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愚かな男達の話


時々、自分で自分が分からなくなる瞬間があった。
此処じゃない何処かで、誰かといる自分が本来の自分なのではないかと思う瞬間だ。
 
そしてそれは、何故か姉の恋人を思い出す時がほとんどだった。
 
橘直人、25歳独身。
職業、オカルト雑誌記者。大学卒業後、父親の反対を押し切り趣味の延長線上の職についたことは間違いではなかったハズだった。日々は充実し、収入はあまり安定していないがやり繰りするだけの頭がある。
 
それなのに、焦燥感の様な何かが時々胸を焼く。
本当はもっとしなければいけない事があったハズなのだと、存在しない使命感に苛まれる。ソレは父の押し付けに従って警察官になるべきなのだと言う理性の表れなのではないかと直人は自己分析していた。
 
そうだとすると、姉の恋人を思い出す事には何の意味があるのか。
 
中学頃に姉が手に入れた恋人、名前を花垣武道という。
いわゆる不良というヤツで幼馴染の佐野万次郎と組んで暴走族を作り、全国の不良を統一した凄い人だ。何故そんなことをするのかなど直人には分からなかったが。
たくさんの人間から慕われ、全国統一の間に半グレへと堕ちかけていた少年少女たちを何人も拾い上げた。それが無ければ父親が日向と武道の結婚を許すことは無かっただろう。
現役時代は何度も父と姉が口論するのを見た。直人はどちらかと言えば父親に賛成で、あの詰めの甘い男がいつ姉を危険にさらすのか気が気ではなかった。
理不尽で怖い所もあるが姉の事は嫌いではなかった。
 
そんな二人のハレの日だった。
いつのも離人感に襲われたのは。
 
世界で一番美しい光景だった。
純白のドレスを着た美しい姉と、人望だけはあるその旦那。燦然と降り注ぐステンドグラス越しの陽光が何もかもを照らしていたハズだった。
 
なのに、直人はそわそわと落ち着かない気分になる。
 
新宿駅に行かなくてはならない。
彼を助けるべきだ。
 
そんな使命感が胸の内で渦巻く。
彼、とは恐らく花垣武道のことだ。直人がそういった妙な使命感に襲われるのはいつもその男の事だった。
理性的な脳みそがそんな必要はないと理解し、身体を制御しなければ走り出してしまいそうな、強い使命感だった。

駅に行っても誰がいるというワケが無い。
何故ならば彼は目の前で仲間に囲まれ姉と永遠の愛を誓っているのだから。

式が終わり、直人は努めて明るく振舞う。義兄の仲間に比べれば暗いのかもしれないがあんなパーリーピーポー達と比べないでほしい。
姉の結婚は喜ばしいことだ。幸せにしてね、などとかわい子ぶっていたが姉がこれからも義兄を支えるのだろう。自分とは違い堅実な職に就いたのはいまだ夢半ばなあの男を支えるためもある、と直人は姉について思っていた。

二次会までは付き合って、三次会の前に帰路へとつく。
 
翌日、無意識に新宿駅に寄ってしまったのはこの焦燥感を安心させたかったのだろう。此処にあの人はいない。今頃あの人は姉と幸せを噛みしめているハズだ。
 
何故、此処にあの人がいると思ったのか。
 
「は?」
 
まるで時限爆弾が爆発した様だった。
 
「武道くん、アナタ、やってくれましたね……」

落ち着かない心を落ち着かせるために暗くなった中フラフラと歩いていたその歩みを思わず止める。
 
12年前、彼と初めて手を繋いだ時間だった。
 
橘直人はそのほとんどを思い出した。
前の自分がこの12年間をどう過ごしてきたのか。このよく分からない二重の記憶、離人感、その原因の、男。

その男を、自分がどう思っていたのか。
 

・・・


 
癖の強い黒髪が白いシーツとのコントラストを作る。
組み敷いた身体はけして細くは無く、自分と同じ男のものだった。

奇妙な高揚感と、罪悪感を感じながら手を伸ばし……目が覚める。

「……」
 
あの日、橘直人の疑問は全て解決した。二重の記憶が何を示していたのか。義兄はなんのために何をしたのか。そこに自分はどう関わっていたのか。前の世界の自分は随分とあの男と親しくしていた。
そして浮上した新たな問題。あの男と自分は寝ていたらしい。
 
バカじゃないのか。
 
一時の気の迷いだとしても姉の恋人に手を出すなどありえないし、義弟に抱かれるあの男もあの男だ。
過去に戻り、手を繋げば肉体的には無かったことになる。それはそうであるが倫理観の問題だ。
 
何故、あの男は今も全く気にせずに自分に声をかけてくるのか……。
 
詳しい事はまだ思い出せず、どうやったのかは分からないが、武道は日向を助けるための時間の旅を直人以外の誰かと終えたらしかった。
確かに、直人との握手では戻れるのは12年前の同じ時間のみであり、根深い問題がそれよりも前に起きていたのであれば直人との握手では解決することはできない。
 
分かってはいる。分かってはいるが納得はできない。自分との共闘の日々は何だったのか。
 
あの浮気者め!
 
自分と肉体関係があったことも含め直人は武道を内心罵る。口に出してしまえば自分がタイムリープの事を思い出したことがバレてしまうため面と向かって罵る事はできない。
流石に姉が死んでいる間にその元カレとセックスしていたことを思い出したなんてバツが悪過ぎる。
 
それなのに、武道は平気で直人に声を掛けてくるので困った。
 
「ナオト~、頼むよ~! オレ一人だと怖すぎて無理なんだって~!」
 
今回の内容は次に武道が関わる映画のロケ地の下見に一緒に来てほしいと言うものだった。
次回作はホラーものらしく、個人が所有する山で撮影をしたいと監督がロケ地を決めたらしい。撮影許可などは既に取っていて、最後に助監督である武道が最終チェックをするという事だった。
 
昔から“おばけ”の苦手な武道にとって、ホラー映画を撮るのは少し気が引ける案件だったが、監督曰く、本気で怖いと思うことのできる人間にサポートをしてほしいということらしい。
 
サポートなら、と請け負った武道だったが、ロケ地の下見など聞いていないと滂沱の涙を流す。オカルト記者として様々な心霊スポットを訪れたことのある直人からすれば特に曰くもない森など何を怖がっているのかも分からない。
顔から出せる汁を全て出しながら自分に縋ってくる武道に直人は頭痛がした。
 
人の気も知らないで!
 
ベタベタと触れてくるのは以前からで、武道はこういった同性へのスキンシップに余念が無かった。初心だった頃の直人はそれにドギマギしたものだったが、他の不良仲間にも武道は同じ距離感で接しているため何度も煮え湯を飲み込んだことを覚えている。
 
「だったら他の人と行けばいいでしょう。それこそ東卍のお仲間辺りと」
「他に都合がつく奴いなくて……」
 
実家のアパートを出て一人暮らしをしている直人の家に武道はよく遊びに来た。日向と就業時間が合わない時、武道は度々直人を訪れる。
同じアパートに住む龍宮寺夫妻ではなく直人のところに来る辺り気を遣っているつもりなのだろう。独り身で、武道たちと比べれば友人らしい友人もいない直人は彼からするとどうにも心配らしい。
大きなお世話だと唇を尖らせるが、内心、喜んでいる自覚があり直人は歯噛みする。
 
今の直人が花垣武道に淡い気持ちを抱えたのはいつ頃だったか。ずっと長い間、この男に翻弄されてきたと直人は思う。
 
「僕が貴方とそこへ行って何になるんですか。メリットが無いんですよメリットが」
「えー、あー……。オレと一緒にいれる、とか?」
「はぁ?」
「ひぇ、めっちゃ冷たい目で見るじゃん」
 
凄んで威嚇すれば、直人の威嚇など何でも無いであろうに、武道は律儀に怖がるそぶりを見せる。全国統一した暴走族の幹部だった男がそんなことをしても信憑性が無い。
嫁の弟を彼なりに可愛がっているのだと直人にも分かる。今の人生において、直人は武道には距離を置かれていた。全国統一を果たすまで続いていたそれは一般人の直人が不良の喧嘩に巻き込まれないためだった。思い出した今となってはその配慮が、自分と武道の間の溝であり差である様に思えて悔しく思う。
 
「ソレが嫌ならアホな事言わないでください」
「ひでぇ。オレはナオトといれたら嬉しいのに……」
「貴方はまたそんなことを……」
 
自分を抱く世界線もある様な男に何故そんな思わせぶりな事をいうのか。
直人には武道が理解できない。
 
「とにかく! 僕はいけません!! 一人で頑張ってください! 仕事でしょう!!」
 
こうして直人から突き放さなければ、どうにかなってしまいそうだった。
 
 
 
・・・
 
Side 武道
 
 
「ヒデェよなぁ、あんな目一杯拒絶しなくてもいいじゃんか。なー?」
 
直人に拒否されて武道は一人でロケ地である山へと赴いた。
恐怖を紛らわせるために可愛らしいひよこのぬいぐるみのストラップを手に握り、話しかける。嫁である日向に直人に振られたと泣きついた結果、これを私だと思って頑張って、と買ってきてくれたのだ。
森の中で一人ぬいぐるみに語り掛ける成人男性という、むしろ出会った人間に怪異と思われそうな様相で武道はロケ地周辺を散策する。
 
私有地ではあるがしっかりと機材などを運び込める道があり、セットや道具なども置ける開けた場所もある。撮影には問題なさそうで武道は安心した。
昼間のうちはそう怖い思いもしないだろうと思いつつ、万が一周辺に危険な場所などが無いかの確認のためにフラフラと見て回っているが、特に問題はなさそうだった。
このまま何事も無く確認が終わってできるだけ明るいうちに帰りたいと武道はぬぐるみを握りしめる。
 
「んー、この辺りまで来ると結構藪だなぁ。虫刺されとか気を付けねぇと……」
 
整備はされているのだろうが、そこまで頻繁に業者を入れているワケでもないのだろう。
木々の間に雑草が生い茂り、武道の膝くらいまでは伸びている。武道にはどんな種類の草なのかも分からないが足元が見えないのは少し怖いと思う。
雨が降ってぬかるみに足を取られたりしたら大変だ。傾斜があるところも多いため滑り落ちたりなんかしたら軽傷では済まないかもしれない。
武道自身は人よりも頑丈な自覚があるが役者や他のスタッフはそうではないと分かっていた。
 
「こんなもんで……お?」
 
そろそろ車に戻ろうかと足を止めた時、ふと視界の隅に奇妙なものが映った。
 
「なん……?」
 
そこにあったのは木製の簡素な鳥居だった。
他の場所と同じように雑草が生い茂り、蔦の這うソレは手入れがされているとは思えない。もしやコレはまずいのではないか、と武道はそちらへと向かう。
 
武道は信心深い方ではないが、この業界にいれば祟りなどという言葉もそれなりに聞くことがあった。撮影に使いたい場所が実は禁足地だったなど笑えない。
地主からは許可を得ているが、地主が土地のすべてを把握していない場合もある。過去に“タイムリープ”などという非科学的な現象も体験しているため、万が一が実際に起きる可能性を武道は捨てきれなかった。
 
「……」
 
ゆっくりと、武道はそちらへと歩いていく。
オバケは苦手なのになぜ自分はこういったハズレくじばかり引くのか、と自分の境遇を嘆きつつ周囲を警戒した。大丈夫、何がいるワケではない。
 
足元の雑草をパキリと踏みしめて、武道は鳥居へとたどり着いた。
 
「……」
 
元は赤く塗られていたであろうソレは経年劣化によるものか色褪せ、ささくれから中の木が見えていた。
どのくらい昔かは分からないが、恐らくこの鳥居を奉納した誰かの名前と日付が彫られているのであろう箇所は読み取れず、どういった場所なのかも分からない。この先に道があるのかお堂があるのか……。
 
「ヒッ……」
 
鳥居から目を離して、前を視て、武道は小さく悲鳴を上げた。
 
雑木林の奥、雑草に囲まれる様に祠があった。
そのすぐ脇に、男が立っていた。
 
男はジッとこちらを見ている。
表情は読めず、嗤っている様にも怒っている様にも見えた。
 
そんな男は先ほどまでいなかったはずだ。
こんな山の中で、人と出くわすなどあり得ない。
 
バクバクと鳴る心臓が五月蠅い。浅く、荒くなる呼吸を何とかコントロールしようと武道は心を落ち着けようとただ何もせずに前を視た。
 
そこにいるのは、ヒトか、それとも別のナニカなのか。
 
喉を通る空気が五月蠅い。
 
眼が、合っているのか。視ているのか、見られているのか。
 
「は……?」
 
不意に、男がコチラを指差す。
武道が何かを口に出そうとした瞬間、視界が真っ黒に染まった。
 
 
・・・
 
 
ゆっくりと瞼が上がる。
体中が痛かった。
 
「あれ……?」
 
自分がいた場所はどこだったか。
雑草と、寂れた鳥居がある。そうだ、撮影に使う山の視察中だったのだ、と武道は思い出す。
 
男がいたハズだ。
 
「うぅん……?」
 
頭がズキズキと痛むが外傷のソレでは無かった。
 
「未来視……? 久しぶりだな」
 
日向を助けるためから佐野を助けるための戦いに変わった頃から発現した未来視の能力はここ数年ほど使ってはいなかった。自分で見ようと思って見れたこともあまりない、突発的な能力だ。
ソレを知っているのも佐野くらいであり、全てが終わってからは必要があるとも思っていない能力だった。
 
経験上、特に発動にあたって何かしらの代償があるという事もなく、今までそのせいで気を失うという事も無かったハズだった。
 
ソレが急に今になって発動し、自分にナニカを見せた。
 
ゆっくりと起き上がって辺りを見回す。
まだ日はあるが木陰で暗くは感じる。鳥居は相変わらず古びていて、雑木林の奥に雑草に囲まれる様に祠があった。
 
当然、男はいない。
 
どれくらい先の事なのかも分からない。
そこに男がいてなんの不都合があるのか。
 
「……」
 
しかし、男は確かにこちらを見ていたハズだった。未来視の多くは武道自身にそう遠くない未来に降りかかる事だった。それならば、そう遠くない未来に自分はあの男とであることになるのかもしれない。
 
少し気味の悪い男だった。
男に指を差され、暗転する視界。
 
自分の身に起きるのであろうこの出来事を、武道はできれば回避したい。
あの祠に何があるのか、今からソレを調べるべきなのか、迂闊に鳥居などくぐるべきではないのか。本当に禁足地だった場合、撮影の許可が取り下げられる可能性もある。
 
「……帰るか」
 
奇妙な恐ろしさと、現実的な問題を前に武道は一時撤退を選んだ。
もしもこのまま此処にいてあの男に出くわしても事だった。

帰り道を急ぎつつ、武道は段取りを考える。
まずはあの祠の事を地主に聞かなければならない。万が一にもスタッフが入ってしまってはいけない場所なのか。
そして、近い未来に起こるであろう自身の身に起こるナニカ。荒事などもう5年以上していない。反社会的なことにも久しく関わってはいなかった。
 
「はぁー、ヤダなぁ。怖ぇなぁ……」
 
 

 

・・・

 


Side直人

「あのさー、もしな、もしで良いんだけど」
「……何ですか」
「未来予知ってお前の専門外?」
「未来予知?」

相変わらず武道は直人の家に入り浸っていた。直人には分からない事だったが映画の撮影にはまだ色々とやるべきことがあるらしいのに、その合間を縫ってわざわざ義弟の家に遊びに来るのは何故なのか。
しかも、最近の武道は妙に考え込んだり暗く真剣な表情をしてみせたり、直人に何かを相談するワケではないのに分かりやすく何かを抱え込んだ様子を見せていた。
 
その様子を、姉や友人夫婦に見せないために直人の家に入り浸っているのではないかと思う程だった。
 
その武道がやっと口を開いた結果がその言葉だった。
 
「専門ではないですが、オカルト現象についてなら多少話すことはできますよ?」
「うーん、何か状況がゴチャゴチャしていてどっから話せばいいのか分かんねぇんだけどよぉ……」
「ハナから貴方に筋道の通った分かりやすい話なんて期待してませんよ」
「お前なぁ……」
 
少し茶化して、義兄の暗い表情を少しでもマシな物へと変える。複雑な感情を抱えつつも肌を合わせた記憶のある相手がその表情を曇らせているのは直人もあまりいい気持ちではない。
 
「で、何があったんです?」
「実は……」
 
直人が言葉を促せば武道はおずおずと話を始めた。
先日話をしたロケ地の視察へ行った事。山の中にあった鳥居と祠。そこで視た奇妙な男の白昼夢。過去にも同じ形で妙な夢を見てソレが未来に起こる事があったため恐らく今回のソレも同じものであろうこと。

「もしオレがこのままあの未来視通りにあの場所で殺されて撮影中止になったら此処までやってきた撮影メンバーに申し訳が無さ過ぎる……」
「その前に自分が殺される事を嘆いてくださいよ」

この男は妙な所で自尊心が無い、と直人は呆れる。

「貴方、タイムリープができるんですからそりゃ未来視だって過去視だってできるんじゃないですか?」
「は?」
「どうやって介入しているのかは分かりませんが、どのみち4次元に介入してるんですよ貴方は」
「いや、あの……?」
「あの国民的青だぬきロボットのアニメ、貴方だって見た事あるでしょう? あれですよ」
「ナオトさん……?」
「タイムマシンに乗ってきた彼が持っている4次元ポケット、タイム風呂敷その他諸々。未来の世界では我々の生きる3次元にプラスしてもう一つ高次元にアクセスする術を持っているという設定じゃないですか。つまり、タイムリープ能力を持つ貴方だって本来なら同じことができるハズなんですよ。もちろんタイムリープには僕というトリガーが必要という条件がありましたが、何かしらの発動条件で恐らくは未来視もできるでしょうね」
「……」
「それにしても未来視ですか。また面白いものを引きましたね。自分が殺される未来を観測できたのは幸運ですよ。その未来がいつ来るのか分からないにしても対策が立てやすいのは良いことです。場所が分かっているのも良いことです。少なくともその場所へ行かなければそうはならないということですから」

連鎖的に浮かんでくる知識を直人はツラツラと声に出す。
武道相手にこんなに長く話をしたのは“前”ぶりではないだろうかと、持てる知識の検索をしている脳の隅で考える。オカルトの話をしても武道は分からないだろうが映像作品の内容だったら武道も理解しやすいだろうと嚙み砕いて説明する。
途中で口を挟もうとする武道をスルーして、まずは自分が言いたい説明を先にした。何だかんだと話を聞いてくれるのは義兄の良い所だった。

「さて、ここまでで何か分からない所はありましたか?」
「え、いや、あの……」
 
考えるために下に向けていた目線を上げて武道をみると、義兄は顔を赤くしたり蒼くしたりしながらしどろもどろに口を開閉していた。
 
「お前、前の記憶あるの……?」
 
恐る恐るといった風に、武道は直人を見る。
赤く色づいた目元にうるうると涙を滲ませていた。その表情に直人は一瞬だけ虚を突かれた。
最近頭から離れない“前”の記憶のソレにその表情は酷似していた。

「……あ、はい」
「じゃあ、その、オレとの事も……?」
「貴方、本当にデリカシーが無いですね」
「うぅ……」

あまり良くない妄想が頭の端にチラついたことを隠す様に、直人は敢えて武道の言動に呆れたという風を装う。自分はそんな事を気にしてはいないぞ、と。
思い出した所で何か起こる事も無ければ起こす蛮勇も、直人には無かった。

「お互い忘れたフリで済ますのが一番なのは分かってましたが、まぁ今回のは仕方無いでしょう。僕が覚えているという大前提が無ければ話が進まないんですから。……あぁ。今さらこのネタで貴方を揺するつもりとかはないですよ」

嘘だった。
自分のオカルトオタク根性でつい興奮してしまって知らないフリをし忘れただけだった。思い出したなどと本来なら伝えるつもりは無かったし、伝えるべきではないと思っていた。しかし、やらかしてしまったものはどうしようも無いので平生を装う。

「ともかく、貴方はこれからいつ起こるかも分からない自身の危機を回避しなければならない。僕としても姉を結婚早々未亡人にしたくないんですよ」
「お、ぅ……」

敢えて“姉”と言ったのは自分に言い聞かせるためであり、武道を安心させるためでもあった。武道と日向はすでに実名共に結婚しており、式も済ませた夫婦であるとお互い変な空気になる前に再確認しなければならない。
武道に妙な気を遣わせたり、気まずくはなりたくなかった。

「で、話を戻しますが、分からない所はありませんでしたか?」
「いや、まぁとりあえずは大丈夫」
「そうですか、それは良かったです」

視線を逸らしながら答える武道が本当に理解しているかは分からないが、恐らくは大丈夫だろうと直人は話を進める。

「こちらからも質問ですが、結局、その祠は何を祀っていたんです? まさか本当に禁足地なんかじゃないでしょうね?」
「あぁ、特にそういうんじゃなかったよ。土地神? 山の神様? を祀っててたまに業者が掃除するくらいだって」
「あぁ、そうですか。タイムリープや未来視に加えて新たな要素が加わらなくて良かったです」
「あー」

直人の言葉に武道は納得したような少し困った様な表情を見せる。動揺をうまく隠し通せたのだろうと直人は少し安心した。

「まったく、“前”とは違う趣味に生きる生活も楽しかったのに……」

趣味を仕事にして楽しく生きているのだと。“前”に肉体関係があった事など微塵も気にしていないのだと武道に思ってもらわなければならない。

そうでなければ最愛の姉を裏切る事になり、姉の恩人に姉を裏切らせることになるのだ。

タイムリープの中で“無かったこと”にした。事実、直人と武道の記憶の中という曖昧な場所にしかソレは存在しないものだ。
実際、今日の今日まで無かったことにできていた事だった。

「まずはその男が何なのかを知らなければいけませんね。いずれ貴方はその人に会うことになるハズなのでそしたらまた連絡をください。しばらくは予定をあけられますので」
「ナオト~~~、ありがとな~~~!!」

軽率に自分に抱き着く男に頭が痛くなる。
きっと武道にとってアレは“無かったこと”に出来ていたのだろう。そして、直人がもう気にしていないのだと分かればこれからも“無かったこと”になるのだ、と。

グチャグチャになりそうな心を表に出さずにいれたのは刑事だった頃の経験のお陰なのだろう。
武道に守られてぬくぬくと育った“今”の自分だったらきっとボロを出していたに違いないと直人は安心する、

自分は、姉を、武道を裏切らずに済むのだ、と。


・・・

Side 武道

武道が未来視の事を直人に相談してからしばらくが経った。
元からタイムリープや未来視の事を知っている佐野や、近所に住む龍宮寺ではなく、直人を頼ってしまったのは甘えと寂しさからなのだろうと自覚していた。
せっかく直人が自由に生きられる様になったのに、“あの頃”の様に気安く話をしたくて、興味があるだろう事で釣ったのだと分かっている。
自分が日向を心の底から愛しているのは本当で、“前”の直人に公園で語った事は嘘ではない。好きで好きでどうしようもなくて、死にそうな目に遭っても、実際殺されても、彼女が生きる未来を作ろうと懸命に走った。

そんな日々の中で、日向の弟であり、リベンジのパートナーでもあった直人と武道が肉体関係を結んでしまった。それは疲れてイライラして判断能力が低下していたという理由からでもあり、直人に流されたという理由でもあった。

きっかけは反社会的組織・東京卍會の勉強中の頃、疲れて二人で雑魚寝していた時だった。特に抱き枕が必要というタイプでもないのに、何となく、据わりが悪くて近くにあった直人の頭部を武道が抱きしめた。それだけだった。
とくに何かしらの意図があるワケではなく、そうすることで疲弊した心が落ち着く様な気がしたのだ。後から聞いた話では人間はハグをすることでストレスを軽減できるという事で、要は武道は寝ぼけて直人に抱き着いて甘えたということだった。いい歳をした大人の男が年下にしていい事ではない。
そこで直人に「気持ち悪いからやめろ」と拒絶されていたらあんなことにはならなかったのだろう。

しかし、実際はそんなことにはならず、直人は武道の胸に顔を埋めるように抱きしめ返した。直人は直人で限界だったのだろう。
自身の夢を諦め、12年前にたった一度話した自称未来人との約束で、姉を守るのだと気を張り続けた人生だった。冗談だったのかもしれない。そんな未来は来ないのかもしれない。非現実的だ。そんな弱音が何度も頭を掠めたであろう12年だ。
挙句、姉は守れず、新たな戦いが始まった。

疲れてしまっても仕方のない事だった。

抱きしめ合って眠る事に疑問を感じなくなり、スキンシップが過多であることに互いに気が付いていたが、どちらも何かを言う気にはなれなかった。

まだ夏の頃で、薄いシャツ越しの肌と体温に心地良さを感じていた。
どちらともなく唇を合わせ、互いに貪りあった。
 
いけない事だと分かっていた。
 
しかし、ソレをやめてしまえば何もかもが壊れてしまうとも分かっていた。
肌をあわせる心地良さと、薄い粘膜が絡まり合って溶け合う様な背徳感。チカチカと頭の中で何かが弾けて、交じり合う身体の感覚だけを感じる。
 
恐怖も、使命感も、その時だけは忘れられたのだ。
 
「うーん、今思うとワルいお兄さんだったなオレ……」
 
社会的立場が上の相手で一歳差とは言え、年下を誘惑したことになるのだろうかと武道は思い返す。
直人がいつから武道を抱けるようになったのかは分からない。
 
しかし、きっかけはきっとアレだったのだろう。
 
佐野万次郎と全く別の未来を作るにあたって、二人でいくつかの条件を決めた。ソレは前の世界で失敗したことであり、完全な世界を作るために必要な事の洗い出しだった。真一郎が殺されないために、見知らぬ女の子が酷い目に遭わないために、場地が死なないために、イザナが孤独にならないために。何が必要なのか。
完全な未来のために、武道はあえて直人とは関わらないことにした。自分が直人に背負わせてしまった重圧を何かの拍子にまた背負わせてしまうかもしれない。なりたくもない職に就かせてしまうかもしれない。
 
自分に縛り付けた男を、解放しなければならない。
 
タイムリープした直後、武道はそんなことを考えていた。
しかし、トリガーだったせいなのか、実際の直人は“前”の記憶を持っていた。
 
久しぶりに血の気が引いた。“今”の直人がどんなものなのかは分からないが、既に自分は日向と結婚していて、直人とは良い義兄弟だった。それが瓦解してしまうかもしれない。
あの頃の関係に戻る事も、どこかへ進むことも、許されないことだと分かっていた。
 
蓋を開けてみれば直人は“前”の関係を何とも思っていない様子で、武道は酷く安心した。そして、一瞬だけ感じた淋しさを箱の中へと押し込めて再び蓋をした。
コレで正解なのだと。求めた世界が此処にあるのだと。アレが間違いであり、コレが正しいのだと。
何もない。ただの義兄弟であることが自分たちの正しい姿なのだと分かっていた。
 
少しだけモヤモヤとしつつも、武道はしっかりと助監督の仕事をこなしていく。一度は忘れた将来の夢をこうして思い出して、目指している。そこで手を抜いたりはしなかった。
 
撮影の準備を進めていた時だった。
武道はふと違和感を覚えて手を止めた。
 
「?」
 
その違和感が何なのかも分からないままに周囲を見渡し、気付く。
 
「あ……」
 
あの男だった。
あの祠のすぐ近くで、武道を見つめていた奇妙な男。
あの時の様な不気味な様子ではなく、問題なく普通に働いているせいで気付けなかった。しかし、気付いてしまえば間違いなくその男は未来視で視た男だった。
 
「花垣さん、どうかしたんです?」
「あ、いや……」
 
武道の様子に気付いたスタッフの一人が声を掛けた。見すぎたな、と反省しつつ丁度良いとスタッフに男の事を聞く。
 
「あ、彼ですか? 彼は臨時で入ってもらった喪部川さんですよー。なんでも花垣さんのファンだとか」
「え、オレの……?」
 
スタッフの言葉に武道は首を傾げた。確かにコツコツ頑張って助監督まで上り詰めたが代表作と言えるような功績は未だ武道には無い。時々ネットでエゴサしてみるが、物凄く話題になる様な作品は無かったハズだ。
そんな自分にファン?
 
武道の様子にスタッフは苦笑いをする。
 
「もし気になるならお話でもしてみます?」
「え、あの、いや……っ」
「おーい、喪部川―! 花垣さんがお呼びだぞー!」
「ちょッ……」
 
武道の焦りなど気にもせずにスタッフが男を呼ぶ。
よく気が利く良い人だったがこういう強引な所があった、と武道は頭が痛くなる。喪部川が何者なのかも、どうして将来的に自分に危害を加えるのかもまだ分からない中、直人に何も報告せずに接触するのはまずいと思う。
 
「ウス!」
 
スタッフに呼ばれた喪部川という男はすぐに小走りで寄ってきた。どうやら体育会系の様でピッと伸ばした背にシャッキリした態度の礼儀正しい男だった。
 
「何か追加のお仕事ですか⁉」
「んにゃ、花垣さんがお前の事気になるって」
「え⁉」
「ちょ、ちょっと⁉」
 
未来視で視たのが嘘だったかの様な好青年を前にして何を言って良いのか分からない。
咄嗟に出てきたのは出来の悪いナンパの様なセリフだった。
 
「あの、どっかで会ったことある?」
 
あるワケが無い、と沈痛な気持ちでツッコミ待ちをするしかない。
恥ずかしい様な気持ちを抑えて武道が喪部川を見ると、喪部川は驚いた様に目を見開いた。そしてキラキラとした目で武道を見つめ、手を握った。
 
「俺の事覚えていてくれたんですか!?」
「え? いや、何かどっかで視たかな? みたいな……?」
「それだけでも嬉しいッス!!!」
 
戸惑う武道を気にせずに喪部川は興奮したのか少し裏返り気味の大きな声を上げた。
 
「ちょ、君、声大きいよ」
「あ、スンマセン」
 
男はパッと口元を押さえ照れたようにして見せる。可愛らしい仕草であるが相手が男であるため武道に特に思う所は無かった。日向が同じ仕草したら可愛いだろうなぁ、くらいである。
 
「で、どこで会ったんだっけ?」
「あー……それは…」
 
喪部川は他のスタッフを気にしたように視線を彷徨わせてからおずおずと小声で答えた。
 
「高校生くらいの頃に、佐野さんと一緒にいる所を……」
「あ、なるほど」
 
その言葉を聞いて武道は納得する。助監督としての武道ではなく、総長代理だった頃の武道のファンであったらしい、と。
そして武道の立場などを考えてその経歴は誤魔化してくれている。良い人だった。
 
「あの、この業界入ったのはたまたまで……ッ」
「あぁ、大丈夫大丈夫。別にストーカーとか考えてないから」
「良かった。あの頃、貴方に憧れてた奴なんていっぱいいたから……」
「あー、マイキーくん凄かったもんね。今でも凄いけど」
 
全国制覇した後、かの佐野真一郎と同じように花垣武道と佐野万次郎はチームを解散した。あの頃の自分たちがちゃんと“不良の時代”を作れたのかは今となっては分からない。しかし、確かに世界を変えたのだという自負はあった。
佐野が今、イケメンレーサーとして脚光を浴びている事が何よりもの証拠だと武道は思っている。
 
「俺はあの頃から代理の方が好きでしたけど……」
「お、口が上手いじゃん」
 
懐かしい話になり、武道は完全に油断していた。目の前の男が自分に危害を加えるなんてやっぱり自分の勘違いなのではないかとすら考えていた。
実際、武道を慕う者は多く、いろんな業界にたくさんの知り合いがいる。たまたま昔の知り合いが同じ業界に入ってくることだってあるのだろうと思えた。特に武道などはこの業界に飛び込んで、監督やその周辺と知り合いになってチームに誘われる様になるのが第一ステップだった。ソレを考えれば昔知り合いが助監督などしていたら取り入りたいに決まっている、と。
 
「あの、佐野さん達とは今も……?」
「うん、マイキーくん達とはよく連絡とってるよ? こないだの結婚式も隊長格みんな来てくれたし」
「え……」
「あ、だからと言って千咒達の連絡先とかは教えれないからな。最近あの二人も過激なファンとか増えて大変だって言ってたし」
「いえ、あの、ソレは別に良いんですが、結婚、ですか?」
「あぁ、あんまり人呼ぶととんでもない数になるから内内ですましたけど、最近結婚したんだよオレ」
 
喪部川の動揺に気付かず、武道は話を続ける。
もしこのまま仲良くなれればあの未来は回避できるのではないか、などと考えていた。
 
「へ、ぇ……そう、なんスね」
「コレなんて見てよ。オレの嫁さんが一緒にいない時も自分だって思って、ってくれたんだぜ」
 
携帯端末に付けたひよこのストラップを見せて惚気てみせる。今まで武道が日向の事を話して喜ばない相手はいなかったためだ。
ニコニコと笑う武道は男の顔色が悪くなっていくことに気が付かない。
この場に直人がいたら武道は張り倒されていただろう。
 
「お幸せに……」
「おぅ! ヒナがいればオレは幸せだから!」
「そ、うですか……」
 
その辺りで二人の様子を眺めていたスタッフが止めに入る。喪部川が哀れだったのだろう。
 
「花垣さん、そろそろ行かないと休憩終わっちゃいますよ」
「あ、ホントだ。また今度話そうな!」
「はい……」
 
ヘラリと笑って武道はその場を去る。
スタッフは顔色の悪い喪部川の背中をポンと叩いた。
 
「まぁ、どんまい」
 
 
 ・・・
 
 
喪部川と出合い、いろいろと喋ったが悪い奴ではなさそうだと武道が伝えられ、直人は電話口で烈火の如く怒った。何故貴方はそんなにも無防備なのか、と。
伴侶の存在など伝えて、日向に危害が加えられたらどうするつもりだったのか。そう言われるまで武道は自分のしたことの重大さを分かっていなかった。もともと楽観的な性格をしているのだから仕方がない、と直人は自分に言い聞かせる。しかし、このままでは碌でもない事になるという予感があった。
 
「撮影当日、見学させていただく事はできますか?」
「え、どうだろ。多分大丈夫だけど、一応監督に聞いてみる」
「はい、お願いします。最悪、断られたらオカルト記者としてホラー映画の取材を申し込みますからね」
「分ぁったって!」
 
電話を切って、直人は深く息を吐いた。
 
武道と日向の結婚式の日、直人が“前”の記憶を取り戻してからそろそろ一年が経とうとしていた。“前”はジューンブライドだと喜んでいた姉が、“今”の世界ではソレを避ける様に式の日取りをズラした。
 
7月3日、直人と武道が出会う前日だ。
その翌日、7月4日から直人と武道の戦いが始まる。
 
約半年ちょっと続いたその戦いは稀咲の死という形で、日向の生存を確保し、終わった。
 
終わったハズだった。その三か月後に、武道が佐野万次郎と心中するまでは。
直人としては佐野万次郎がどうなろうとどうでも良く、ナンなら碌でもない反社会的勢力になる前に早めに殺してしまった方が良いとすら思っていた。実際、武道を殺そうとしている様に見えた佐野をフィリピンで撃ち殺した。
海外で、日本一の反社会的勢力のボスを撃ち殺したのだ。事後処理がとんでもなく大変だったことをよく覚えている。
 
その時、武道と佐野の間に特別な絆の様なものがある事を悟った。
 
羨ましいとは思わなかった。
しかし、武道と佐野が心中した時はもう一度殺してやりたいと切に願った。
 
季節は夏だった。
 
直人にとって、最悪な事はいつも夏に起こる。
最初に姉を喪ったのも7月1日だった。その一年後の6月に武道を喪うなど誰が予想できたか。
 
「……」
 
ふと、直人は思い出す。
“今”の自分が武道を好いていると自覚したのは夏だった。スキンシップが多い武道に少しドキドキしたりする様になったきっかけの様な日だ。
 
自宅のマンションの屋上から夏になると花火が綺麗に見える。ソレを毎年何となく見に行く。ほとんどは両親や姉と一緒で、思春期に入ってからは家族とそういった事をするのが恥ずかしくなった。
だから、屋上には一人で行った。
 
「(そして、あの花火の日、僕の隣に貴方がいないことを疑問に思った。貴方がいる理由もないのに)」
 
綺麗なものを一緒に見たいだなんて随分と純な恋の自覚だと当時の直人は思った。
しかし実際のあの日は、“前”の直人が武道に日向と間違われて手を握られた日だった。そのため、“今”の状況との齟齬に違和感を覚えたのだろう。
アレが無ければ、直人はあんな昔から“今”の自分が武道を意識することも無かったハズだと思う。“前”の前はもう思い出せない。
 
“前”の自分が初めて武道に会った時、感じたのはタイムリープというオカルトの様な現象へのドキドキと、そんな未来人に自分の姉の未来を託されるというまるでSF映画の主人公にでもなったかの様な高揚感だけだった。
そんな“前”の自分が武道を意識したのもあの花火の日だ。まだ少し未来人オカルトへのドキドキが残っている時期に、手を握られた。姉と間違われた事は気付いていたが、たった一歳しか変わらないのに自分よりもいくらか大きな手に妙にドキドキとしてしまった事を“前”の自分は忘れられなかったみたいだった。
その後も何度か握手をするうちにソレが何かの儀式なのだと気付く。最後の握手で姉が救われたのだと言われて、少しだけ寂しい気持ちになった。もう武道が自分と握手をしに来ることはないのだと分かったからだ。
再び会えるのは12年後。何故か義兄の友人の結婚式に呼ばれ、そこで全ての記憶が上書きされた。
 
教会で感極まった武道に抱き着かれて、直人が抱きしめ返さなかったのは格好つけたかったからと、そんなことをしてしまえば自分の想いを抑えきれなくなると思ったからだった。
 
記憶が上書きされて、自分と武道に身体の関係があった事を思い出しても、三か月後には姉と武道が結婚することに変わりはない。
 
そこまでは、悲しい事も嬉しい事も両方あったと思えた。
佐野と武道が心中して、直人の夏の記憶は全て悲しいものに書き換えられた。いろいろな意味で叶わない恋の記憶だ。好きになった日も、喪った日も、再び失う日も、夏の日の事だ。
 
「早く夏が終わればいいのに」
 
もしも再び武道を喪ってしまった時、自分には何をすることもできないのだから。
 
 
 
・・・
 
Side 武道
 
 
「おま、その恰好……!」
 
撮影当日、待ち合わせ場所に現れた直人の姿を見て武道はあんぐりと口を開けて驚いた。
 
「貴方を助けるならこの格好でしょう?」
 
パーマをかけていた髪型をやめて、オシャレで伸ばしていたらしい無精髭を剃っていた。
真面目な格好はあまり家に帰ってこない癖にいつも偉そうにしていた父を彷彿させて嫌だと言っていたが、やってみれば逆に若返った様な印象さえある。二十代も後半になり、仕事でもそれなりの地位を得ている今の直人ならナメられないためのオシャレも時と場合によるのだろう。
 
監督には直人は雑誌の記者で、もしかしたら記事にするかもしれないと伝えていた。
少しカッチリしたスーツに身を包んだその姿は“前”の直人と寸分違わないもので、武道は少しだけドキドキした。しかし、ソレを表に出すのは憚られて茶化す様に笑いかける。
 
「形から入るのねぇちゃんと一緒な」
「本当にデリカシーが無い人ですね」
 
他に何を言えというのか、と不満げに顔をしかめる直人を見ながら武道は内心文句を言う。お互い“前”の様な身体の関係に戻るわけにはいかない。それなのに、“前”を思い出させるような恰好をわざわざするのは少し意地が悪いのではないか、と。
武道の立場を考えれば“知り合いの記者”である直人はちゃんとした格好をしている方が良いのだけれども、“前”と寸分違わないのは絶対に自分に対するからかいの類だと武道は思う。
 
「さて、行きましょうか」
「……おう」
 
武道の運転で撮影現場へと向かう。
“前”の武道は車など上等なものは持っておらず、直人の運転で助手席に乗る事ばかりだった。“今”は必要に駆られて免許も取り、仕事用に自分で所有もしている。機動性で考えればバイクは楽であるが、仕事柄大荷物になることも多い今となっては使用頻度は車の方が圧倒的に多い。
 
「……」
 
自分の隣で大人しく座っている直人が何を考えているのか、武道には分からない。
自分ばかりが意識している様で悔しくても、お互いが何を思おうとも日向を裏切れないのは変わりはしない。
 
始まってすらいないのだから終わる事も無い。
“何か”を始める事は許されない。
 
バカバカしい、とため息を飲み込んだ。
 
現場に着いて、仕事を始める。
監督は直人を好意的に受け入れ、出来れば良い風に宣伝の記事を書いてほしいと言っていた。たしかに、ホラー映画とオカルト雑誌は親和性が高いのだろうし、そこそこ記事が売れている直人が書けば固定のファンが釣れる可能性もある。
直人は直人でストイックな所があると武道は理解している。どういう記事を書くにしても忖度はしないのだろうなと思うと少しおかしい気持ちになった。
 
その日の撮影は終えて、このロケ地を使うのは明日まで。
つまり、あの未来視で見た事が起こるなら今日か明日という事だった。
 
いったいどうしてあんな状況になるのか。
 
現在地から少し離れた場所にある山神の社。とくに今から行く予定も理由もない。
 
帰り支度をしながら、もしや未来は変わったのではないかと考えていると、スタッフがタタッと走り寄ってきた。以前喪部川と話した時と同じ男だ。
 
「すみません! 今ちょっと良いですか!?」
「え、うん、良いけど……」
 
少し警戒しつつも応えればスタッフは困った様子で武道に話し始めた。
曰く、例の祠に行った喪部川が見つからないという事だった。

撤収作業中に例の祠の事を何人かのスタッフで話し、ホラー映画のスタッフなどオカルト好きが多いせいか、せっかくだから見に行こうかという話になった。実際、作業をサボって何人かが遊びに行って、いつの間にか喪部川がいなくなっていた、という事だった。
 
「……なるほど」
 
作業をサボって、というくだりに助監督としては叱らなくてはいけないと思いつつも、監督ではなく助監督の武道にその話をした時点で、監督には言いにくいからと分かっていた。総長代理時代にもこういう事はたくさんあった。佐野や龍宮寺に言えない事も武道になら言えると言うのは舐められているのか親しみを持たれているのか、と悩みどころであるが悪い事ばかりでもない。
喪部川がいなくなったことを誰にも言わないまま、翌日に無残な姿で発見されたなんて事になれば撮影は頓挫するだろう。
 
あの未来視で視た喪部川はどうにも不気味に見えたがシチュエーションが悪かったのだろう。実際は事故か何かに遭って、迎えに行った所で自分の身に他の何かが起きた、と言っ所か。
 
「分かった。俺も探してみるよ」
 
でも、サボってた挙句に問題起こした事は後で怒るからね、と小言を言えばスタッフは安心したように笑った。
 
そうして現場から離れ、武道は山の中へと歩みを進める。移動の間に直人に連絡を入れる事も忘れない。
現場へ行かない事であの未来を回避することは簡単だったが、その結果、喪部川に何かがあっては意味が無い。
 
“前”の世界で、千咒を守ろうとした自分を守ろうとして龍宮寺を喪った事を思い出す。
もう二度とあんな思いをしてなるものか、と武道は焦燥に駆られるままに足場の悪い道を歩いた。
 
自分に出来ることは何でもする。
それしか武道に出来ることはないのだと、半ば脅迫概念の様に武道は考えていた。
 
東卍の仲間とはまた違う、その場だけの仕事仲間かもしれない。しかし、仲間は仲間でありその上、喪部川は代理だった頃から自分を慕っていたと言うのだ。
自分が守らなくて誰が守ると言うのだ。
 
前回来た時よりも踏み倒された雑草が多い獣道を進めば、目的の場所にたどり着く。
 
鳥居に、祠。そしてその傍に佇む男。
 
二度目であるがやはり不気味な光景だった。
男がこちらを指差す。
 
その瞬間に、武道は横へと跳んだ。
身体を捻りながら、何が自分を攻撃したのかを武道はしっかりと確かめる。
 
「スタッフさん……?」
 
振り向き様に見たのは先ほど自分に助けを求めた男だった。その男が、鉄パイプを振りかぶっていた。
空振るとは思っていなかったのか武道同様に驚いた顔をしていた男だったが、奇襲に失敗した事を悟るとすぐに第二撃を加えに来る。
 
「うおぉぁ!?」
 
荒事など数年ぶりで、流石にこの悪い足場で昔と同じ動きができるわけがない。寸での所で鉄パイプを避けるが、態勢を崩し盛大にこけた。スタッフもスタッフで荒事には慣れていないのか、振り回した鉄パイプに振り回されてこけた武道にのしかかる様に崩れる。
 
「ちょ、お……ッ」
 
ベシャリと二人して崩れたがそれでも良いのかスタッフは武道を押さえつけながら喪部川を怒鳴りつける。
 
「テメェ! 何、花垣の援護してやがる!」
「流石の代理も背後から手加減の分からない素人に殴られたら死んじゃいますって」
「チッ、馬鹿にしやがって……ッ」
 
喪部川はスタッフを恐れる様な様子は無いが、武道を助ける様子も無い。
喪部川の身に何かがあってはいけない、と急いでいたが結局喪部川も敵側だったかと武道は安心しつつも少し残念に思う。
 
「どういう事なのかな?」
 
このスタッフはこんなに口が悪かったのか、と考えつつ抵抗は諦めて説得へと切り替える。出来る限り冷静に、相手を刺激しないように言葉を掛けた。
 
「アンタがッ、アンタが悪いんだッ!!」
「うん、どうして?」
「アンタが、結婚なんかするから……ッ」
「え?」
 
武道に馬乗りになりつつも、スタッフは混乱したように叫ぶ。本当に暴力に慣れていない様で、最初に殴って気絶させたらどうするつもりだったのか。
 
「どういう事かな?」
 
自分の結婚がスタッフや喪部川にいったい何の関係があるのか武道には分からない。ちゃんと人を見ているつもりだったけれど浅かったなぁ、と反省した。
 
「代理、俺たちね、代理の事すっごく好きだったんだ」
「……」
「だから結婚なんてし欲しくなかったし。だったら、いっそどうにかしてやりたいって思ったんだ」
 
ゆっくりと喪部川が二人に近付く。
 
「あの頃から、代理って残酷だよな。いろんな奴に慕われてて、たくさんの人に囲まれてて、そういう意味でも代理の事好きだった奴いっぱいいて、なのに、誰のものにもならないの。佐野くんやドラケンくん、隊長たちに守られて、俺たちは声すら掛けられなかった」
「そんな……」
「俺たちから好かれる様に、隊長たちから好かれるの、分かるよ。それだけアンタが魅力的なのも。今だって他のスタッフこうして誑し込んで、監督に気に入られて」
 
傍まで来ると、しゃがみ込み、スタッフに押さえつけられ身動きの取れない武道の頬をゆっくりと撫でた。
 
「こんなにも周りから求められてんのに、当のアンタは知らん顔でオンナなんかと結婚してんだ。どうにかしてやりたいって、そりゃ思うわ」
「そっか」
 
随分と勝手な事を言う、と武道は喪部川を見る。
ちゃんと自分から武道を求めた人間は、実はそう多くは無い。
 
最初に好きだと、付き合ってほしいと言ったのは橘日向だ。そして、日向を助けて欲しいと言った直人に、イザナを助けて欲しいと言った鶴蝶。今日から友達ダチだと宣言した佐野。
八戒と後の佐野が言った助けては武道が言わせた様なものだからノーカウントとする。
 
そういう意味で好きだと言ったのは日向だけであり、他の人間が実は好きだっただの言っても武道からしたら知らない事だった。
 
「……」
 
一瞬だけ、直人と肌を合わせた事を思い出す。
あれだけは、どちらからという事は無く求めあった。
 
言葉を介さずとも分かり合えたなどとは言わない。いっそ分からないままの方がきっと好都合なズルい関係だった。
もしも、そういう意味で武道をなじる権利があるとすれば直人だけだろう、と。
 
喪部川もスタッフも、何故なぜこんな極端な行動にでしまうのか。
 
「君たちは、オレをどうしたいの?」
「犯す」
「……」
「犯して、オンナなんかと幸せになれない身体にしてやる」
「……」
 
やっぱり、極端だなぁと武道は思う。馬鹿な不良だった自分や喪部川だけならともかく、普通に大学まで出てしっかりと勉強してきたハズのスタッフまでこんなことをしてしまうなんて何だが不思議だった。
そんな所が残酷だと言われる所以なのは気付けない。
 
蒼い目がジッと二人を見た。
 
「君たちと一緒に映画が作れないの、残念だったよ」
 
少し困った様に武道は笑う。
この状況で何故そんな余裕なのか、と二人が思うと同時にガンッと鈍い音がした。
 
「ッ」
 
それと同時に喪部川が倒れる。
何が起きたのかとスタッフが武道から目を離した瞬間、その顎に頭突きを食らわせた。
 
「い゛っ」
 
痛みに呻いたその隙に、馬乗りになっていたスタッフをひっくり返してマウントを取り返す。喧嘩慣れしていない一般人に敗ける気はしなかった。
 
「ごめんナオト、ありがとう」
「どういたしまして。君はどうしてすぐ殺されそうになるんですか」
「いやぁ、今回のは殺意は無かったらしいけど」
「……」
 
スタッフを取り押さえて前を見れば直人が呆れた様に武道を見ていた。
喪部川を殴って気絶させた手腕は見事で、見た目まで警察官だった頃の直人がそこにいる。それを嬉しいと思う心に蓋をして、武道は直人に尋ねた。
 
「ナオトも、オレが残酷だって思う?」
「貴方がニブいのなんていつもの事でしょう。好意を伝えて玉砕すればこんなことにならなかったのに、馬鹿な人達です」
「否定はしないんだなぁ……」
 
制圧された喪部川を見て、スタッフも自分たちの敗けをを理解したのか大人しくなった。
 
「ちなみに、今の一応録音して写真も撮ってありますけど訴えます?」
「うーん、監督と相談かなぁ。やっぱ騒ぎにはしたくないし」
「……そういう所も、残酷だって言われる所以ですよ」
「そうなの? わかんないや」
 
せめて恨んでもらえたら、傷になれたら、と考えたのであろう男二人を直人は憐憫の目で見る。
アプローチを間違えれば傷にもなれないのだと気付けなかった頭の悪さに同情する。
 
花垣武道とは、誰にでも優しいと見せかけて排他的な男だ。
 
好意を示したうえで目の前で死にでもしない限り、この男の記憶には残らないのだと直人は知っていた。
 

 

・・・ 
  
 
哀れな男二人の処理は内内で済まされ、映画の撮影は着々と終わっていく。
あんなことがあったというのに元気な武道に監督は苦笑いを浮かべたが、同時に、大事にならなくて良かったと安堵の息も漏らした。
 
直人はと言えばまた変わらぬ日常へと戻っていた。
 
映画の宣伝記事を書いて武道に感謝されたり、武道とは関係のない記事のために取材へ行ったり。
武道に記憶が戻ったとバレる前と同じ日々だ。イメチェンをした事で前より少しモテるようになったりもしたが、誰かと付き合うつもりもなかった。
 
ただ少しだけ、すっきりとした気持ちで過ごせるようにはなったと思う。
 
少なくとも、直人は武道にとって特別な存在であれたからだ。
橘日向の弟というだけではない、ともに戦った戦友として記憶に残れるのならこれ以上の事は無いのだろうと思う。
 
そんな事を考えていたからだろうか。
穏やかな時間はあまり続かなかった。

「げ……」
 
直人は急に、姉から呼び出しを食らいギクリと身体を強張らせた。
 
最後に姉に会ったのは髪を切った日だった。
 

その日も、直人は日向から呼び出しを食らった。
姉の好むシンプルながら可愛らしい内装の店内で、クルクルとマドラーを回す様を緊張した面持ちで眺める。淡いピンクオレンジの長髪がこの内装に合っていて、自身の姉ながら美しく、可愛らしい人だと思う。
 
正しく、清廉な女性だ。
間違いのない、大切にされるべき、義兄を守り、支えた。幸せになるべき人だ。
 
しかし昔から、直人にとっては理不尽で恐ろしい姉でもあった。
 
「ナオト、昔からそうだよね。私のもの欲しがるとか基本的にしないの」
「え、それは……」
 
目を合わせずに日向は語る。ただの昔話であるような口ぶりだが、その言葉の指し示す所を直人は正しく理解していた。
 
「歳が近いとは言え性別が違うし、まぁ多少は分かるけど。私のもの“なんて”興味無いって思ってるんでしょ」
「まぁ……」
「でもソレ、防衛機制なのも、ホントは自覚してるでしょ?」
「……」
 
ジ、とマグを見ていた姉の視線が直人に向けられる。
 
防衛機制。フロイトによって提唱され、古い時代に考えられながらも洗練され続け、未だに医療や教育の現場にでる前には一度は学ぶ概念だ。大雑把に言えば、欲求不満等を別の形で自分に納得させる思考回路。
幼い頃、直人が姉の持ち物を欲しがっても手に入らない事を分かっていたから自分を納得させる言い訳を自分にしていたことを、姉は分かっていたと言う。
その意味するところを、義兄に対する自身の感情を、見透かす様に日向は直人を見る。
 
義兄の前ではきゅるんと見開かれた瞳は今は半分ほど瞼で覆われ、口角も下がっている。
直人は姉のこういう所が恐ろしいと思う。頭が良い、要領の良い女なのだ、と。
 
自分が欲しがったゲームだって、いつの間にか自分よりも上手くなっている。自分が父に反抗している間に母と納得のできる将来の着地点を決めている。義兄の前では「頼りにしている」と甘えるが、その実、支えているのは彼女の方。
そのどれもが自分には無い器用さを日向が持っているという事を示していた。
 
日向が悪いという事は何もない。
ただ、少し羨ましいと思うことはある。
 
「酸っぱいブドウ……なんて言わなくても今のナオトなら分かってるか。全部思い出したんでしょ? そんな格好までしちゃって」
 
直人が“前”の記憶を思い出した様に、日向もまた“前”の事を覚えているらしい。
そして、自分がわざわざ“この”恰好をした意図を少なからず分かっている。
 
橘直人という男はあの頃の武道との親密な関係を少しでも取り戻したいのだ、と。
 
「……別に、姉さんから盗ろうなんて思ってないから」
「当たり前でしょ。盗れるだなんて思わないで」
「……」
 
肉体関係があった事は流石に知られていないだろうが、直人の感情くらいは分かっているのだろう。
日向は聡く、直人はそれが恐ろしい。
 
下がっていた口角が意味ありげに上がるのが何を意味するのか、直人には分からない。姉の方が対人面において何倍も上手なのだ。
 
「でも、私が知ってるって事も、よく覚えていてね」
 
あぁ、そんな会話をした。と、ぼんやりと思う。
 
結局、直人は“前”の記憶を持っている事を武道に明かした。
ずっと秘密にしておくことも、本当はできたハズなのに。
 
何が“無かったこと”だ。
あの繰り返した記憶は今も直人の中に確かに存在しているものだった。
 
武道のために佐野万次郎ニンゲンを撃ち殺した事も、武道を庇って撃たれた事も、やっとつかんだ二人の幸せがビルの屋上から墜落した事も。
 
何もかも鮮やかに直人の中に存在したのだ。
 
男に馬乗りにされる武道を見て、強く“前”の記憶を思い出す。自分は武道のためになら人を殺せるのだ、と。
幸い、映画スタッフの時は武道が直人の存在に気付いて注意を引いてくれていたから手加減をすることができた。しかし、もしもまたフィリピンの時の様な絶体絶命の場面に出くわしたら、自分は相手を殺すのだろう。
 
そんな思いを抱えていた。
だから、あの恐ろしい姉に再び釘を刺される可能性は十分にある。
 
見ず知らずの誰かを殺すことを厭わなくても、姉に小言を言われるのはとても嫌だ。それは自分が弟という生き物だからだろうか、と考えながら呼び出された場所に行けば、姉だけではく武道も一緒にそこにいた。
 
「姉さんに、タケミチくん……?」
「よぉ、久しぶり」
「はい、お久しぶりです」
 
促されるままに向かいに座り、とりあえずコーヒーを頼む。
 
いったいこの三者面談は何のためのものなのか。
直人だけではなく、武道も少し緊張した面持ちをしていて、コレは本格的に姉を怒らせてしまったのかもしれないと直人は身構える。
 
他愛の無い世間話をして時間を潰し、店員が直人の分のコーヒーを持ってきて、十分に離れたのを確認してから、日向は口を開いた。
 
「タケミチくん、殺されかけたんだってね。助けてくれてありがとう、ナオト」
「え、あ、うん」
 
その内容はとてもまともなのに姉の笑顔がどこか恐ろしくて直人は口ごもりつつ最低限の返事をする。
油断した所に爆弾を投げられる可能性もまだあるのだ。
 
「それでね、私決めたんだけど。いっそもうナオトにもタケミチくんを一緒に守ってもらおうかな、って」
「それは……」
 
姉の勝手な決定の意図を図りかねて直人は日向をジッと見つめる。
 
「タケミチくんはさ、私だけじゃなくてたくさんの人を救ったんだもん。だから今度こそ、幸せにならなきゃ」
「……」
 
言外に、日向にもリープの記憶があると明かされ武道は隣で目を見開いた。
いったいどこまでバレているのか、と。
 
「でも、もし、私だけじゃタケミチくんを支えきれないってなった時は他の誰かとも協力しても良いと思ってるの。私を助ける旅を終えた君は、マイキーくんを助ける旅に出ちゃったんだもの。次は他の誰を助けに、どこに飛び出すのか私にも分かんない。でも、それでも良いの。君はそういう人だって私は分かってるし、そんな君が好きなんだから」
「……」
 
姉の言いたい事は分かる。
花垣武道という男のその魅力と危うさを、自分たち姉弟は十二分に知っているつもりだ。
 
「でもね。一緒にいるって事は、きっと色々あると思うの」
 
ジッと日向が直人を見つめた。
怒っている様な分かりやすい表情ではない。しかし、見透かされている様な、自分たちの、日向に対する不実を知られている様な気分にさせられる目だった。
 
バレたのか、と武道を見れば目を逸らされる。
夫婦間で何かしらのやりとりがあったらしい。
 
リープの事はバレていないと思っていたが、直人とのことはバレた、と言った所か。実際は両方ともバレていたワケであるが。
今の自分たちは事実上何もしていないハズであるが、タイムリープの存在がバレているのなら話が変わる。
 
“前”は無かったことにならないのだ。
 
「ねぇ二人とも、もしも我慢できなくなったのなら言ってね。他の誰かとかは流石に我慢できないけど、直人ならまだ良いから」
 
寛容な様で、独占欲の見える声だった。
 
 
「タケミチくんも、男の人にブチ犯されたくなったら、ちゃんと教えてね。私、見ててあげるから」
「ひゃ、い……」
 
 
涙目になる義兄に同情するが、自分も同じ状況のため何も言えず直人は無言でコーヒーを啜った。
 
そう遠くない未来で、この夫婦の褥にお邪魔するのだろう、と未来視がなくても直人は予見した。