精神の未熟さゆえのモノだ。ただの兄弟喧嘩で済むハズのものだ。

ソレが、どうして、こうなったのか。

矛を収める事が出来るハズなのだ、と。

しかし、その言葉は届かない。

「武道、ごめんね。コレがウチら兄弟の選んだ道だ」

武道の背後から、声がした。

「八戒は、アタシが守る。守るんだ……ッ」

八戒の取り落としたドスを拾い、据わった目で柚葉は大寿を睨む。

自分の言葉は誰にも届いていない、番にさえも。自分は無力だと、武道は悲しくなる。「人殺しはいけない」という簡単な言葉さえも、自分の番には伝わらないのだ。
守るために、殺すなんておかしい。

まだ、和解の余地はあるのだと武道は思うのに、ソレを実行するだけの力が自分には無い。

絶望という言葉が頭を過る。
敗けたくない。しかし、勝ち筋が見えない。

せめて、自分が、と柚葉の前に立ちはだかろうと振り向いた時、聖堂にまた一人、声が増えた。

「守る時に使うモンじゃねぇよソレ」
「三ツ谷くん?」

武道の後ろの柚葉の、その更に後ろから、穏やかに、しかししっかりと怒気のこもった声が響く。
柚葉の持つドスの刀身を掴み、彼女に武装解除を求める。

「手ぇ離せよ柚葉、オレの手が切れちまう」

ポタポタと流れる血に、柚葉は血の気が引く。大寿以外を傷付けるつもりなど無かったのに、と。
ふらりと眩暈によろめき手を離す柚葉を抱きとめ、三ツ谷はボコボコにされた武道を見る。

「派手にやられてんな」
「この惨状、誰のせいだと思ってんスか」
「まー、オレだわな。すまねぇ」

藪蛇野郎め、と睨む武道に三ツ谷は冷や汗を流す。

想像以上に、状況は悪い。
まさかこうなるとは思っていなかった。

この教会内で、一番酷い傷を負っているのが女でオメガの武道だった。大寿は容赦しないだろうと思っていたが、まさか武道が柚葉をここまで庇い、八戒がここまで何もできないとは思っていなかった。

「何でここに?」

オマエが作った状況だろうと睨めば三ツ谷は視線を逸らした。

「いやぁ、フツーに千冬とマイキーに怒られてよ。オレは良かれと思って女のお前が自然に足抜けできる状況を作ってやりたかったんだけど。一番ボロボロにさせちまったな。悪い」
「マジで大きなお世話ですし、悪いで済んだら制裁はねぇんですよ。っつか、いつからオレが女だって気付いてたんスか?」
「んー、割と前から。いくらオメガでも特服ちっさすぎるし、時々女っぽい仕草するから訳アリなんだと様子見してた」

マイキーが引き込んだ上に、気付いた時には隊長代理になんかなってるから焦ったわ。と三ツ谷はバツが悪そうに頭を掻いた。

「八戒が一歩前に進む踏み台になってくれると思っただけだったんだけど、マジでボロボロにしちまってすまねぇ」
「ぜってぇ許さねェので柚葉ちゃんにソレ以上触れないでもらえます?」
「分かった。選手交代だ」

武道と交代する形で、三ツ谷が大寿の前へと出る。

「さて、オレが相手だクソヤロー」


・・・


過度の緊張とストレスで気を失った柚葉を武道は出来るだけ戦闘の中心から離れた長椅子へと横たえる。
大寿と三ツ谷の死闘の余波が、柚葉に来ない事だけを武道は願っていた。

そして自分も八戒の傍で観戦すべきか迷う。まだ、八戒は柚葉に守られたショックから抜けていない。今の八戒は何をしでかすか分からないから傍にいてやりたかった。しかし、柚葉を一人にすることはできない。

そのすぐ傍のドアが開けられ、新たな入室者が増える。

「千冬!」
「タケミっち! 無事で良かった!」
「無事なもんかよ。この怪我見えてねぇの?」
「お前がボロボロなのはいつものことじゃん」

孤軍奮闘から希望が見えてきて、武道の表情が明るくなる。
そして千冬の後ろからひょこっと佐野が現れた。

「マイキーくん⁉」
「メリークリスマス、タケミっち。三ツ谷達がごめんね」
「いえ、そんな……

特攻服ではない冬らしい装いの佐野はあまり喧嘩に参加する気がなさそうだった。

「タケミっちの嫁姑問題に妙な茶々いれちゃったお詫びに三ツ谷は貸し出してあげるし、マジでヤバくなったらオレが出てあげる。もう無理なら、今すぐオレが大寿をノシてあげるけど、どうする?」
……オレ、自分で大寿くんを止めたいです」
「そっか」

武道の言葉に佐野はニコリと笑う。装いのせいか、その顔が妙に儚げに見えた。

「柚葉だけ見ててもらってもいいですか?」
「良いよ。タケミっちの彼女には傷一つ付けさせないから安心して」
「お願いします!」

信頼しきった明るい笑顔で、武道は佐野に頭を下げて喧嘩の中心部へと向かう。
そしてその背中を見送りながら、佐野は柚葉の眠る隣へと座った。

「いいなぁ。オレももっと早く気付けてたら、なんて……

そんなもしも、あったとしても散々ボロボロにさせてきた自分にそんな権利ないよなぁ、と佐野はため息を吐いた。


・・・


松野を連れて戻ってきた武道に、いち早く大寿が気付く。

「なんだ、仲間一人連れてきて意味なんかあるとでも思ってんのか? 外には黒龍の精鋭が100人詰めてんだぞ?」

そう、大寿が嘲るように笑えば、武道も同じ様に笑い返した。

「何か、マイキーくん達がおまけでノシてくれてっぽいッス。コレで、やっと兄弟喧嘩ができますね」
「あ?」

途中から、大寿が家族への愛や、それ故の殺意が無くなって、ただ蹂躙するだけの暴力装置になっているのは気付いていた。
三ツ谷が八戒の兄貴ぶろうとした辺りからだろうか。結局、この二人は似ているのだと武道は思う。

望んでいる事も同じ、八戒にそれぞれが思い描く“強い男”になってほしい。
それだけだ。

武道には何も望まず、敢えて言うのなら、オメガのオンナとして守られていろ、しゃしゃり出てくるな、というのが望みか。

だから、先ほどの佐野の言葉に武道は勇気をもらった。どうする? の一言に、久しぶりに人として尊重された様に思えた。言葉とやる気だけで何でもできるワケが無いと分かっていても、尊敬する総長からのソレは別格だと思えた。

「マイキーくん優しいから、オレと、アンタと八戒の兄弟喧嘩の盤上を整えてくれたんスよ」
「テメェが兄弟だ? ふざけてんのか。孕み袋風情が」
「オレと柚葉は一心同体。オレが死ねば柚葉も死にますし、逆もまたしかり。アンタは柚葉を殺したがってたし、いいじゃないッスか。オレを殺せば柚葉も死にます」
「な……ッ」

武道の煽る様な言葉に、三ツ谷は言葉を失う。この期に及んで何をしているのか、と。
そして声を上げた三ツ谷に武道は微笑み掛ける。

「さて、三ツ谷くん。オレは柚葉の代理になりますけど、アンタは八戒の代理やるんです? そこで震えてるだけの八戒の代役がアンタで良いんですか?」
「それ、は……
「アンタの呼びかけに応えない男の代わりに、オレと一緒に死にますか?」

ニカリといっそ爽やかに笑う武道の真意は分からない。
一緒に佐野が来ているとはいえ、この“死ぬ”という言葉がはったりには聞こえなかった。

三ツ谷は、自分のこの状況は佐野からの制裁だと思っていた。女の子を助けようとして、勝手な行動をして、総長の命令を無視した。その結果、この最悪な状況を生んだ。
だから、佐野が自分を助ける事は無いと思っていた。

しかし、完全に被害者でしかない武道は別だろうと思っていた。

何よりも、武道はオンナで、オメガだ。マイキーが守らないハズがない、と。

しかし、その予想が、武道自身によって覆される。
本当に、彼女は死ぬ気なのだ、と。

その覚悟に気圧され、三ツ谷は口籠る。
ソレをみて武道は嗤った。

「じゃ、また選手交代ですね」
「させると思うか?」

武道に応えたのは三ツ谷では無く大寿だった。
ゴッと既に満身創痍の三ツ谷を殴り飛ばす。ふっ飛ばされ、長椅子にぶつかり、気を失ったか、死んだかも分からない。

そこでやっと、八戒が動いた。

震える手で、落ちていたドスを掴む。

「オレだって、オレだって……

うわ言の様に呟いて、ふらふらと立ち上がる。
まずいな、と思ったのは武道だけだった。

「やれるんだ! 大寿ぅうッ!!」

得物を構え、走りだした八戒の前に、武道は飛び出す。下手をすれば刺されていたのは自分であるのに、蛮勇か、見切ったのか、武道自身にも分からない確信で、武道は八戒の前へと飛び出て、ドスで刺されること無く、八戒の額に重たい頭突きを食らわせた。

「くっ、邪魔すんなタケミチ!」

興奮したままの八戒に対峙し、立ちはだかる。そして、先ほどの三ツ谷の真似で、八戒の持つドスの刀身を握った。

「何度言わせるんだ? “人殺しはダメだ”」
……ッ」
「立ち向かうってそういう事じゃねぇよ。オレはお前の義兄アニキだから、見せてやるよ」

また、ドスが地面に落ちる。

「そうだ。そうして震えてろ。人殺しなんかするよりもそっちのがよっぽどマシだ」

唖然とする八戒に背を向けて、武道は大寿に対峙した。

「お待たせ、お義兄様」

目を見開いて、眉間に皺を寄せて、ありったけの勇気をかき集めて、武道は大寿の前に立つ。オーソドックスなファイティングポーズは今までのダメージの蓄積もあり隙だらけだった。

「まだ懲りねぇのか」
「それだけが取り柄なんだよ」

武道が見せる笑顔に、大寿は不気味ささえ感じる。
いったい、何がこの女をここまで駆り立てさせるのか。

ただ黙っていう事を聞いていれば、こんな目に遭わずに済んだハズなのだ。

女として貞淑に、オメガとして淫らに、ニコニコと笑ってアルファに媚びを売って生きれば良い。それだけで今よりももっとマシな人生を送れたハズだ。

ソレをこの女は、どうして、ソレができない?

殴られ、立ち上がって、ふっ飛ばされて、長椅子にブチ当たり、立ち上がる。
体格が、リーチが、膂力が、何もかもが違う。

なのに、武道は立ち上がった。
今まで見てきたどんな喧嘩の中で、怪我を負った奴で、ここまで酷く腫れ、血まみれになった奴はいなかった。勿論、縛り付けて、拷問した相手ほどの重傷ではない。

しかし、誰もこんなになってまで相手に挑む奴はいなかった。

頭がおかしいのだと思う。イカレてやがるとしか言えない。

こうなれば、こうなる前に、普通は戦意を喪失するのだ。助けてくれと泣き叫ぶハズだ。

いっそ周りの誰もが、武道に降参してくれと願った。

当の大寿ですら、殴りつかれていつまで続くのかと息を切らした。

それでも、武道だけはギラついた瞳で前を見据えていた。

「大寿、オレが勝ったら、黒龍をもらうよ」
「あ?」
「オマエにも、八戒にも言葉が届かないなら。それしかないじゃん」

ニヘラ、と腫れて、引き攣った顔で笑顔を作る。
もうその姿はオンナにもオメガにも見えなかった。

ソレこそが、花垣武道だと全身で主張する。

自分自身の生き様がコレなのだと、理不尽に立ち向かう事こそが、不良であり、ヒーローなのだと。

「いいよ。抗い続けるから。一緒に死のうぜ」

共倒れになるまで、戦い続けてやるという狂気に、ゾワリと大寿に怖気が奔る。

「オレは敗けねぇ。戦い続けるからな」

何度目かも分からないクロスの瞬間、武道の瞳が大寿のソレと交わる。ビリッと音が鳴った気がした。そして、今まで一度も届かなかった拳が、大寿の顔面へと届いた。

しかしソレはもろ刃の剣の様なものだ。

これだけのリーチの違いがあれば、武道の拳が届いたという事は、これまで以上の近さで大寿の拳が武道に届くという事だ。
ゴッと鈍い音を立てて、武道ふっ飛ばされる。

既にボロボロの顔面が更に、ひしゃげ、潰れる。
腫れて開かない片目の中がどうなっているのかも分からない。失明してなければいいが、と思うがこの状況なら体感骨も折れていないし大丈夫だろうと言う自信もあった。
無事な方の目で見れば、大寿も膝を付いていた。単純な疲労に加え、侮っていた相手の拳が初めて自分に届いたという精神的ショックだろうかと考える。

しかし、何が原因だろうと武道が出来ることは一つだった。
立ち上がる。ただ、それだけだった。

「タケミチ、もう……
「なぁ、八戒」
「ッ」
「もしも、未来を変えられるなら、命を懸ける価値はあるだろう?」

武道を遮る様に、八戒が前に出て、何とか武道を止めようとする。
しかし、そんな八戒に武道は微笑む。

「八戒、頑張る事は辛くねぇよ。一番つらい事は、“孤独”な事だ」

あまりにも痛ましい姿であるのに、八戒は何故か縋りつきたくなる。

「なんでも話せよ、八戒。オレら、友達だろ」

その言葉が本物だと信じてしまう。

信じたくなってしまう。

「オレを、助けてくれ」

ギリギリまで耐えていた涙が、頬を零れ落ちた。

「任せろ、八戒」

その会話を大寿は膝を付きながら聞く。
そして、ゆっくりと立ち上がり、ボロボロの武道と、無傷の八戒に二人に立ちはだかる。

「ホントにテメェは情けねぇオトコだな八戒」
……
「俺に立ち向かえず、最後までオンナの後ろで隠れてんのか」

武道の姿を見て、やっともう暴力でコイツを折るには殺すしかないと大寿は諦めた。
代わりに、心を折ろうと決める。

「なぁ花垣。お前が助けようとしてる八戒は、ガキの頃から柚葉に守られて生きてやがったんだぞ」
「ふぅん?」
「柚葉が、八戒の代わりに全ての躾を受けて、コイツはのうのうと生きて来たんだ。そんな八戒をお前が助ける? どうやってだ? 死ぬまでオレの拳を受ける事が手本だと? コイツの甘ったれが今更どうにかなると本気で思ってるのか?」
「別に、八戒が甘えん坊でもなんでもいいよ」

武道のやる気を削ぐことが、最優先事項。
これ以上の泥仕合は大寿としても望んでいなかった。

しかし、とっておきの“八戒の秘密”にも武道は動じない。

「テメェにはテメェの生き方がある。それでもやっちゃいけねぇ事が“人殺し”だ。オレはそれさえ止められたら他はもう気にしねぇ」
「八戒がクズのままで良いと?」
「クズって言うなよ。お前の弟だろ」

呆れた様に武道は笑う。
まだ大寿は戦えるだろうけれど、殺意は失っていると言える。最低限の目標はクリアと言えるだろう。この場に稀咲と半間がいない事だけが気がかりだったが。

「まぁガキの喧嘩に得物持ち出したり、結局何もしてねぇし、兄貴に反抗の一つもできねぇし、八戒は超ダセェよ」
……
「でもさ、だからって見捨てる程度の仲じゃねぇんだよオレ達って」

散々な言われ様に八戒は俯いた。
しかし、自分の弱さが、ダサさが今なら分かる。

「みんな多かれ少なかれダセェよ。っていうか今どき不良なんかやってる時点でマトモな奴からしたらダセェんだわ。オレだって時代遅れのリーゼントだぜ? 服だってまともに褒められたことねぇし」

恐怖に打ち勝つ事ができない事よりも、打ち勝てない、打ち勝つつもりも無く、その癖、一丁前にファイティングポーズだけとっていたのだ。
殴る事も出来ない癖に、握った拳を下ろすことも出来ない。殴る気はあるのだと嘘を吐く滑稽さが本当に救えない。

「でもさ、ダセェならダセェって言い合えるだけで良いじゃん。だからさ、八戒。戻って来いよ。東卍に」

ボロボロと零れていた涙を袖で拭い、差し出された武道の手をとる。武道に引き上げる力など残っていないことは分かっていた。

それでも縋りたくなる手だった。

ただ縋るだけじゃいけないと、武道が教えてくれた。
だから、八戒は自分で立ち上がり、袖を濡らした特攻服を脱ぎ捨てた。

「二度と、黒龍の特攻服は着ねぇ‼」

大寿の元へと武道を背に庇い、歩いて行く。

「東京卍會、弐番隊副隊長、柴八戒‼ 柚葉を‼ 仲間を‼ 家族を守る為にテメェをぶっ飛ばす‼」

大寿が八戒を侮った結果の、完全な正面からの不意打ちだった。
綺麗に顔面に入った拳が、大寿の脳みそを揺らす。

しかし、ソレだけだった。

すぐに持ち直した大寿は態勢を整え、八戒を迎撃する。
後は黒龍を武力で率いた怪物、大寿との総力戦だった。武道と三ツ谷は満身創痍、まだ無傷の八戒と千冬がメインで前に出た。
それでも、勝てる気がしない戦いだった。

いっそ武道が入れた拳が一番大寿の心を折るものだった。
武道を殴る事自体に疲弊を感じていた時と違い、いっそ生き生きと大寿は戦う。

何となく、まぁそうだろうなと武道は思った。
単純な強さで言えば、大寿は佐野以外の、今までの誰よりも強いと武道も感じた。

敗けてもまぁ仕方が無いとすら思える。
本当に本当の、武力により敗北だ。

未来を変える事を成功しただけ良いだろう。いつだって、武道は死ぬ気で未来を変えて来た。今回も同じことだった。

でも、今回こそ死ぬかもしれないな、と武道は朦朧とする頭で思う。

フラリと倒れた瞬間、武道を支えたのは柔らかな腕だった。

「ナイスファイト、タケミっち。お前の彼女起きたから連れて来たよ」
「え?」

武道を抱きとめたのは柚葉だった。
涙に潤み、震えているのは自分の惨状のせいだろうと流石に分かった。

しかし、どうしてこんな危険な場所に柚葉を連れて来たのか、と佐野を見ようとした瞬間、武道の視界に入ったのは倒れ伏す大寿だった。

「言ったじゃん、傷一つ付けさせないから安心して、って」

何も見えなかったのは自分がフラフラだからなのか、佐野の蹴りが規格外だったからかのか。おそらく両方だと武道は結論付けた。

「あひはほうほざいましゅ、まいひーふん」
「うっわ、呂律回ってないどころじゃないじゃんタケミっち。歯ぁ折れてない?」
「歯はふじれしゅ」
「うーん頑丈過ぎて引く」
「ひろい!」

柚葉の腕の中で、武道は佐野といつもの様に話す。
その姿を複雑そうに柚葉が見つめているのに気付いて、佐野は柚葉にも笑いかけた。

「タケミっちとは友達だから安心してよ。オメガもアルファも関係ねぇ。タケミっちだから、東卍に入れたんだし、東卍に入ってるんだから守ってるし助ける。さっきタケミっちが八戒に啖呵切ってたじゃん」
……うん」

珍しく他人に気を遣ったのに、あまり相手を元気にできなかったとむしろ佐野が落ち込みそうになった時、横から千冬が声を掛けた。

「タケミっち、これから病院行くか? 送ってく?」
「いや、オレはここで大寿が起きるのを待つよ」
「は?」

その驚きの声は誰のものだったのか、武道の発言に対するものだったのか、それとも先ほどまで腫れて呂律が回っていなかったし舌がもう回っている事にたいしてなのかは分からない。
ただ一つ、その声が花垣武道の異常性について驚いたのは確かだった。

「えー、タケミっちマジで?」
「後片付けとか黒龍に任せとけばいいんだぞ? 外の100人含め今日一番重症なのはお前だぞ」
「起きた大寿に何されるか分かんねぇんだぞ」

口々に心配される言葉に武道は困った様に笑った。

「うん、待っててあげたいから」
「そっかぁ……

こうと決めたら梃子でも動かないのはその顔面の傷が物語っていた。クリスマスも終わりそうな深夜、佐野含め全員がその場にとどまる事を決めた。

柚葉の腕の中で、武道は疲労とダメージによって気絶しそうになりながらもなんとか意識を保っていた。

そうしてやっと大寿が目を覚まして、最初に目にしたのはやはりオンナともオメガとも思えない酷い顔をした花垣武道だった。

「オマエ……
「あ、起きましたか。おはようございます」
……

先ほどまで殺し合いをしていた相手とは思えないフランクさで、武道は笑う。いっそ、武道を抱き込む柚葉の方が大寿を警戒している。

「何のつもりだ」
「はい?」
「オレは佐野に敗けたのだろう。捨て置けば良かったじゃないか」
「いや、流石に義兄を気絶させたまま放置はフツーしませんよ」

今まで会った中で一番常識外の存在である武道にそんなことを言われ、大寿は憮然とした顔を作る。

「大寿くんこれからどうするのかな、って思って。何かほっといたら逃げられそうだなって」
「逃げるだと? この俺が?」
「はい、八戒とも柚葉とも顔を合わせづらいでしょう。だからこのままむりやり合わせちゃおうと思いまして……
……

何なんだコイツは、と大寿が助けを求める様に周囲の東卍を見たが全員が全力で目を逸らした。
あかの他人を助けるために手に穴をあけ、腹に穴をあけ、顔面をボコボコにされても立ち上がる人間など理解し、説明できるものじゃない。

「大寿くんは多分まだ自分の非を完全に理解できてないと思いますし、時間もかかると思います。だから、ソレはソレでありな選択だと思います。でも、連絡つかないのは困るのでケー番とメアドだけ交換しません?」
……
「はい、赤外線通信」

パカリと開いて待っていても大寿は戸惑った顔しか見せない為、勝手に服を弄って大寿の携帯を取り出す。
意味が分からな過ぎて抵抗する気すら起きなかった。

「はい、ありがとうございます。それとついでに、今後の黒龍はどうしましょう。コレ、抗争に敗けた扱いで大丈夫です?」
「そりゃ、総長が敗けてんだから非公式試合でも敗けは敗けだろ。ってかほぼタケミっちの功績だから、黒龍もらう宣言通りにタケミっちが黒龍もらえば?」
「え、微妙にいらな……

武道の疑問には佐野が答えた。そしてその佐野の答えに大寿も同意した。

「一度負けたトップに付いてくタマじゃねぇよ。暴力によってのみ統率されたじゃじゃ馬だ。もう好きにしろ」
「ますますほしくない!」
「まぁ詳しくは幹部集会だなー」

勢いでとんでもない事を言うんじゃなかったと武道が後悔すれば、他の東卍メンツがカラカラと笑った。あんな死闘の後だと言うのに暢気な奴等で大寿はどう反応していいか分からなかった。

見れば、ボロボロにした聖堂内も綺麗になっている。

曰く、先に起きた黒龍の部下たちにやらせたそうだ。目の前に気絶するボスと無敵のマイキーがいればおのずと何が起きたのかは分かるだろう。
細かい引継ぎは九井にぶん投げる事に決めた。

黒龍の活動がなければ収入は減るが、時間は増えるだろう。

せいぜいゆっくりと今回の事に付いて噛み砕いで消化してやろうと大寿は早々に決める。そして、武道の言う通り、柚葉と八戒の前からは雲隠れすることに決めた。
今はまだ謝ったりできる段階ではないと大寿自身分かっていた。

それでも、形だけでも謝るのが筋だと柚葉は思ったが、この兄にはどうせ無理だと分かっている。その程度には家族だった。

武道の我儘と言う用事も終わり、解散ムードが漂う。

時刻は間もなく明け方だった。

「今は、死んでほしいほど嫌いだけど、愛してるよ」
「じゃ、気が向いたら連絡ください」

聖堂に一人残され、大寿はボンヤリとステンドグラスを見つめた。

朝陽を受け、マリアは神々しく、いつもと同じように微笑んでいた。



・・・


新年から数日後。
黒龍の事後処理を終え、稀咲の処遇を決め、場地が退院し東卍へ戻った。

今年最初の東卍集会で、稀咲は追放され、場地は一番隊隊長に戻り、武道は代理から平へと戻った。
黒龍はひとまず佐野の管轄となり、もう少し考えてから武道が新しい黒龍部隊の隊長に付くかは決める事になった。

そうしてやっと落ち着いた頃、武道は近所の公園にナオトと柚葉を呼び出した。

柚葉には事前に伝えた通り、自分の記憶はなくなるからと言い含めた。今更もうソレが嘘なのでは無いかと希望的観測は柚葉もやめた。

そうして、ナオトには日向の事を頼み、握手をする。

その瞬間、柚葉にも何か言い表せない様な酷い喪失感が生まれる。実感として、自身が番った相手が離れた事が理解できてしまった。

不思議そうな顔でナオトと一言二言喋り、分かれた武道に柚葉は近付く。

「初めまして、アタシの運命」

驚いた顔はほとんど柚葉の知る武道だった。