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誰が為のオム・ファタール  後編



都内某所。
東京卍會所有オフィス。

「おいイヌピー、見ろよコレ」

東京卍會幹部、九井一は手元の端末に映った殺風景な部屋を相棒である乾青宗に見せる。

「何だ? どこかのホテルか……?」
「ボスがこないだ攫ってきたイロの監禁部屋」
「……。空だな」
「あぁ、空だ」

これはとてもマズい状況ではないのか? と乾は小首を傾げる。ソレに対し九井はもう笑うしか無いとニヒルな笑みを浮かべて首肯した。

「ココのミスなのか?」
「いや……。そもそも、この部屋のドアが開くことがおかしいんだよ。管制室でしかこのドアのカギは開けられねぇ。そんでその管制室は幹部クラス……そん中でも俺かボスか稀咲ぐらいしか入れねぇ部屋だ。そんで俺は触ってねぇ」

そこは元は内部抗争があった時のセーフハウス、もしくは拷問部屋として作っていた部屋だった。結局使われないまま遊ばせていたその空間に最低限の家具を運び込んだかと思ったらオメガと思われる男をブチ込んだのは稀咲を殺した直後くらいだった。

「ボスが自分で逃がした……?」
「わざわざ攫ってきたオメガをか? しかも運命の番だったらしいぜ?」
「あの冴えない男がか」
「噂程度にしか知らねぇけどな。運命なんざ当人同士にしか分からねぇし。つーか、そうでもなきゃあんなの監禁なんざしねぇだろ」
「それもそうか」

現実逃避に件のオメガの悪口を言ってみるが当然事態は好転しない。

「容疑者、九井一」
「……はーぁ。マジで無理」

昔流行った刑事ドラマのスピンオフ映画のタイトルになぞらえて目を背けていた現実を言い渡され、九井はガックリと肩を落とした。
そう言えば自分たち黒龍が東京卍會に吸収されたのもそのくらいの時代だったか。当時のボスがその弟に殺され、その弟の所属していた東卍にそのまま自分たちも所属になった。あの頃はただの中坊ヤンキー集団がこんな犯罪組織にまで成るとは思ってもいなかった。
しかし、今思えばその直前くらいに副総長が殺された時点でこうなる未来は決まっていたのかもしれない。
九井達が東卍になった時には既に参謀と言う形で稀咲鉄太がいた。アレが全ての元凶であり自分が狙われて巻き込まれていたのも、何となく今なら分かる。

「ボスでもココでも無いとしたら誰が開けれるんだ? 稀咲は死んだんだろ」
「そうだな……。外部犯か内部犯か、もしくはその両方か」
「?」
「裏切者ラットが敵対組織と通じてるのか、個人的な恨みなのかは不明。外部犯にしても何であんなボス以外に価値のなさそうなオメガなんぞ……。稀咲も死んだしそろそろ逃げ時か……?」

粛清を逃れるために様々な可能性をブツブツと呟きながら頭を回転させる九井を眺めながら、乾はふととある人物を思い出した。

「そういえば、稀咲は死んだらしいが半間はどうなった?」
「……。知らね」



・・・


時は少し遡る。

部屋の外へと出て、男はフラフラと一本道を歩く。
どこへ向かっているのかも分からないがソレでもあの部屋にいるよりはいいだろうとただ前へと進む。

犯罪者に幽閉されていたというのに、部屋から出られてしまえば見張りなどはおらず警報が鳴る事も無い。某怪盗紳士3世の映画のような大脱出になるかもしれないと覚悟していた武道は肩透かしを食らう。
勿論、武道の身体能力は現在平均以下であり、反社会勢力に追われて助かる見込みも無いため大ごとにならないに越したことは無い。

だんだんと警戒心を無くし、裸足に部屋着でペタペタと通路を歩く。
せめて靴が欲しいと思ったが無いものは無いので仕方が無い。服を着ているだけマシだろう。財布も携帯も無いので助けも呼べない。この状況で助けてくれる友人もいないので110番かまたバースの研究機関しか頼れる相手がいないが、今の佐野万次郎相手に社会がどれだけやれるかは武道には分からない。もしかしたら警察とはズブズブの関係というヤツの可能性もある、と昔見たドラマを思い出して思い直す。
やはりバースの研究機関が一番だろう。昔から警察を頼りにするには不信感が強い。オメガの味方はまだまだ少なかった。

しかし、この建物はどこにあるのだろうか。もしも都内から出てしまっていたり、山奥にあったりなどしたら武道の目論見は泡と化す。
不安な気持ちを抱えつつも先に進めば先に階段が見えた。逸る心を抑えて、警戒心を持ち直して、周囲に注意をしながら登っていくとドアがあった。

「……」

ゆっくりと息を吐いて、できるだけ音を立てない様にドアを開ける。
瞬間、轟と音を立ててドアが引っ張られた。

「うおぁッ!?」

咄嗟に手を離せばガァンッと音を立ててドアが反対側に叩きつけられた。
一瞬だけ、ヤバい、と焦るも武道はすぐに安心する。風にドアを持っていかれただけでソコに誰がいると言う事はなかった。
どこかの建物の中かと思っていたそこはどこかのビルにカモフラージュされて作られた地下室だったらしい。恐らくビル自体が東卍の持ち物なのだろう。ソレならば早くこの場を離れた方が良いと武道は駆けだした。

どこかの路地を抜けて、裸足の足に痛みを感じながら走り抜ければ簡単に大通りに出ることができた。

「此処は……」

裸足で部屋着の不審者がキョロキョロと周りを見回しているのに関わらない様にと周りは武道を避ける様に歩く。見覚えのある通りに自宅からそう遠くはない場所だと分かり、武道は安心して雑踏に紛れる様に歩き出した。
此処からならバースの研究機関も遠くは無いし、その途中に自宅もある。
流石に2週間ではまだ解約はされていないだろう。アルバイトは無断欠勤でクビになっているだろうが、きっと失踪届は出してくれないから東卍が何かしていない限り靴と服はあるはずだ。

昔、佐野のもとから逃げた時も着の身着のままであったができれば最低限の荷造りはしたい。もしもバースの研究機関すらダメだった時は一人で逃げなければならないのだ。

住み慣れたオンボロアパートの階段を上がり、無くした時のためにポストの裏に隠していた鍵を取り出す。コレがバレていないのならアパートはノータッチなのかもしれない。
ドアを開けると2週間前に家を出た時のままの荒れた部屋がある。何度もゴミ捨てを忘れ大量に積み重なったゴミ袋、脱ぎっぱなしの服、食べかけのお菓子の袋、カビの生えかけた万年床の汚れた煎餅布団。この部屋を見たら佐野だって自分を見捨てるだろうな、と武道は嗤う。
運命だろうが100年の恋だろうが冷めるだろう部屋を荒らすように家探しする。財布も携帯も攫われた時に奪われたが通帳があれば多少の金額ではあるが引き出せる。どこかの袋の中に抑制剤もあるハズだし、まだマシな服をカバンに詰め込んで、どこか遠い場所へ逃げるために必要なものを集めなければならない。
解約手続きもできないが許してほしい。こちとら命の危機なのだ。

バタバタと荷造りをしていくうちに武道は薬品の入った小瓶を発見した。

「あ、コレ……」

ソレは武道が12年前に佐野から逃げる時に使った交信かく乱剤だった。
番のアルファが本気を出せばオメガは逃げても発情期のフェロモンを辿られて捕まってしまう。もちろん、物理的に隔離をしてしまえば大丈夫だがいつまでもそんなことをしてもいられないので当時開発途中だった薬がコレだった。

フェロモンは個々人で異なるため他の人間には使えないが武道のフェロモンを模して作られたこの薬剤を複数の場所に撒くことで武道の居場所を分からない様にするものだ。
番成立前のオメガのフェロモンでそんなことをすればテロになるが、番成立後のオメガである武道のソレは他の者には作用しない事は実験で検証済みだった。

この薬剤が必要になる事があるかもしれない、と思い武道はポケットに小瓶をしまう。
とっくに捨ててあってもおかしくないソレがこの部屋にあるのは武道の物を捨てられない性格故だった。

捨てられないのは物ではなく過去なのだろう、と武道は自嘲する。
実際、この薬剤も12年も月日が経っていれば変質してしまっていても不思議ではない。それなのに捨てずに持っていくのは気休めのお守りだと思っているからだった。

本当に必要な物だけを詰め込んで逃げてしまわない辺りどこか楽観的ですらある。
このボロアパートも、もしかしたら戻ってくるかもしれないとすら思っていた。そのため、必要最低限の荷物をカバンに詰め込んで、武道は外へと出た。



・・・


都内、路地裏。

男は荒い息を吐いて壁に凭れる。
男には休んでいる暇など無かったが、疲弊した身体が休息を求めていた。

弾丸が翳めた腹を抑え止血しつつ回らない頭を回転させる。

失敗した失敗した失敗した。

壊れた玩具の様にパニックを起こす脳みそを薬物を胃に流し込んで無理矢理落ち着かせる。痛みが麻痺すれば多少は余裕が出てくるだろうと無理にでも前へと進む。
敬愛する王へと現状を報告しなければならない。破談となった取引はその場は大怪我を負いつつも何とか男一人で片を付けたが、そんな事よりも罠に嵌められたことが問題だった。

男は王の側近ともいえる位置にいた。つい先日までいたナンバー2は王に殺され、もうほとんど残っていない昔から王の傍にいた人間がこの男だった。
昔の仲間たちを粛清した先に何が残るのかは男にも分からない。かつて兄と慕った男も、幼馴染も、既に死んだ。ソレでも王がいれば良かった。

王は何があっても負けないと男は本気で信じていた。

それでも、不利な事は起こるし、つまらない事で王を煩わせたくないとも思う。
通信手段も絶たれ、血まみれの身一つで路地裏を幽鬼のようにのっそりと進む男にあるのは王への忠誠心のみだった。

「罠だ……。あのクソドブ野郎を追うな……マイキー…ッ!!」

・・・


同時刻、ボロアパートにて。

下駄箱にしまいっぱなしだった古い靴を履いて、外へ出る。目指すはずっとお世話になっていた研究機関。
通い慣れた道ではあるが用心するに越したことは無い。マスクと帽子を被って身を縮めるようにして先を急ぐ。
急いでいたハズなのに、電気屋の前を通った瞬間、武道は足を止めた。

電気屋のディスプレイにはつけっぱなしのテレビ。そこから流れてきたニュース番組の音に思わず反応してしまった。

「東京卍會、抗争激化……?」

テレビの画面に映る事故現場の様な場面。
一般市民を巻き込む様に暴走した車がビルに突っ込み、煙が上がっている。幸運にも一般人に怪我人はいても死人は出なかったらしい。

以前から犯罪組織として名高い東卍だったが、ここまで大きな事件を起こす様な事は無かったハズだった。それがどうして、何が起こっているのか、とコメンテーター達がスタジオで終わりの無い議論をしている。
しかし、今の武道には思い当たる節があった。

「№2が死んだから……?」

佐野から聞かされた稀咲の話を思い出す。佐野の側近だったらしいその男が東卍を此処まで大きくした犯人である。稀咲がいなかったら東卍は此処まで大きな犯罪組織になることはなく、ただの暴走族として終わっていただろう。もしかしたら代を跨いで誰かが引き継いで佐野はカタギに戻っていてた可能性すらある。

そんな男が死んだのだ。

つまり、東卍を実質動かしていた男がいなくなった。
ボスである佐野が喧嘩において無敵であるという事は武道も知っているが、裏社会でフィジカルの強さがどれだけ物を言うかは分からない。稀咲が死んだ時点で東卍は崩壊寸前なのかもしれない。
そんな状況で何故、自分が攫われたのかが分からないが自分に全く関係の無い話でもない事は分かっている。

大きな戦争が起ころうとしている。
武道が佐野万次郎の運命だったせいで、だ。

自分さえいなければこんな一般人を巻き込む様なことにはならなかったのではないか。そもそも、東卍が犯罪組織になる事も無かったのではないか。
そんな自己嫌悪の想いが胸を締め付ける。

呼吸が苦しい。
息ができない。
ヒューヒューと喉が鳴る。

落ち着け、今はパニックになっている場合じゃない、

と分かっているがうまく呼吸を止められない。膝から崩れ落ちて背中を丸める。
落ち着け、落ち着け、と頭の中で呪文の様に唱えるが効果は無い。

「あの、大丈夫で……え、武道っ!?」
「カ、ハッ……ぁ?」

誰かが武道に声を掛けた。道端でうずくまっている他人を気に掛けるなんてなんて優しい人なのだろう、と普段の武道なら思うかもしれないが今はそんな余裕は無かった。
涙で滲む視界にふわりとした金髪が映る。しかし、それも一瞬の事で武道はすぐに目を瞑って背を丸めて必死に息を吸った。

「ヒッ、ひゅ……ッ」
「武道、武道だよな? 大丈夫、一瞬だけでいいから、息を止めて」
「ッ!? む、り……ッ!」
「大丈夫。大丈夫だから。ゆっくりでいい」

どこかで聞いたことのある声に武道は反射的に応えた。余裕なんて無いハズなのに、その声に応える事はあまりにも武道にとって当然の事の様だった。

「一瞬でいいよ。一瞬だけ」
「ひッ……ぅ、」
「そう、大丈夫。上手、もう一回がんばって」
「ぁ……ふっ」
「そう、できれば息を吐いて」
「ふ、うぅ……」

声に従って呼吸を繰り返せばだんだんと息ができる様になる。ボロボロと零れる涙を袖で拭い、武道はやっと顔を上げた。

「タク、ヤ……?」
「あぁ、やっぱ武道だ。久しぶり、大丈夫か?」

見上げた先には12年前に置き去りにした思い出がいた。



・・・


都内、九井一所有ビルにて。

「あ、ボス? ………は? いや、ん。了解」

掛かってきた電話から一方的に告げられた内容に九井は苦い顔をしつつも従順に応える。
めんどくさいと思いつつもその指示に従うのが一番マシな選択だと判断しかからだった。

「ココ、マイキーからか?」
「おう、やっぱもう無理っぽい。暫く潜るぞ」
「ふぅん」

自分から聞いた割に興味無さそうに、乾は返事をする。
乾には九井の傍にいること以外に特にするべきことも無かったからだった。
十代の頃に事故で姉を亡くし、それを機に崩壊した家庭に嫌気がさしグレて、暴走族に入って暴力と犯罪に明け暮れた。その末に、乾は大人になった今でも犯罪組織に身を置いている。

そんな乾の幼馴染であり、ずっと乾を支えてきたのが九井一だった。
今更真っ当な生き方も分からない乾が生きてこられたのも九井のお陰と言っても大げさではないと乾は自覚していた。その上で、対等な幼馴染として乾は九井を慕っていたし、九井は乾を尊重していた。
九井について行けば間違いが無い、と乾は信じていた。今までソレが失敗だったと思うことは無く、これからもそうだと思っている。

「わざわざマイキーからの連絡でソレってことは、マイキーも東卍畳むつもりなのか?」
「まぁそんなとこだろうな。ちょっと頼まれごとはしたが、それさえ果たせばボス公認で潜れるって感じ」

携帯端末の画面を操作し、最後の仕事に取り掛かる。
少しだけめんどくさいと思いつつもまぁコレがボスから受ける最期の仕事になるだろうと思えば仕方が無いと思わなくも無かった。絶対的に良い上司だったとは言えないが、それでも付き合いが長ければ多少なりとも情も湧く。

「……」

九井は頭の片隅にどうにも幸せにはなれそうもない二人を思い浮かべた。カリスマ性と危うさの双方を抱えた恐ろしい上司と、小汚い冴えない男だ。
納得するかと言えば難しいと九井も考える。しかし、依頼された以上の仕事やお節介をする間柄ではないし、九井には九井の大切なものが既にあった。

「たっく、そんなイイもんなのかねぇ。運命の相手ってヤツは」

 

・・・


武道を助けた男……山本タクヤは武道の幼馴染だった。身体が弱く、オメガの自分を差し置いてよく保健室の世話になっていた事を武道も覚えていた。何なら武道はどちらかと言えば健康そのもので、オメガらしい儚さはなく頑丈な身体を持っていた。
どちらかと言えばヤンチャな武道の後ろをおとなしめのタクヤがついて行く様な関係だったが、保健室にいるタクヤを迎えに行くのはいつも武道の役目だった。性格は違うタイプでも武道はタクヤと一緒にいるのがとにかく楽しかったのを今でも覚えている。

小学生の頃から続いていたそんな日々が終わりを告げたのが佐野と番った日だ。

佐野から逃げた日に武道はそれまでの人間関係の全てを捨てたと言っても過言ではないと武道自身は思っている。
親元を離れ、学校は通信制に変えて、施設の人間にしか会わない。そうでもしなければ番……それも運命の相手からは逃げられない。分かってはいるが武道にとっては辛い選択だった。
佐野から逃げる事数年、彼が諦めたと施設の職員たちが判断するまでほとんど軟禁状態と同じだった。
施設から出ることが出来る様になっても、今更当時の友人たちと連絡を取ることは憚られて会うことは無かった。

それが偶然、今になって道端で出会うとはどういうことだろう。

そう驚いて戸惑ってしまった武道とは反対にタクヤは再会を喜んだ。尻込みする武道の手を引いて近場の喫茶店へと入り、コーヒーを注文する。遠慮する武道の分を自分が払うからと勝手に頼み、タクヤは嬉しそうに笑う。

「武道は会いたくなかったかもしれねぇけど、俺は武道に会えて嬉しいよ」
「そんな……っ!」

そんなことはない、と言いたかったのに嘘を吐くのが苦手な武道は言葉に詰まる。
自分の現状を考えれば人と会うのはリスクでしかなかった。武道自身が危ないのもあるが、武道と接触した人間に危害が及ぶかもしれないという点に関しても心配だった。

東卍に監禁されて逃げてきた。
そんな時に幼馴染に再開してしまうなんて不運以外の何でもない。タクヤが敵でも味方でもマズい事になると武道は確信していた。

「武道は変わんねぇな。何となく考えてること分かるぜ? 大丈夫なんて言えねぇけど、俺はリスクを負っても武道に会えた事が嬉しいんだ。だから気負わないで」
「タクヤ……」
「なぁ、会っちまったもんは仕方ねぇんだし、ゆっくり話をしようぜ」
「……うん」

タクヤの変わらない柔らかな笑顔に絆されて、少しだけ武道の肩の力が抜ける。武道はこの友人のこういう所が好きだったのだと思い出した。

「あの後、転校したってこっちでは聞いてるけど、あの後実際はどうなったんだ? お前は逃げ切れたのか?」
「うん、研究所でお世話になって学校は通信制に切り替えた。フェロモンの匂いを辿られない様にする薬とか作って、佐野からは逃げ切れたよ」
「そっか、良かった。でも、まさかあの東卍が犯罪組織になっちまうなんてな……」
「うん……。何で、こんなことになっちゃったのかな……」

俺が逃げたせい?
そう言葉を続けたかったが声にならなかった。聞けば、タクヤは否定してくれるだろうと武道にも予想できた。わざと慰めを引き出す様なことを言うには武道は被害者になり切れていなかった。

「仕方ねぇよ。まさか稀咲の野郎とマイキーが手を組むなんて誰も思ってなかったし」
「稀咲……?」

思わぬ名前に武道は顔を上げる。
武道が中二の頃、まだ稀咲の名前は大きくなかった。佐野に話をされた時に名前も顔を知らない相手だと思った。しかし、幼馴染のタクヤは知っているらしい。
武道の不思議そうな声にタクヤもまたきょとんとする。

「あれ、武道だって知ってるハズだろ? 知り合いだって聞いてたけど」
「いや、東卍の幹部って事しか知らない。どこ情報だソレ」
「どこ、ってお前の彼女だったヒナちゃん。橘日向だよ」
「橘から……?」

少し驚いて、武道はすぐに納得した。
稀咲と橘は幼馴染だったと聞いた。武道は稀咲に覚えは無かったが、橘を介して何かしらの繋がりがあったのかもしれない、と。

「知り合いって程じゃないけど……」
「お前に初めて会った時に稀咲と一緒にいたって聞いたぜ?」
「待って。その話、オレ聞いてない。どういう事?」
「いや、俺だって詳しくは知らねぇけどさ。小6の時だっけか? 何か、ヒナちゃんと稀咲が一緒に下校してた時に変な奴に絡まれて、そん時お前に助けられたのが始まりだって言ってたけど」
「そんなの、聞いてねぇよ。てか、お前橘のことヒナちゃん呼びしてんの?」

自分の知らない自分の話を元恋人と幼馴染が自分のいない所でしていたうえに、自分よりも親しくしていたという事実に武道は眉間に皺を寄せた。浮気を疑う様なことは無いがそれでも少し微妙な気持ちにはなる。

「お前がいなくなるちょっと前から保健室でたまに話すことはあったぜ? お前の事だけど」
「……」
「俺、ヒナちゃんのこと尊敬してたんだよ。お前の事好きになったからさ」
「オメガなんて好きになって苦労すること見えてたのに、って?」
「違ぇって。いやそれもあるけど」

あるのか、と武道はタクヤをジト目で睨む。

「お前ってイイ奴じゃん」
「……」
「ヒナちゃんはさ、お前のそういうとこちゃんと見てんだよ。誰かのためにちゃんと怒って、勝てない相手にも喧嘩売って、俺みたいな病弱な奴とも平気な顔してツルんでる。勝てねぇこともあったし、辛ェめにもあったけどさ、俺はお前といれて楽しかったんだぜ?」

少し照れくさそうに、タクヤはそう言葉を続ける。
懐かしそうな、それでもどこか過去にしきれないような郷愁を纏わせた声音だった。

「まぁそんな感じでさ、たまにヒナちゃんからお前の事聞かれたりとか逆にヒナちゃんといる時のお前の事とか聞いてたんだよ」
「そっか……」
「しかしまぁそんなヒナちゃんの幼馴染があんなクソみてぇな犯罪組織作りあげるとか、思わねぇし。つーか、何で東卍に入ったのかもよくわからねぇ」
「……」

ぼやく様に呟かれるその疑問の答えを武道は持っていた。しかし、ソレは伝えるべきことではないと口を噤む。
東卍の内部情報など一般人であろうタクヤに伝えるべきではない、とタクヤの身を案じる気持ちと全て自分のせいだったという罪悪感のためだった。佐野から逃げるために皆を捨てた武道をそれでもイイ奴と言うタクヤに、幻滅されるのが怖いと感じて武道は言葉を紡げなくなる。

「橘は……」
「あぁ、大分前にニュースで見たよ。悲しいな……。でも、今あぶないのはお前だ」
「タクヤ……?」

落ち込んでいた心を無理矢理にでも引き上げる様なタクヤの言葉に武道は目を見開く。武道が監禁されていたことなど知るハズもないタクヤが何故そう言うのかが分からなかった。

「東卍の抗争にあの頃の奴が巻き込まれるのはコレが初めてじゃねぇ。だから、あの佐野万次郎の番だって周りに知られているお前が今、一番危険なハズだ」
「他に誰か……?」
「数日前からアッくんと連絡が取れなくなった。その家族ともだ」
「そんなっ! アッくんが!?」

アッくん……千堂敦は武道の親友だった男だった。中学の頃にずっと一緒にいて、タクヤとあと二人の友人と5人で馬鹿をやっていたことをよく覚えている。少しクールなリーダー格で、誰よりも仲間想いだった。

そんな友人が何かに巻き込まれたかもしれない。
武道は自分の血の気が引く音が聞こえた。また、自分のせいで誰かが死ぬのか、と。

「まだ確証はねェけど、巻き込まれたか、もしくは巻き込まれそうになって上手く逃げおおせたか、だな」
「逃げてくれてたらいいんだけど……」
「まぁコレばっかはニュースで名前聞かないことを祈るしかねぇよ」
「うん……」

顔を蒼褪めさせた武道を気遣いつつも、タクヤは言葉を続ける。

「それより今はお前だよタケミチ」
「それより、って」
「12年前の事を知ってる奴は多分多い。あの頃から見た目は多少変わったけど、きっと分かる奴はお前があの時のオメガだって分かるぜ」
「うぅ……」
「せめて東京の外へ逃げろ」
「タクヤは……?」
「俺ももうそのつもりで動いてるよ。逃げ出す前にお前に会えて良かった」

ニコリとタクヤが柔らかく笑う。
昔から変わらないその表情に武道は少しだけ安心した。

「あぁ、そういえば。さっきの話に出てた佐野から逃げるための薬とかってまだあるのか?」
「うん、12年ものだから使えるかは分からないけど……」

武道がポケットから交信かく乱剤を出すとタクヤは物珍しそうにソレを見た。

「コレ、どうやって使うんだ?」
「この液体自体が俺のフェロモンに近い様に作られてるらしくて、囮に使うんだ。複数個所から俺の匂いがするからどれが本物か分からなくなるんだって」
「ふーん……」

テーブルの上に置かれたその小瓶を物珍し気に眺め、タクヤはハンカチにソレを垂らした。

「ちょっ!?」
「つまりこーやって匂いをしみさせたモノをテキトーな場所に置いとくとか、反対に行く電車に乗せとくとかして使うんだな」
「まぁそうだけど……」
「お前のその荷物、これから逃げるハズだったんだろ」
「え」

武道の荷物を指差してタクヤはいたずらっ子の様に笑う。

「俺はお前の幼馴染だぜ? 何だって分かるよ。その決心をしてくれて良かった。そんで、最後にお前に会えて良かったぜ」
「タクヤ……」
「もう12年前にでも県外に逃げてると思ってたけど、そうじゃないならホントは出ていきたくなんて無いんだろ? でも、此処はもう危険だ。万が一にも追手が掛からない様にコレ、テキトーなトラックにでも投げといてやるよ」

何と答えていいのか分からずに戸惑う武道に構わず、タクヤは伝票を持って立ち上がった。

「じゃあな。タケミチ」



・・・



「ハァ!? マイキーと連絡つかねぇってどういうことだ!!」
「すみません! ボスどころか九井さんや半間さんにも連絡がつかなくて……!」

東卍の事務所に辿り着いた三途は怒りに身を任せ怒鳴り散らした。

「チィッ! やっぱ先を越されてやがったか……」
「あぁっ! 待って下さい!! せめて手当をっ!!」
「うるせぇ! そんなことしてる暇があると思ってんのか!!」

どいつもこいつも使えねぇ、

「テメェ等も自分で考えて動け。事態の収束に動くでも次の手を考えるでも、マイキーと九井がいねぇならもう二度と指示なんて降りてこねぇかもしれねぇぞ」
「へ?」

間抜け面の構成員に嫌気がさす。

「じゃあな」

部下を連れて行くことも考えた。しかし、この様子では足手まといにしかならないと三途は判断する。

「……」

今回破綻した取引先はもともと稀咲が相手をしていた所だった。稀咲が死んだ今、その引継ぎに追われているため全てを精査する時間は無いが今回の様に分かりやすければ三途も動きやすかった。
ほとんどの場合、ナンバー2のブレインの死だとしても腹の探り合いから入る。ソレが今回はその過程をすっ飛ばしての襲撃だった。不意を撃たれたと言ってもいい状況に歯嚙みこそすれど、迷いはない。

マイキー……ひいては東卍に仇成す者は殺す。それだけだった。

「……」

稀咲の息の掛かった組織による襲撃、その時点で半間の離反は確定だった。
今回の騒動の首謀者と見て間違いはない。死んでから暫く経っての時限爆弾の様な事態にもう何度打ったかも分からない舌打ちを打つ。

あの男が一番執着していたものは何だ?

恐らくソレは橘日向と見て間違いないだろう。どういった経緯で何が起きていたのかは分からないがあの女のために稀咲は今まで動いていたと言っても過言ではないだろう。佐野のためなどと嘯いていたし、そのカリスマ性を最大限利用するために佐野にも執着していたが目的ではなかった。
全ては橘日向、そして花垣武道のためだ。

橘の元恋人であり、佐野の番。
橘を殺すだけなら愛憎の果ての凶行で片付けられた。そして、また橘から想いを寄せられている花垣を殺すことも単純な理由だ。

しかし、三途には何が稀咲をそこまでさせたのかは分からない。
三途には愛というものが分からなかった。

しかし、稀咲という男と長年仕事をしていた三途にはあの男の異常な執着心と、綿密過ぎる計画の立て方の特徴が分かっていた。
稀咲は自分が死んだくらいでは復讐を諦める様な男ではない。

死してなお、殺したいと願う武道を殺すために必要な事。それは武道の番である佐野万次郎の殺害だ。
佐野が生きている限り武道を守ることは簡単に予想出来た。オメガとアルファとはそういう生き物であるからだ。

武道を諦めれば佐野は生き残る可能性が飛躍的に上がるだろう。番さえ解消してしまえばオメガが廃人になろうともアルファは次を探すことができる。オメガとアルファとはそいう生き物であるからだ。

稀咲の仕掛けた時限爆弾が作動し、上層部は混乱の中散り散り。佐野と連絡が付かないという事は佐野が囲っている武道にも既に動きはあるのだろう。
武道と共に安全な場所に移動しているか、武道が逃げ出し追っているのかは分からない。
どちらにしても、武道と佐野が一緒にいるという事はこの状況に置いて共倒れ以外の末路が無い。
佐野だけなら一人いるだけで周囲を一掃することも可能であるが武道は紛れもない足手まといだ。ただ殺すよりも守る方が何倍も難しい。

情報を絶った佐野を追うことは難しいが、武道を追うことはさほど難しい事でないと三途は考える。
武道の行動パターンは単純だった。その行動パターンを武道に執着する稀咲が読んでいないワケが無い。

「……研究所は敵だな」

佐野と武道が一緒にいない場合、武道は研究所に向かう可能性が高いと考えられる。武道がそこに到着する前に捕まえなければ佐野が危険だと判断し、三途は研究所へと向かった。

 

 

・・・

 


「武道……じゃないな、誰だお前」
「ハハ、一か八かの賭けだったけど、こっちに食いついてくれて良かったぜ」

傾きかけた日が赤く射す路地に二人の男の影が揺れる。
一人は不機嫌そうに、一人は自嘲と恐怖を滲ませて、相対する男を見た。

恐怖に身を竦ませる男、タクヤはそれでもしっかりと不機嫌そうな男……佐野から逃げずに真っすぐに睨みつける。
武道から半ば盗む様に使用したかく乱剤が佐野を惹き付けた事を喜ばしく思う。佐野がこちらに来たという事は自分は武道が逃げる時間を稼げているという事だ。
殺されるかもしれない、そんなことは分かっていた。それでも、12年前に目の前の男のせいで失った友人を想えば、どうしても負けたくないという意地だけでタクヤは立っていた。

「い゛ッ」

そんなタクヤに佐野は迷うことなく近付き、殴りつける様に前髪を掴んだ。

「誰だって聞いてんだよ」
「さぁ、な」

ヘラㇼと笑うタクヤに佐野は事務的な手付きで顔を近付けた。

「何でお前から武道の匂いがするん……いや、コレは違うな…」
「……」
「コレは前に嗅いだ……偽物だ」

佐野から怒りの様な感情は感じられなかった。ただ冷静にタクヤから情報を抜いている。
それは単純な暴力よりも何故かタクヤを不気味な気持ちにさせた。

「お前、研究所の奴か……?」
「だとしたら何だってぇんだよ」
「……」

ジッと、光を映さない黒い瞳がタクヤを見分する。何か見透かされているのかいないのか、タクヤには分からなかった。タクヤはこの男の事をほぼ何も知らない。タクヤが男を最後に見たのは12年前に友人がこの男に攫われた時だった。それから友人が逃げ出せたと知った時は安堵したが、この男が憎くて仕方が無かった。
しかし、タクヤがこの12年、武道を忘れられなかった様に、この男も武道に執着したままだったということをタクヤは理解していた。

「ソレも違うな。一般人の嘘くらいすぐに分かる」
「……」
「武道に会ったのか。そんで、あのかく乱剤を分けられた。でも、アイツは他人を囮にできる様な奴じゃない……。お前は武道の何だ」
「ソレを俺が答えるとでも?」
「別にお前を拷問してもいい。でも、今はそんな時間は無いんだ。アイツは馬鹿だから、もう既に稀咲の策にハマりかけてる。このままじゃ死ぬのはアイツだ」
「……」
「お前はアイツのために囮になった。アイツが向かう先が東京の外ならまだマシだ。だが研究所ならアイツは詰みになる。答えろ、アイツはどこに向かった」

この12年間、何があってただの不良がこんな裏社会の闇を煮詰めた様な男になったのかは分からない。そのきっかけが稀咲だったのか、武道だったのか、それともそのどちらもいなくともこの男は堕ちたのかもしれない。
しかし、もしもそのきっかけが武道だったのだとしたら、とタクヤは思う。武道は頑固な男だった。根は善良だけれども、独善的と言えば独善的で、ヤンチャとしか言いようの無い少しの無鉄砲さを持っていた。調子に乗りやすくて、どこにでも良そうな平凡な少年だった。

そんな武道がオメガだと知った時、タクヤは背筋が冷える思いをした。
オメガという性と武道はどうにも結びつかなくて、二次性徴を迎えればタクヤの知らない生き物になってしまうのだろうかとすら思った。けれども武道は変わらず武道のままだった。
中学に進学しても、彼女が出来ても、何も変わらなかった。

武道は変わらない。驚く程頑固な男だ。
いつでも、変わったのは周りだった。

そのつもりが無くとも、周りを狂わせる。
もしかしたら、初めから武道はオメガオム・ファタールだったのかもしれない。

「知らねぇ」
「……」

気が付くと、タクヤは口を開いていた。
目の前の男も、武道に狂わされた一人でしかない様に感じられると何故か心に余裕が生まれた。

「東京の外へと逃げろとは言った。アイツも逃げるつもりで荷物を用意してたし、薬もそのためのものだ」

この男が武道のせいで堕ちたのなら、再び武道のせいで変容する可能性を持っているのではないか、とタクヤは頭の隅で考える。
すでに死んでしまってもう変わる事のない稀咲の対抗馬として、武道のために変わる可能性を秘めた佐野につくことで武道を救う道が開けるのではないか、と。

「何処へとは聞いてねぇ。だけど、アイツは警察も自分も信用はしてねぇ。アイツが頼ってきたのは多分研究所だ。キヨマサに……東卍に奴隷にされてからアイツの自尊心は地の底だ。アンタにレイプされてからは更にだろ」
「……」
「アイツは自分が身一つで生きていけるなんて思っちゃいねぇ。だが、親や知り合いを危険に巻き込めるタイプでもねぇ。オメガの身じゃ警察も頼れねぇ……」

そんな絶望の中の武道を助けたのは研究所だった。
そして、その研究所が敵になったのかもしれないのだと、佐野は宣った。佐野と稀咲のどちらが味方なのか、敵なのかは分からない。

それでも、佐野は武道の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
もしも武道に飽きているのならばきっと番の契約を破棄していただろう。

ソレが佐野が武道を愛しているという証明だった。
それが、タクヤには何よりもの判断材料だった。

「多分、アイツはまた研究所を頼ろうとしてると思うよ。幼馴染の俺が断言する」

アイツのことは何でも分かるんだ。



・・・



「こンの、ドブカス大馬鹿野郎ッ!!!」

夕暮れの路地に怒鳴り声が響いた。

「何であの部屋から出た」

研究所まで目前、という程では無いがそれでも大分近付いた場所で、武道は大通りから路地へと引きずり込まれた。
投げ捨てる様に張り倒されて、武道はうまく受け身も取れずに強かに尻を打った。頭を打たなかったのは強襲犯、三途がそのように仕向けたからだろう。

「テメェはただマイキーに飼殺されていれば良かったんだ。そうすれば最低限お前は死なずに済んだ」

顔にガーゼを張り付けて、髪を乱したままの鬼のような三途の言葉に武道はビクリと身体を震わせた。何となく来るだろうと分かっていた事であるが目の前の男は佐野から差し向けられた刺客なのだろう、とどこか冷静武道は思う。
何も重要な秘密などを知ってしまっていたりなどはしていないが、あの部屋から逃げた時点で自分の処分は碌なものではないのだろう、と。

「俺の人権と尊厳が迷子過ぎる」
「……」

顔を顰めて素直に文句を言えば、男は先ほどの怒りとは打って変わって表情を無くした。

「テメェは何か勘違いしているかもしれねェが、圧倒的な恐怖と暴力の前に言葉も人権も意味はねェ」

自分を見下ろす男に見覚えは無かった。しかし、佐野に命令されて来たというには私的な感情が透けて見えた。会ったことも無い男に恨まれる理由など一つだった。
自分が佐野万次郎の番であるからだ。

怒り、憎しみ、侮蔑、そんな感情を目の前の男は自分に向けている。
それと同時に、佐野への畏怖がそこにはあった。

「お前の尊厳に何の価値がある?」
「価値……?」

自分にそんなものはない。
分かり切ったことだった。ヒトとしての尊厳などオメガに生まれた時点で無かったのだと武道は思い知った。蹂躙され、貪り食われるだけの性だ。
一人ではまともに日銭も稼げない実験動物。ソレが今の武道の自分への評価だった。

「お前は尊厳のために死ぬのか? ソレなら初めにマイキーに犯された時に死ねば良かったんだ」

三途の言葉は武道を踏み躙るべく発せられ、凶器の様に鋭い。
その言葉はそう間違ったものではなく、だからこそ武道を傷つけるものだと、言われている本人も分かっていた。しかし、武道はソレに傷つくことなく何となくそれを聞いていた。
見知らぬ男から発せられるソレに無感動でいられる理由は分からない。流暢な罵倒をどこか他人事の様に感じられるのは、もしかしたら傷つきたく無いがために単純に頭が理解するのを拒否しているのかもしれない。

「お前が無様にも逃げ出したからマイキーは中途半端なままだ。それでも誰よりも強ェから東卍は日本の裏社会を牛耳ったが、お前が弱みなのは変わらねェ。なぁ、お前何のために生きてんだ?」

三途の語る事のほとんどは武道には意味が分からなかった。

「マイキーの強さは虚ウロだ。持ち物を失う度にアイツは強くなる。身軽になる。鋭く、キレが増す。何かを失う度にアイツは強くなる。その怒りと衝動で塗りつぶされた瞬間が何よりも強ェんだよ」

佐野の強さに心酔する三途にとって、佐野の弱みたりえる番の存在が邪魔だという事のみかろうじて読み取れたがソレだけだった。

「運命の番なんてモンの価値はゴミクズ以下のゲロ以下だ。弱みにしかならねェ」

つまるところ、三途は武道を殺してやりたい、それだけが武道にとって重要な内容だった。
このよく喋る男をどうするか、喋っている間は生き残れるかもしれないが散々文句を言った後に殺すのだろうと武道は予想する。喋っているうちに打開策を練らなければならないが特に何も思い浮かばない。

「愛だの尊厳だのクソの役にも立たねェ」

その言葉には武道も同意であった。実験動物になったのは金のためだった。金が無ければ生きていけない。
しかし、すでに武道から失われた愛や尊厳があったとしたら、この未来は変わっていたのだろうか。きっと、家族には愛されていた。大事な友達もいた。好きだと言ってくれる最愛の彼女がいた。

「テメェに生きてる価値があるのか? クソオメガがよ。マイキーのために死ねば良かったんだよ」

ソレを失ったのは佐野の暴力のせいだ。

「ふ、ハ。ハハハッ」

佐野を想う三途の言葉にぼんやりとしていた武道は少しだけスッキリした気持ちになる。
確かに、愛だの尊厳だのくだらない。そんなものは暴力の前にはあまりにも無力だった。

だからと言って暴力に屈してやるのはあまりにも癪だった。

「あ゛?」
「誰が強姦魔のために死ぬかよ。生きてる価値? あるワケねェじゃん。俺みたいな中卒キズモノオメガにさァ。俺が生きてて佐野万次郎が困るならざまぁみろってなモンだ。ソレだけで生きてた意味がある」
「テメェ……」

生きたいと思って生きてきたのかは分からない。
散々クソみてぇな人生だと嘆いてきた。それでも、何故か死のうとは思わなかった。
もしかしたら何度か思うくらいはしたかもしれないが具体的な行動に移そうと身体を動かすことは無かった。

何故生きているのかなど考える必要などない。
死ななかったから生きてる。その程度だった。

武道の言葉に三途は激昂する様に額に血管を浮き上がらせた。
これはいよいよ死ぬかもしれないと思ったその時、一番聞きたくなかった声が路地に響いた。

「そこまでだ」

声のした方を見れば金髪をオールバックに撫でつけ、光を映さない真っ黒い瞳の男、佐野が二人をジッと見つめていた。

「マイキー!?」
「三途、よく武道を研究所から守り切った」
「いえ……」
「……?」

守り切った、という言葉に武道は首を傾げた。
守られたつもりはないし、何なら三途は佐野からの刺客だとすら思っていた。

「武道への暴言や俺への所感は不問にしてやる」
「……」

続いた言葉に三途は少しだけ気まずそうな表情をしたが反論はしなかった。出来なかったのかもしれない、と武道は少しだけ留飲を下げるが三途へ嫌悪も佐野への嫌悪も大して変わらない。
もともと逃げる算段は無かったが、ますます退路が断たれどうするかと武道は眉間に皺を寄せた。

しかし、佐野の影からひょっこりと出てきた友人に目を丸くした。

「タクヤッ!?」
「わりぃ武道。お前が1ミリでも生き残る方に賭けちまった」

心底申し訳なさそうな顔をして、タクヤは両手を合わせた。
その様子に怪我はさせられてないらしいと武道は少しだけ安心する。交信かく乱剤で佐野に見つかった事は予想できたので佐野の邪魔をしたとして殺されてもおかしくなかった、と。

「稀咲とマイキーなら、まだマイキーの方がマシだって思っちまったんだ……。少なくとも、お前を殺さねぇ……」

タクヤは俯き、武道と目を合わさずに呟くように言い訳をする。

「でも稀咲はもう……」
「あぁ、聞いた。死んでる、って。でも……」

顔を上げて、覚悟を決めた様にタクヤは武道を見た。
半ば奪う様に武道から交信かく乱剤を得たのに、佐野を遠ざける処か連れてきてしまったことに対する罪悪感はあるが武道が生き残るために一時的に佐野は必要であるとタクヤは判断した。
コトが済んだ後に武道が佐野から逃げられるかは分からないし、その時に自分がどうなっているかも分からない。それでも、タクヤは武道に生きていてほしかった。

その言葉を遮る様に、佐野は説明を引き継いだ。

「アイツのクソなとこはその執念深さだ」

遮られたことに少しだけムッとした顔をしたがタクヤは大人しく説明を譲った。稀咲についてはタクヤよりも佐野の方がよほど詳しかった。

「自分が死んだら発動する罠を仕掛けていた」
「……」
「アイツがお前を殺そうとしていたことは前に説明したよな」

2週間前に聞いた話を思い出す。橘を殺した稀咲が、更に武道を殺そうとしたから佐野が稀咲を殺した、という話。
橘が死んだという情報でその時の武道は他に何も考えられなくなったが、確かに聞いた話だった。

「アイツは俺が殺した。でもその程度でお前を諦めるアイツじゃねぇ」

人の死を、それも自分の死を“程度”などと言えるくらいに稀咲という人物から恨まれていたという事実に武道は頭が痛くなる。
自分のまったく知らない所で痴情の縺れに巻き込まれ、殺されかけていた。しかも元カノの方は実際に殺された。むしろ自分が恨んでやりたいくらいなのに武道には稀咲が誰なのか顔も分からない。

「だが、お前を殺すには俺が邪魔だ」

憎みたいのに憎むための情報が少なすぎる相手から自分を守ると宣う憎い相手に武道は苦虫を嚙み潰したような表情をした。どちらも恨んでも恨み切れない相手だ。
佐野に守られたからといってこの12年の恨みが無くなるワケでは無いし、この2週間で更に恨みは増した。

武道に死んでほしくないと言うタクヤの心だけがこの状況で唯一武道が佐野を頼るという選択を後押ししているが、ソレが無ければ玉砕覚悟で佐野からも逃げていただろう。溜息を吐きたい気持ちを堪え、武道は話の続きを促した。

「でも、どうやって……」

死人が自分を殺すのか、その問いへの答えは佐野のものではない声が答えた。

「ばはっ♡ なかなか花垣が来ねぇと思ったらこんな所で寄り道してたのかぁ」
「っ!?」

細長い。
ソレが武道の男への最初の感想だった。
背の高い細身の男はいかにも高そうなスーツを身に纏っているが、ソレはあまり上品とは言い難い着こなしだった。どこかの会社の役員というよりはインテリやくざと言った方が納得できるし、事実やくざ者なのだろう。

「マイキー、お出ましだ」
「分かってる」

三途と佐野の雰囲気が一瞬で張り詰める。
この男が自分を殺そうとしている敵なのだろうと武道にも分かった。この三人が討ちあっている間に自分とタクヤが逃げおおせるのが第一希望であるが、難しいだろうとぼんやりと考える。

のっそりと重く、どこかフラフラユラユラとした様はあまり強そうでは無いが不気味な迫力があった。

「お前が、花垣武道なぁ……」

爬虫類を思わせるギョロリとした目が武道を捉えた。その視線から庇う様に佐野とタクヤが前に出る。

「ホントにオメガか、ってくらい平凡だな。こんなんに人生狂わされた稀咲も可哀相になぁ」

見下すようにそう呟く男に少しカチンと来ないことも無いが、武道からすれば誰だお前という感情の方が先にくる。
大方稀咲とかいう奴の友達か何かなのだろうと予想はつくがそもそも稀咲自体が分からない。

橘を殺し、武道を殺そうとして、佐野に殺された誰か。

ソイツが死んで、更に死んだ後も付け狙われるなど迷惑であるという感情しか湧かなかった。
何か言い返してやろうという気持ちも起こらずにとりあえず成り行きを眺めていると、男はつまらなそうに武道を眺めるだけでソレ以上は何も言わなかった。本当につまらないのだろう。武道自身も自分に目の前の男を楽しませる要素は無いと思うし、万が一にも楽しませてなどやりたくなかった。

「半間ァ、稀咲の腰巾着のテメェが今更なんだよ? 弔い合戦かァ?」

この異様な男に真っ先に声を上げたのは三途だった。
男……半間は三途に対しても武道へのものと同じくつまらなそうな表情を向けた。

「んー? まぁそんなとこ?」
「ハッ、ご苦労なこったなぁ。」

不気味な男だった。
武道は佐野に実際にされた暴力や、学生時代の無敵ぶりを知っていて恐怖しているが、目の前の男にはそういった事前情報が無くとも奇妙な怖さを感じた。ソレは武道が接して来た誰よりも、男が感情に乏しい顔をしていたからだろう。
真っ直ぐに向けられる敵意や怒りよりもどこか人間離れした無感情が恐ろしかった。

そんな武道の恐怖を知ってか知らずか、佐野と三途が前へと出る。

「お前がマイキーに勝てると思ってんのかよ」
「ばはっ、勿論思ってねェよ」

そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、半間は何かを地面に投げつけた。

「っ!?」

閃光弾の様なものだろうか。派手な音を立てて煙を上げながら何かが爆発した。
いくら夜の路地裏と言えどこれだけ派手なことをすれば人が集まり反社には不利になるであろうにどうするつもりなのか。そんな事を考えたのは後になってからで、その瞬間の武道は驚いて固まることしかできはしなかった。

その一瞬で、半間はその大きな歩幅で武道に迫り、三途に阻まれた。

「王の手を煩わせるほどの事でもねぇ、テメェは此処で死ね」
「……」

爆音に耳をやられているのか、その言葉に半間は反応しない。それでも、ニヤァとチェシャ猫の様な笑みを浮かべていた。

「三途、任せた」
「ハイ、首領」

半間を阻んだ三途とは違い、武道の保護を優先した佐野は武道の手首を掴んで走りだす。
武道とタクヤは爆音に耳がやられてしまいその会話を聞くことは無かったがされるがままに走り出した。


「さて、裏切り者はスクラップだ」

「ばはっ♡ 最初から俺ァ稀咲の味方だわ」

 

・・・


路地裏の夜闇に男の殴り合う音が響く。
先ほどの爆発音を聞いていつ誰かが来てもおかしく無いのにその様子は一向に無く、恐らく既に囲まれているのだろうと予想はついた。

「……」

喧嘩という第一線からは互いに退いてかなり経つ。
今更、前衛など任される様な役職ではないのだ。裏切者の拷問や処刑はしても捕まえるのは部下の仕事だった。
一方的に痛めつけることに慣れた拳が久方ぶりの喧嘩に歓喜することは無く、ただただ鈍い不快感だけを訴える。

東卍の懲罰隊に入ってしばらくは拳の喧嘩もしていたが、稀咲が入って外道の道を転がり落ちてからは武器も使っていた。もちろん、完全な犯罪組織となった今も拳銃は所持していたがこの狭さで接近戦をするのに拳銃を抜くのは悪手だと三途は判断する。

目の前の裏切者を抹殺できるのが一番であるがこうも不利な条件で戦わされると投げ出してしまいたくなる。
囲まれている事を考えれば投げ出した所で生存率が上がるワケでも無いので三途は無心で拳を振るった。

「お前さぁ、稀咲の最期知ってる?」
「あ゛? 知るわきゃねぇだろ! んなもんマイキーしか知らねぇよ」

稀咲の死は幹部達に事後報告された。
昔から東卍にいた奴から死んでいったのでソレを聞いた時に疑問は湧かなかった。とうとうか、と醒めた気持ちで王の乱心を見ていた。
ブレインの死は痛手であるが王の御心が一番だった。何なら九井がいれば何とかなるだろうとすら思っていた。

そのフォローに走っていた間に、王が番を攫ってきた。

そうして事の真相を知れば王が稀咲を殺した理由に辿り着いた。
王と稀咲をたぶらかしたオメガ。

吐き気がした。

圧倒的な力を持つ王から逃げおおせた無力な雌。
大昔から傾国といえばオメガだ。今の王を作り上げプロデュースしたのは稀咲であるが、その稀咲を作ったのがそのオメガだと知った時に感じた憎悪を三途は忘れられない。
強い事が何よりも大事だった。最強の男を篭絡したオメガが三途は大嫌いだった。
その気になればいつでも殺せる矮小な存在であることが唯一の救いであり、最大の汚点だった。

「ふぅん、そっか」

ニヤニヤと笑う口許に反して半間の目は何も映してはいなかった。

三途にとって佐野はどうしようもなく特別だった。
半間と稀咲の関係が何なのか三途は知らない。知ろうとも思わない。けれども、目の前の男にとっての稀咲もそういったものなのだったのだろうかと思わないという事もなかった。

王を失った男の姿など裏社会に入ればいくらでも見られた。珍しいものでもない。

「じゃあ、死ねよ」

パンッ、と乾いた破裂音が響いた。

「あ?」

その瞬間に感じたのは痛みよりも熱だった。
次いでやってきた痛みに自分が撃たれた事を悟る。

「やっぱ囲まれてたかァ」

殺そうと思えばいつでも殺せただろうにわざわざ喧嘩の様な泥臭い殴り合いをしたのは何故なのか。
恐らく最初の閃光弾で部下に場所を知らせて囲ませたのだろう。最初に佐野を逃がした判断は間違っていなかったと少しだけ安心する。

一対一の単純な殺し合いではない、確実な策に既に死んだ男の存在を感じて嗤う。

「テメェは何のために生きてんだよ」
「さぁなぁ」

その言葉に次いで、二発目、三発目の発砲音が鳴る。殺意高いな、と思わないことも無いがむしろ殺意以外のものが無いのだろう。
王を失った先に残るものを三途は知らない。知らないままにこの局面に来てしまった。
ソレが良い事なのか悪い事なのかは分からない。それでも知らないで済んだことは幸運なのかもしれないとも思う。

薄汚い路地裏に崩れ落ちて、生暖かい血がスーツを汚す。
冷えていく身体と激痛と熱さの奔る患部に自身の死を予期した。

そんな虫けらの様な姿の三途を興味など初めから無かったとでもいう様に無視して、半間はユラユラと路地の奥へと進む。
死体の処理すらしないのはもうどうでも良いと思っているからなのかもしれない。相手と自分の勝利条件の違いに三途は笑いだしたくなる。

なりふり構わず殺しに来る奴からか弱いオメガを守るミッションなど自分たち反社には不似合いすぎて笑えてくる。

「なぁ、マイキー。俺はアンタの事怖くて仕方が無かったケドさ」

もう誰にも届かない声で空へと呟く。
繁華街の灯りで星も見えない暗闇が鈍く鎮座するそこは三途の王を想わせた。

「アンタがいない世界で生きるのもソレはソレで怖ェんだ」

幼い頃から、ずっと恐ろしかった。
叱責が、言葉が、視線が、大きな身体が、年上が、大人が、暴力が。
言葉に意味は無く、理不尽な責任を負わされ、反抗などすることはできなかった。

だからこそ、そんな恐ろしい物をモノともしない自分よりも小柄な幼馴染みが羨ましく、そして大好きだったのだ。

自分が持つことの出来なかった強さ、力を持った佐野はどこまでも自由で、憧れだった。

その強さが自分に牙を剥いて、初めて畏れというものを知った。

その感情にあらがってみた事もあったが、結局は佐野の下へと戻ってしまった。
佐野に出会わない人生が三途にはもう想像もできなかった。畏れを知る前の自分を思い出せもしない。

「ざまぁみろ花垣」

三途が佐野に狂わされた大勢の一人でしかない様に、武道もそうだった。
武道が狂わせた稀咲が狂わせた佐野に人生を狂わされた武道。武道もまた東卍が殺した誰かに過ぎないのだと思えば留飲が下がるというものだった。
実際には留飲どころか開けられた穴から溢れた血で口も胃もいっぱいであったが、どうでも良かった。

どうせ行き着く先は地獄しか無い。後は再会が早いか遅いかの問題だ。

「じゃあな、マイキー」

なるべく遅い再会で自分の目に狂いはなかったと証明してくれ。



・・・


早く路地を抜けてしまおうと佐野は足早に進む。
三途が足止めしてくれているが長くは持たないだろうと予想していた。三途の戦闘能力を低く見積もっているワケでは無いが、自分たちが追い詰められる側であるという状況と半間は稀咲の策で動いているであろうという点での全く油断のできない状況だという判断だった。

信頼はしていないが信用はしていた。

それが佐野の稀咲へのスタンスだった。
恐ろしく頭の切れる男だ。あの男がいなかったら良くも悪くも東卍はこうはなっていなかっただろう。喧嘩は強く無かったが色々な根回しや人を使うのが上手い男だった。カタギの世界で生きていれば大成したであろうに、恋に狂ってこんな薄暗い場所で死んでいったのは馬鹿だと思っているがソレは自分も一緒だと佐野は自嘲する。

ヒトとは殴れば死ぬ生き物だ。
殴られない様に生きるにはどうするか。カタギならそれなりの社会性というものの中で自身の安全を確保するが自分たち反社会的存在は腕っぷしが強ければ死なずに済む。
社会性の無い自分が暗がりに身を置くのは腕っぷししか無かったからだと佐野は自覚していた。稀咲はカリスマ性がどうだとか言っていたが形の無いソレの出どころは結局強さだろう。

そんな世界で自分に殺されるまで死ななかった稀咲は暴力の世界でその知性を武器にしていた。そんな稀咲に対して正面から挑むのは愚の骨頂だと佐野にも分かる。
時間稼ぎで忠臣を犠牲にするのは勿体ない事であるが、そうも言っていられない状況だった。恐らく、戦った時点でこちらの敗けが確定する。

稀咲が殺したいのは武道である。
うまくいけば佐野のことも殺してやろうと画策しているだろうけれども、一番の目的は武道の殺害だ。

どこまで逃げれば逃げ切れるのかも分からない。死人の策謀から逃がしきる事が可能かも分からない。
それでも、このまま路地にいれば囲まれることは必至だろう。大通りに出て一般人を巻き込む可能性と自身の番を天秤に掛けて佐野は後者をとる。

そろそろ路地を抜けるという所で急に武道が立ち止まった。

「待ってください」
「あ゛?」
「あの細長い人が俺を殺そうとしてるのは分かりました。で、俺が頼ろうとしていた研究機関が危ないかもしれない、ってのも」

タクヤの存在に安心して流されかけていたが、自分はそもそもこの男から逃げていたハズだ。問題は何故、一緒に行く流れになっているのかだ。

「でもこれからどうするんですか? また俺は監禁生活ですか?」
「……」

犯罪組織の一員に命を狙われてしまったのだからその親玉に飼われてしまった方が生存率は上がるかもしれない。しかし、それではふりだしに戻ってしまう。
反社同士で同士討ちをして自分はタクヤと県外に逃亡したい、と武道は半ば本気で思っていた。タクヤにはタクヤの生活があることは分かっているが自分とこの日に関わってしまったのがいけない。顔を見られている限り、恐らく平穏な日常に戻れはしないだろう。

「武道……」
「だって……」

タクヤの諫める様な声に武道は眉尻を下げてしまう。今はそんなことを言っている場合ではないという事は分かっていたがこのまま進むのも怖かった。

「あー、もう。お前は仕方が無いなぁ……」

ゴネる武道にタクヤは大きくため息を吐いた。

「取り敢えず落ち着けよ。飲みさしで悪ィけど、コレでも飲む?」
「……あぁ、うん。ごめん。ありがとう」
「……」

カバンから取り出されたペットボトルに入った青い液体を武道は受け取る。半分ほど飲まれていたが気にせずに武道は口を付けた。
その様をどう思ってか佐野は何も言わずに見ていた。

「落ち着いたか?」
「うん……」
「とにかくさ、俺たちはまず生き残る事を第一に考えなきゃだろ?」
「でも……」
「大丈夫。怖ェのは分かるけどさ、今はこうするしかねぇんだよ」
「うぅ……」

だんだんと思考が鈍り、タクヤの言葉が頭に響く。
他に方法が無いのは何となく分かっていた。警察に行ってまともに取り合ってもらるかも分からない。事が大きすぎて逆にイタズラと思われるかもしれない。
考えなきゃいけないのに上手く頭が回らない。どうしたらいいのか分からなくて言葉すら上手く発せられない。
子どもがむずがる様な有様の武道をタクヤは出来るだけ柔らかく抱擁した。

「大丈夫だから……」

混乱した思考のままゆっくりと背中を撫でられてだんだんと武道は何も考えられなくなっていく。

「……」

気が付いた時には完全に意識を失っていた。

「警戒心が死んでるのかよ……」
「まぁ相手が俺だからだろうから叱らないであげてほしいな」
「……」

監禁中だって一度も口の開いているペットボトルから水を飲ませたことは無かった。ソレは佐野なりの武道への気遣いであったが、青い色をした飲み物を人からもらって飲むなどする武道には要らない気遣いだったのかもしれないと頭が痛くなる。

「……行くぞ」
「あ、ごめん」
「あ゛ぁ?」

武道に続いてタクヤまで何かゴネ始めるのかと強めの威嚇が喉から漏れた。佐野のそんな声を聞けば震えあがる奴等ばかりだったというのにタクヤは少し困った様に笑うだけだった。

「俺は此処でお別れかな」

そう言いながら、武道を寝かしつけた時にカバンから掏すっていた小瓶を軽く振る。

「……死ぬぞ」
「まぁもともと武道を逃がして死ぬつもりだったし」

君も引っかかってくれたよね、と笑えば佐野は不愉快そうに眉を顰める。

「武道が泣くぞ」
「俺は泣きわめかせてでもソイツに生きてて欲しーの」
「……分かった」

何を言っても無駄だと悟り、佐野は武道を背負い直した。そのズボンにタクヤは持っていたハンカチを押し込む。

「じゃあコッチはポッケに入れておくね」
「……」
「誰がどっちを追うかは分からないけど、せめて分散させることはできるっしょ」
「そうだな……」

始終ヘラヘラと笑うタクヤの心情を佐野には図れない。武道であれば多少は読み取れるものがあったのかもしれないが、その武道を寝かしつけたのがタクヤだった。

「なら、コレ持っていけ。使え」
「……うん。分かった。じゃあ俺はこっち行くから、武道のことよろしくな」

まるで散歩にでも行くかのような軽い足取りでタクヤは雑踏へと踏み出した。
小瓶を開けて、かく乱剤を通行人にコッソリと付けながら歩いていく。武道が生き残るなら他の誰かが犠牲になっても構わなかった。武道本人は絶対に望まないであろう方法だとは分かっていた。それでも、タクヤは自身の願いを優先させる。
ただただ、武道に生き残ってほしかった。

まるで足跡の様に疑似フェロモンを振りまいて歩く。
佐野以外には分からないハズのソレであるがもう一人だけ、ソレが分かる存在がいる。研究所の職員だ。
佐野に特に効くものであるがそこに物質が存在するという事実は変わらない。それは絶対に製作者には検知できるハズだ。このフェロモンを纏うのは偽物であるが、運命の番にすら本物と勘違いさせた優れものだ。きっとどちらが本物かまでは判別がつかないだろう。

検知する方法があるなら絶対に使われるだろうとタクヤは踏んでいた。

雑踏を踊る様に抜けて、人通りの少ない方へと再び向かう。巻き込むことを厭わないだけで巻き込みたいワケでは無いのだ。

ふと、廃ビルが目についてタクヤはそちらに足を向けた。
立ち入り禁止のテープを無視して埃だらけの中へと侵入する。割れたままのガラスに劣化して砕けたコンクリートの壁。倒壊することこそ無いであろうがそこにいるのは危険だと誰にだって分かるような建物だった。
スプレーで雑に落書きされた壁に、ビール瓶や缶のゴミが捨てられた床。不良や浮浪者の溜まり場になっているのであろう様子を眺めながらどこか既視感のある階段を上る。

最上階のボウリング場に辿り着いて気付く。

そう言えば此処に来たことがあった、と。
武道がボウリングにハマって一時期ここにばかり来ていた時があった。幼いころから身体が弱く、激しい運動ができなかったタクヤと一緒にいたせいか武道は案外インドアな趣味が多い。
パズルにボウリング、ソレはタクヤと一緒に遊べる遊びとして試してみてタクヤ以上に武道がハマった遊びだった。外で元気に遊ぶことも出来たし好きだったハズなのに、武道は何でも本気で遊んでいた。もちろんハマらなかった遊びもあったが、インドアは楽しくないなどとは絶対に言わなかった。
武道が全力で楽しそうにするから、タクヤもつられて笑うし、気を遣わせていると気に病むこともほとんど無かった。面白くなかったら面白くないと楽しそうに宣って、他の楽しい事を探した。中学に上がって相変わらず保健室のお世話になる事は多くても人並みに出歩けるようになって、わざわざインドアに拘らなくても良くなっても続けられていたその遊びがなんだか擽ったい心地にさせられて嬉しかった。

あれから12年も経って、一人で来ることもなくなったビルはいつの間にか廃墟と化していた。
気付けなかったことが少し悲しかったが、ソレでも12年も経っていれば仕方が無いと思えた。全てを覚えていられるハズも無いと笑えすらした。
それでも、何となくこの場所に来てしまったのはやっぱり自分にとって思い出深い場所だったからだろう。

放置されたままの椅子に座って眼下に広がる東京の街を見下ろす。
このどこかにまだ武道がいると思えば、こんな場所でこれから死に行くであろう自分も誇らしく思えた。

別に心酔しているワケじゃなかった。
普通の友達としてただ純粋に好きだった。
中学に上がってからは他に友達だって出来た。なのに、タクヤが一番に友達だと言いたいのはいつだって武道だった。

服のセンスは無いし、調子に乗りやすい性格の時代遅れのダセェ奴。
けれども、傍にいてほしい時に誰よりも傍にいてくれる男だった。

誰にでも出来そうだけれども、誰もしてくれない事を平然とやってのける男だ。ソレを無鉄砲だと諫めることも多かったが、ソレに救われたことだってある。
たかがその程度で何でこんなにも好きになってしまったんだろうと、溜息を吐く。武道の謎の求心力をソレが武道の魅力なのだとタクヤは断言できる。

今思えば、アレがオメガという生き物なのかもしれないとタクヤは思う。
ベータの自分すら狂わせて、仕方の無い奴だと笑って許してやりたいと思わせる奴。自分のために心を砕いた最初の他人。散々つるんで馬鹿やった友達。
お前のためになら死んでもいい。なんて言ったら、泣いて怒るのだろうと予想が出来てタクヤは少しだけ笑った。

「思い出し笑いかァ?」
「あぁ」

声を掛けられて驚きはしなかった。研究員ではなく反社の男が一人で来たことは意外ではあったが、誰かが自分を殺しに来るのをタクヤは待っていたからだ。

「あー、ハズレかぁ」
「うん、ごめんね」
「うんにゃ、マイキー追ってたら死んでだたろうしなぁ。アイツにゃ勝てねぇ、マジダリィ」
「ハハッ、反社も大変なんだな」

ユラユラした動きで男、半間がタクヤに近付く。
見たその手には拳銃が握られていた。

「あ?」

既に至近距離に近付いていた半間にタクヤは勢いよく接近する。直後、パンッ、と消音装置も何も無い乾いた大きな破裂音が響いた。
ほぼゼロ距離で放たれた弾丸が半間の腹を貫通する。ハンドガンの射撃などしたことも無かったがこれだけ近付けば確実に当たるだろうと立てた作戦は正しかった。

まさか完全に一般人の男が気負う様子も無く自分を殺しに来るとは半間も予想だにしていなかった。痛みと熱、ジワリと広がる血を確認する前に半間は反射的にタクヤを蹴り飛ばす。

「お前……」
「……佐野万次郎にもらったんだ。一般人に急に拳銃渡して使え、とか流石反社のボスだよ」

上手く受け身は取れなかったがソレでも拳銃だけは手放さなかった。反動でふっ飛ばされるかもしれないと思いつつ、フラつく半間に照準を合わせた。

「俺が武道のためなら人を殺せるって分かってたみたい」
「イカレてんナァ」
「うん」

半間がこのボウリング場で男を見た時、時間稼ぎとは健気なことだと感慨も無く思っただけだった。
稀咲が執着したオメガに狂わされた他の被害者。いかにも一般人然とした男からは殺気などは感じられなかった。ソレがまさか半間を確実に殺すべく、接近した所で撃ってくるだなんて予想できるハズも無い。

しかし、武器を持っているのはタクヤだけではない。半間も当然の様に銃を所持していた。
三途を相手にした時は確実に殺すために素手で時間稼ぎをして、部下に撃たせたが今度はそうもいかないと分かっていた。部下を待っている時間でどんどん血が失われるし、自分がこの状態であるなら既に計画は破綻している様なものだった。

「お前さぁ、何のために生きてんの?」
「は?」

銃口を向け、いつでも殺せるようにしつつも、スルリと口から出てきた言葉は先ほど自分が投げかけられた質問だった。

「あのオメガはマイキーのモンだろ? お前が使い潰されて死ぬ理由ってナニ?」
「武道は佐野のモンでもねぇよ。アイツは頑固だからな、生きてる限り誰もモンにもならねぇ」
「ソレお前の報われもしねぇ献身に関係する?」
「しねぇよ」

不快そうな顔をしつつもタクヤは半間の言葉に返答を返す。お互い、もう此処が最期の場所になるであろうことを予期していたせいかもしれなかった。

「アイツが笑って生きてるだけで俺も楽しかったんだよ。報われる、が何を指してるかは知らねぇケド、ダチのためなら命賭けられる。それだけアイツと過ごした時が楽しかった。それだけだ」
「ふぅん……」

献身という程、健気に尽くしたつもりは無かった。
もらったものも多ければ与えたものだってあった、恋人になりたいとか、何かをしてほしいとかしてやりたいとか、そんな大それた事ではなかった。許して、許されて、困った時は助け合う。
そうするだけの日常があった。コレはその延長線上の出来事だとタクヤは思う。

「ちょっとだけ分かるワ」

パンッ、と乾いた破裂音が響いた。先ほどタクヤから撃たれた分を返す様に腹に一撃入れる。

「が、ァ……ッ」

撃たれた拍子に手に力が入ったのだろう。半間の腹にも二発目の弾丸が貫通した。
赤く染まる腹に感慨は湧かない。今更人を殺す事にも殺されそうなことにも感情が動くことも無かった。
想定外に話してしまった、と思いつつも既に破綻している策だから仕方が無いと内心言い訳をする。

目の前で呻く男が一番の想定外だ。
コイツさえいなければ稀咲の策で武道を確保し、殺すことが出来ていたハズだった。

佐野を出し抜いて稀咲の恋敵にして死因を抹消する。あの無敵のマイキーを出し抜くなんて面白いだろうと思っていた。
何処かから連れ去ってきて監禁していたオメガを外へと逃がせば稀咲の想定していた通りの動きで自宅へと戻り、研究所へと向かっていたハズだ。残り少ない幹部は他の組織を使って殺したし、生き残った三途だって殺せる範囲にいたハズだった。裏切らせた部下によって佐野は組織と連絡は取れなくなり孤立させた。
あと一歩だった。ほとんど上手くいっていた。この男が武道と再会するまでは。
稀咲の作る策は緻密だった。長い時間を掛けてタネと仕掛けを作って、連鎖的にピッタリとハマる。だが、そうであるが故にイレギュラーに弱かった。稀咲本人がいればまだ修正がきいたであろうが、歯車でしかない半間にはそんなことはできなかった。
かくして、花垣武道の幼馴染、という何の障害にもなりそうもない一般人によって完璧だった稀咲の策は崩れたのだ。

ソレが腹立たしくもあり、やっぱりなぁ、という諦めにもなった。
稀咲本人がいなければいけないのだ、と。

稀咲が狂わされたオメガに狂わされた一人が、稀咲の策を狂わせた。

やっぱり、あのオメガは稀咲にとっての鬼門の様なものだったのだろうなぁ、仕方の無い奴だと少しだけ笑った。

あのオメガに興味は無かった。
半間がそのオメガを認識した時には既に男は項を噛まれ無差別の誘引フェロモンが出せない状態になっていた。社会の底辺でアルファに頼ることもできずにゴミの様に生きているソレは半間にとっては雌と認識するにはあまりにも魅力の無い存在だった。
もともと女に大した興味があるワケでも無かったが、ソレでも柔らかい身体や美しい見目があればそれなりに抱くこともできるという程度の認識はあった。ソレと比べるとその男は自身が抱くなどありえないし、商品として売るにも大した額にはならないと反社会的組織でそれなりに培った経験で判断する。
そんなゴミに執着していたのが長い付き合いになる稀咲という男だった。

稀咲は半間にとっての特別だった。

稀咲の最期に残した仕掛けに乗らないという選択は無かった。
今更稀咲のいない人生をどう過ごしていいのかも半間には分からない。生きるだけなら生きていけるだろう。けれども、きっとソレは退屈な消化試合の様なものにしかならないことも分かっていた。

まさか自分が裏社会の住人でも何でもないただの一般人に殺されるだなんて思っていもいなかった。稀咲はこうなる事を予測していたのだろうか?
まさかそんな事は無いだろうと分かっていた。それでも、この策で自分の事を捨て駒にはするつもりだったことは分かっていた。

半間は稀咲の事が大好きだったが、稀咲からはそういった感情を向けられてはいない事は分かっていた。ただその小さな後ろ姿を眺めながら歩いていられれば良かった。
もうその後ろ姿すら見えなくなるならば、その道程で死ぬのもまた愉快なことの様に感じられた。

「なぁ稀咲ィ、やっぱお前サイコーだったわ♡」



ドサリ。



・・・



「……」

タクヤと別れた路地裏からもかなり離れた場所で大の男を背負ったまま、佐野は囲まれていた。その中にはちらほらと見覚えのある人物もいて、稀咲と半間の部下は全員もう敵なのだと認識する。
もしも組織を立て直す様な事があれば大量の部下たちを処分しなければならなくなるとその面倒さに溜息を吐く。

しかし、周囲を取り囲む中に半間の姿が見えず、タクヤの方へと向かったのだろうと理解した。
代わりに佐野の目の前には共同不審に周囲を気にする痩せぎすの男がいた。こちらには見覚えが無く、恐らくコイツが武道が世話になっていた研究所の職員なのだろう。
確かに、コイツ一人で追わせるよりは半間が一人で行った方が良いだろう。人を害することに慣れていないのであろう一般人は顔色を悪くするだけで、加害の決心がつかずに半間が合流するのを待っている。
背中に人を背負っていなければコイツだけでも殺せたのにと思わなくも無いが、コイツを殺した所で他の部下たちが佐野達を殺して終わりだろう。

「半間は来ねぇよ」
「ヒッ……!?」

声を掛けただけでこの怯えようは何なんだと思わない事も無かったが、追い詰められているとはいえ自分は犯罪組織のボスで相手は小心者の一般人だ。武道の様に反骨精神に任せて殺されても構わないと噛み付いて来る奴や、タクヤの様に大切な誰かを守るためならばと覚悟がキマッた奴の方が少ない。こんな一般人が多くいてたまるかとすら裏社会に属している人間として思う。

「半間が追った方がハズレだけどさ、無策なワケねぇじゃん。アイツもお前と同じ一般人だけどさ、アイツはヤる奴だよ」
「え……」
「東卍のボスを殺せるって義憤に駆られたのか、家族でも人質に取られたのか知らねぇケドさ、此処まで追い詰めといて手を下さないのダセェよ」

いくら無敵を冠していても弾丸で穴だらけにされてしまえば死ぬのだと佐野だって分かっている。この状況に勝機が無い事だって分かっていた。

「自分が来るまでは殺すな、とか別に指示されてねぇだろ? そんな悠長なことしてたら殺されるのはテメェだからなぁ」

うっそりと微笑みながら佐野は宣う。
事実、素手でだって人は殺せる。殺してやりたいという衝動は湧かなかったが、事実としてだ。
昔から衝動的なタイプだった上にその衝動のままに動かせる身体があった。そのせいでこんな所まで来てしまったが始めはきっと、ただ自由に生きたいだけだった気もする。周りを利用して利用されて、行き着く先がアウトローだっただけだ。

「……」

けれども、不思議なまでに、今の心は穏やかだった。

苦しみだけの人生だった。ソレは間違いない。
失ってばかりで、奪い返そうとしても同じものは返っては来ない。奪って、抱えて、奪われて、失って、その繰り返しだった。苦しいのだと泣くには人から奪い過ぎていた。

手放してみて分かる。
自分は抱え過ぎていたのかもしれない、と。

大切だった。大切なハズだった。
絶対に手に入れて、手放したくないと思っていた。

けれど、苦しいのは手放した瞬間だけだった。
何も持たない身のなんと軽い事かと、佐野は嗤う。

「なぁ、半間は来ねぇよ。アイツが追った奴はさ、大事な奴のためなら何でもできる奴だから。しくじったとしても、少なくとも今ここに半間が間に合う様な事態にはしない」
「ぁ、ア……」
「なぁ、どうする?」

自分が判断をしなければならない状況に痩せぎすの男はいよいよ紙の様に蒼白になった顔面に脂汗を滲ませる。
死刑の執行には誰が直接殺したのか分からなくする方法が取られているらしいと思い出す。それほどまでに殺人というのは心を削る作業なのだろう。もうその気持ちを思い出すこともできないけれど、初めての時、佐野は自身の怒りと衝動に身を任せていて、奪ったショックよりも奪われた事に気を取られていた気がする。

堕ちてみれば簡単だった気もするが、その一歩が踏み出せない気持ちが分からなくはない。
何かを捨てる時はいつだって勇気がいるものだろう。
ますます、先ほど別れた男は異常だったと思う。ベータで、一般人の人生を歩んできたというのに12年ぶりに再会しただけの幼馴染のオメガのために一瞬で何もかもを捨てる覚悟を決めたのだから。

「ア、アァア……ッ」

痩せぎすの男は身体を震わせながらすすり泣く様に呻き声を上げる。
崩れ落ちる男を見ながらコレはダメかもしれないなぁ、と思う。佐野が鼻白んだ気分になった瞬間、パンッと乾いた破裂音が響いた。

佐野を囲んでいた男のうちの誰か一人だろう。わざわざ誰であるかなど特定する気も無かった。

「オイッ! まだ指示は無かっただろう!?」
「うるせぇ! こうしてるうちにサツでも来たらどうすんだ!?」

背中に背負った男ごと佐野の身体を鉛玉が貫いていた。

「ソレに無敵のマイキーだろ!? うかうかしてたら俺たちが殺される!!」
「そりゃそうだけど……ッ」
「連絡が無けりゃ殺していいって言ってただろ!!」
「そりゃあ、あの研究員とか言う奴にだろっ!?」

ドサリと倒れた身体がコンクリートに叩きつけられた。撃たれた箇所の痛みと背中の重みが鬱陶しかった。
言い争う声とは別方からさらに2、3と破裂音がして痛みが増す。一発で死んでいないと理解してるのだろう。言い争う奴よりも冷静で正しい判断だ。
ドクドクと暖かい血が外へと出て行き、冷えていく身体が重くなる。

嗚呼、アイツは暖かかったなァ。
と、佐野は朦朧とする頭で思い出す。最後まで自分を受け入れる事の無かった運命の人。

奪って、傷付けて、逃げられた。
攫って、一時的に自分に縛り付けたけれども、最期まで手に入った気のしない男だった。
何でアイツが好きだったのかも分からない。ただ運命と表現するしかない情動だった。

「……」

他に道はあったのだろうか、と掻き抱いた身体を思い出して夢想する。
アイツの胎に仕込んだ種は芽吹くだろうかと見る事の出来ない未来に期待する。
子どもが欲しかったのかと言われると微妙だとも思う。あの手に入らない男に傷でも付けてやりたかったのかもしれない。

終ぞ笑顔を見ることは無かったのは少しだけ心残りだった。

もう何かを考える機能は身体に残っていないらしく、ただただ武道の事だけが気がかりでソレがどういう感情なのかも分からなかった。

いったいアレは何人の男を狂わせていたのか。

自分ももしかしたら大勢のうちの一人だったのかもしれないと思えば諦めるしかないと笑いがこみ上げる気がした。
実際にその信号は脳から送られることは無く、真っ黒い瞳から一滴だけ涙が零れた程度だった。

指一本動かす気配もない佐野にもう大丈夫だろうと男たちが近付いた。
背中に背負われたフードの男が佐野の番だというオメガだろう。足先でつついて動かない事を確認してから蹴り飛ばす。

ゴロリと転がった男の死に顔は穏やかでまるでずっと寝ていた様だった。
その拍子にポケットから落ちたハンカチは妙に綺麗で、男が持つのに相応しくは無い気がした。

「後は死体を処理するだけだろ?」
「あぁ、本部の方は通信が死んでるらしいから別部隊に直接連絡しろって半間さんが」
「はー、クソな仕事だったな」
「つーか俺たち暫く稀咲さんに会ってねぇけど、どうなってんだ?」
「さぁな、まぁ何とかなるだろ。処理だけして連絡待とうぜ」

・・・



武道が目が覚ますと白いカーテンに切り取られた見知らぬ天井だった。
病院だろうかと思いながらナースコールを押せば特に慌てた様子も無く看護師と医者がやってきた。

数日前に道端で気絶していた所を通報されて病院に運び込まれたらしい。
佐野がどうなったのか、タクヤはどうなったのか、武道には何一つ分からないままだったがとにかく此処は普通の病院で自分は数日意識不明だったらしい。

監禁されていた2週間の事も、東卍から逃げた日の事も何となくと覚えていた。
タクヤと会って、佐野に追いつかれて、どうやら自分を殺そうとしている奴がいるらしいと3人で逃げた。その後どうなったのかが思い出せない。

佐野やタクヤと連絡を取ろうにも連絡先など知らなかった。
入院費など払えないぞとまず金の心配をしたがもうもらっていると医者に伝えられて武道は疑問符を浮かべた。武道の知り合いが立て替えて行ったと医者は言ったが自分にそんな金持ちの知り合いはいない。

しばらくは検査入院をして問題無かったら退院できるらしい。
流されるがままにリハビリや検査をしているうちにだんだんとニュースで外の状況が分かってきた。

結論から言えば、東京卍會はほぼ壊滅の状態らしい。
武道が逃げ出した日、複数の場所で抗争があり、幹部のほとんどが行方をくらましたらしい。生きているのかも死んでいるのかも分からず、現在は下っ端だったと思われる構成員が自棄を起こして暴れたりしているのを警察が捕まえている状況だった。

そんなニュースを病室で聞いている時、二人の面会者がやってきた。

そのチャイナ服を着た胡散臭い謎の男とピンヒールを履いた美丈夫の二人組だった。
この二人が入院費を立て替えてくれたらしいが武道には全く見覚えの無い男たちだった。
そしてその二人は武道に謎の通帳を差し出した。そこにはとんでもない金額が入っていて、男は言葉少なく迷惑料だと告げた。
何となく、佐野からなのだろうと分かって武道は容赦なくその通帳を受け取った。こんなもんじゃ俺の人生を滅茶苦茶にした採算はとれねぇぞと思ったが、武道はもらえるものはもらう男だった。
よくこの通帳をネコババせずに自分に渡したな、とチャイナ男を見たがどうやらこのくらいの金額はこの男には大したものではないらしい。金持ち死ね、と口には出さなかったが顔に出ていたらしくピンヒ男は顔を顰めたがチャイナ男は笑っていた。

行方をくらました東卍の幹部がこんな所にいるぞ、と通報してやろうかとも思ったがそんなことをしても意味が無いことは分かっていた。
この通帳の中身をはした金と言える奴に武道は勝てる気がしない。

教えてはもらえないだろうと思っていたが、佐野とタクヤがどうなったのかを聞いたがやはり答えてはくれなかった。
どうやらこの二人も知らないらしい。

佐野はともかく、タクヤは上手く逃げてくれていたら良いと思う。

この二人組もこの面会が終われば二度と会うことは無い。
仕事とは言え自分の世話をしてくれたことだけはお礼を言って、武道はすんなりと別れを告げた

しばらく入院はいたが、細かい怪我の痕は恐らくだんだんと消えていくだろうと医者は言っていた。

一生消えないと思っていた項の傷も、消えていた。

こうして、運命に振り回されていた人生が終わるのだと何となく武道は理解した。

今までの全てを過去にしてしまおうと武道は今日、東京を出る。
中卒のキズモノオメガが他でどう生きていくのかなんて分からない。案外、外に出てしまえば何とかなるのかもしれないとやけくそ気味に楽観視もしている。
十数年ぶりに再会した両親はドラ息子を叱りこそすれ見放すことは無く泣いて再会を喜んだ。また家族と共に生きる道もある。
それでも、どうしてか外へと出てみたくなった。籠の鳥というポジションに飽きたのかもしれないと武道は思っていた。
今度はちゃんと両親とマメに連絡を取ると約束をして、荷物をまとめる。荷物らしい荷物もやっぱり無くて、部屋ごとまるまるゴミ箱の様だったその中身は業者に依頼して焼却してもらうことになった。結構な金額になったがしばらくはお金に困らない事が分かっていたので武道は思い切って捨ててしまった。
そんな理由で、武道は定住先を探すあてもない旅をしても良いだろうとバックパックに最低限の荷物を詰めて新宿駅で次の電車を待っていた。
新幹線のチケットも取らずに、在来線のどこか気になった駅でテキトーに降りてみようと考えて少しだけワクワクする。
こんなにスッキリした気分になるのはいつ振りだろうと、電車の接近メロディを聴きながら思う。

その瞬間、ドンッと誰かに背中を押された。

「え?」


 

 

 

 









『本日、都内新宿駅にて渋谷区在住の男性、花垣武道さん(26)が何者かに線路へ突き落される事件が起きました。花垣さんは病院に運び込まれましたが間もなく死亡が確認されました。警察によると、花垣さんは暴力団・東京卍會との関与があったようで、警察は先日の東京卍會幹部の連続不審死との関連を……』








 

 

 

 

 

 

 

花垣武道
佐野万次郎

稀咲鉄太
半間修二
山本タクヤ
三途春千夜

九井一・ 乾青宗 ・千堂敦
山岸一司・鈴木マコト・ハセガワ
喫茶店店主・三途の部下・東卍モブA
佐野万作・研究所職員・龍宮寺堅


花垣母・花垣父

橘日向



 

 

 

 

 

“死ぬ”と思った瞬間に思い出したのは親でも友達でも、元カノでも無く……。

「佐野、万次郎……?」




ドクン