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誰が為のオム・ファタール  中編

 


「……」

ゆっくりと瞼を上げ、ぼんやりと室内を見渡す。部屋には散々使った大きなベッド、サイドテーブルの上には未開封の水のペットボトルが置かれていた。外を確認できるような窓は無く、高い位置に採光用の嵌め殺しの物のみがついている。

コレは完全に監禁された感じだ、と唯一の外との繋がりであるドアを開けに行こうかと考えて身体を起こす。その瞬間にズキリと腰に鋭い痛みが奔った。

「い゛っ……たぁ…」

散々抱かれた身体が悲鳴を上げいてた。
いくらオメガが繁殖に特化した身体を持つと言えども筋線維は所詮普通の人間と同じものだと武道もよく理解している。今まで散々怠惰な生活をしていたため使われなかった筋肉が突然酷使されたのが原因だ。
それでも、散々穿たれた胎に痛みが無いのは流石オメガの身体だった。

仕方なくボフリと再びベットに戻ればフカフカのシーツに身体が沈む。 自宅の万年床のせんべい布団とは比べ物にならない心地好さだった。
昨夜は堪能する余裕が無かったがコレは良いものだと枕に懐くと昨夜の情事が思い出されて武道は憮然とした表情を作り直した。

何を布団ごときで絆されているのか。

佐野万次郎は武道を攫ってきてレイプ目的で監禁している男だ。ドロドロになった身体とシーツを世話してもらったくらいで何なのだ、と。監禁しているのだから世話などして当然だと武道は思いなおす。

手だけ伸ばしてサイドのペットボトルを取り、キャップを開けようとして力が入らない。

「……」

こういう気遣いができないのがダメなのだ。

「はぁ……」

溜息をついて大人しく身体をシーツに沈めることだけに集中する。余計な事を考えないようにする手段が今の武道にはそれしかなかった。
上辺だけの佐野への文句が尽きれば意識はやはり昨日聞かされた事へと引っ張られてしまう。
橘日向、稀咲鉄太、ドラケン、もうこの世にいないらしい面々の名前が頭の中でグルグルと回る。

どうしてこんなことになってしまったのか。何がいけなかったのか。
滲む涙を枕にしみ込ませて悪い妄想を振り払おうと別の事を考えようとして、思いつかずにまたグルグルと考えてしまう。

あの日、喧嘩に敗けて佐野に出会った事が悲劇の始まりだと思っていた。すべてを捨てて逃げて、バースの研究機関に頼り、底辺で生きてきた。イキったクソガキだった自分。敗けた自分が悪い。自分が弱い事に気付けなかったのがいけないのだと思って生きていた。

橘に好かれたのは人生最大の幸運だ。その思い出だけに縋って、中学生の頃のあの絶頂期だけを胸に生きてきた。ソレを壊した自分の浅はかさが悪い。

しかし、そうでは無かったのかもしれないと武道は考え直す。
致命的に悪い行動など無かったのだ、と。

橘に好かれたのがどのタイミングなのかは分からない。けれど、自分から何かをアピールしたりはしなかったハズだからどの道、橘とは付き合うことになっていたのだろう。その時点できっとこうなることは決まっていたのだ。

佐野が稀咲と繋がっており、稀咲が橘を好いていた時点で武道と佐野は出会うことが決まっている。

なるほど、運命の番とはこういう事なのか。

武道は自嘲する。昨日は聞き流していた佐野の言葉が真実味を帯びた。
稀咲が佐野を何故そうしようと思ったのかは分からない。けれど、佐野のために稀咲は佐野の周りの人間を殺した。そうして同じように、武道を選んだ橘も殺した。
関わる人間全てが死んでいくと言った佐野。関りを断ってすら橘を死なせてしまった武道。

似た者同士、確かにそうかもしれない。
呪われてでもいるのかと思う。

生まれたことがいけなかったのだ。
稀咲も佐野に狂わされた人間の一人で、橘も武道さえいなければきっと死なずに済んだ。

ファム・ファタール。

バイト先のレンタルビデオにそんな内容のものがあった事を思い出す。
自由に生きているだけで男を破滅させる魔性の女を題材にした作品だったはずだ。作品の中の彼女は無邪気で可愛らしく、それ故に周りが勝手に狂っていく。彼女の為を思って男たちがする行動は全て裏目に出て良くない未来へと繋がった。そんな中でも彼女の笑みだけは燦然と輝いていたことをよく覚えている。
ホラー映画の怪物の様に感じられたその女はオメガで、例え佐野に噛まれなかったとしても自分がそんなものになれるとは武道には思えなかった。所詮は空想の世界の事だと同じオメガでも冴えない自分と比べて嗤った記憶がある。

しかし、現実は小説よりも奇なり、とはこのことか。
オメガの自分よりも大きな災厄と化した番のアルファの方がよほど面白い。フェロモンなどという頭をおかしくする物質などなくとも人を狂わせてみせた佐野にはオメガの自分だって敵わないだろう。
死んでしまった人間には申し訳ないが自分よりも悲惨な事になっている佐野を思うと留飲が下がる。ブチ犯されて何もかもを失った事を恨んでいないワケがないのだ。

自分のせいで死んだ橘を思うと死にたい気分になる。
目を背けるには佐野を恨むしかないのだと言い訳をする様に考えて、武道は眠りについた。どうせ自分には何もできやしないのだと分かっていた。



・・・



「ん、ぐ……」
「あ、起きた?」

武道が再び眠りから目覚めると佐野がいた。

「おはよ。ごめんね、水飲めなかったんだ?」

ゴツゴツしているのにどこかしなやかな男の手が武道の頬を撫でた。
そのまま自由にさせていると佐野は目の前でペットボトルを開けて水を口に含む。くれるんじゃないのか、と不満に思って間もなく佐野の顔が武道に近付く。ぬるい水を口移されるのが不快で、それでも酷く喉が渇いていたから武道はソレを受け入れる。

「んぅ……うっ、けほっ…」
「気管入っちゃった?」
「ぐっ……ぁ」

うまく呑み込めなかった水にむせて咳き込めば佐野は背中をさする。妙に優しい態度を不審に思っていると佐野は武道の額にキスをした。

「……何ですか」
「俺の子を生んでくれるメスに優しくしちゃダメなの?」
「……」

昨夜は無理矢理レイプして、武道は自分の事は好きにならないなどと言っていた癖にどういう風の吹き回しだと睨めば佐野は機嫌良さそうに答える。

「あれだけ出したんだから絶対孕んだだろ?」
「まぁ受精はしてるかもしれないっスけど……」
「けど?」
「着床するまでは2週間近くかかるし母体が安定するまでは子どもになるか分かんねぇっスよ……」

バース研究機関にお世話になっていた時に勉強させられた内容だ。子どもが生まれるまでの仕組みは男オメガも普通の女の子と変わらないらしい。ソレでも、オメガの方が普通の女の子よりも着床率は高いらしいけれども。

「ふーん、詳しいね」
「アンタに初めて中出しされた後に病院で教えてもらいました」
「あぁ、あの時の子は下ろしたの?」
「アフターピルで着床しない様にしたんで……。ソレを流したとか下ろしたとは言わないと思いますけど」

せっかく機嫌の良い佐野の地雷を踏むような事をあえて武道は口にする。優しくされるのなど真っ平だった。
しかし、佐野の様子は変わらない。小さな子供が母親に甘えるように、もしくはお気に入りのテディベアでも抱えるかの様に、ベッドの上で武道に引っ付く様に横になった。

「そうなんだ? 別にいいよ。今思うとあの頃生んでもらっても育てられなかっただろうし」
「いえ、育てるなら育てるで支援が受けられるらしいです」

まぁソレはアフターピルが間に合わなかったりした時の話だけれども、と思いつつ武道はただただ佐野の神経を逆撫でしようと試みる。命知らずなことだと分かってはいるがいっそ殺されても良いとすら武道は思っていた。
番を失う痛み、喪失感は並みの物では無いと言う。多くの場合は酷いアルファに番を解消されたオメガの痛みの話であるが、オメガに先立たれたアルファも同じ痛みを感じるらしい。もし自分が死ぬことで一矢報いることができるならそれもまた一つの手段だと思う程に昨夜の話は武道の気を滅入らせるものだった。
そんな武道の思惑を気にすることなく、佐野は抵抗できない武道に甘える様に顔中にキスを落とす。気が向いた時に首筋を吸い鬱血痕を残すのがくすぐったくて腹が立つが未だに全身筋肉痛で動けないため武道は顔を顰めるしかない。

「へぇ、そんなのあるんだ。まぁ今の俺には関係ないけど」

そうでしょうともこの反社め、お前に受けられる公的援助などありはしないぞ。と、口にすることすらできずに武道は口を閉ざす。口を開ければ舌が侵入してくることが予測できたからだ。
いったい今日は何なんだ、と顔を舐めまわしてくる男を睨め付けるが効果はない。

「武道、べってしろ」
「……」

口を開け、舌を出すように指示されるもキスなどしたく無くて顔を背ける。流石に殴られるだろうかとチラリと佐野の方を確認すると何故か満足そうに口角を上げていた。ソレが気味悪くて顔を思いきり顰めた瞬間に顎を掴まれる。

「イッ……」

物凄く痛いというワケではないがそれなりにあった衝撃に声を漏らした瞬間に唇が重ねられ、ぬるりと舌が入り込んでくる。

「んぶっ……ぐぅ、んっ」

そういえば昨日はキスはされなかったな、と思うと同時に口内に侵入してきた異物感に吐き気を感じる。喉奥を舐める様に突きこまれた舌が口蓋をなぞってから舌に絡む。
上から唾液を流し込む様に貪られ、重力に従って喉にトロトロと液体が落ちるのを感じる。

「ふっ、ん……っあ」

苦しいのに昨夜の様な激しさが無いせいか身体が勝手に受け入れてしまう。浴びせかけられるフェロモンが頭をクラクラさせた。
動かすと痛くて仕方が無いのに舌先で上顎を擽られると腰が跳ねてしまう。息が出来ない酸欠のクラクラと濃いフェロモンによる酩酊で何度も意識が飛びそうになった。
それでもオメガの身体は快感を敏感に受け取り胎の中が熱くなる。絶対に妊活に良くない刺激だろとイラつきつつも別にこの男の子どもを孕みたいワケではないのだと思いなおす。

「ひぁっ、あぁ……んっ」

か細い悲鳴の様な喘ぎ声が甘い。とっくの昔に堕とされた身体が恨めしい。
体重が掛からない程度に組み伏せられ、逃げられない様に両頬を捕まえられたままひたすら口内を貪られるだけで何度胎の中で絶頂を迎えたのか分からない。もはや勃つことも無い性器からはダラダラと意味のない体液が溢れ出ている。
本当に意識が遠のく直前くらいで佐野は武道から唇を離した。

「ふっ、は…ぁ……」

だらしなく唇を開いて息をし、涙でとろとろになった焦点の合わない瞳を満足気に眺める。
艶やかな金髪を後ろに撫でつけ、興奮に開いた瞳孔で武道を見下ろす様はさながら肉食獣の様でその様を目にするだけで武道の胎がドクリと脈打った。

「ぁ……」

ゾクゾクと背筋に甘い悪寒が奔り、一度収まりかけた呼吸が再び荒くなる。
この雄に孕まされたいと本能が叫ぶ。昨夜散々抱かれたことなど忘れたかの様に子宮が精を求めていた。
このまままた抱かれるのだろうと武道が力が入らない身体をされるがままに投げ出すと佐野はニヤッといやらしく笑う。

「?」

ぼんやりとしつつもその表情を内心訝しむと佐野は武道の胸の辺りに性器を露出した。

「ちょっ……!」
「二週間くらいだっけ? その間、胎は揺らさないでおいてやるよ」
「ひっ……」

鍛えなくなって久しい柔らかく脂肪の乗った胸に熱い怒張が擦り付けられる。
オメガと言えど武道も男であり他人の男性器などあまり触れたいものではない。挿入されるのとは別の嫌悪感に悲鳴を上げるが佐野は容赦なく先走りを武道の胸から頬に擦り付ける。

「やっ、あぁっ……」

女の豊かな胸に挟むのとは違う、ただ汚して楽しむような風情のその行為は武道の羞恥を十分に煽るものであり、嫌悪感とともに被虐心の様なものを擽られる。虐められたい、辱められたいという欲求など今まで感じた事はないのに、圧倒的な雄に組み伏せられ凌辱されるとゾワゾワと性感を高められジワリと涙が滲んだ。

「ん、武道、おっぱいはちっちゃいけど柔らかくて良いじゃん」
「っ……!」

男の胸板であるハズなのにあえておっぱいと呼ばれると自分のソレがまるで男を悦ばすために存在している様で恥ずかしくなる。

「ハハッ、乳首もまだちっちゃくてカワイーな」
「あっ…ひぃんっ」

まだ主張の少ない朱鷺色の尖りをキュッとつねられると自分でもビックリするほど艶の乗った声が響き、武道は目を白黒させた。ビクリと腰が跳ね、自ら佐野の性器に胸を擦り付ける様な動きになりその熱さとヌルリとした生々しい感触が武道の胸を襲う。

「ヘェ、おっぱい弱いんだ? イイね」
「やっ、あっあぁ……っ!!」

新しい玩具でも見つけた様な佐野の態度に嫌な予感がするも、武道に逃げる力などは残ってはいない。
グニグニとつぶす様に乳首を揉み込まれ武道は悲鳴を上げる。

「やらぁっ……! ソレェっやらぁ……っ!!」
「ナカよりも反応良くね? ちょっと嫉妬すんだけど……」

乳首をつまんだ残りの指で胸肉を寄せるように集めれば若干の盛り上がりが出来、その間に怒張を擦り付ける。ピストンする様に腰を抽挿すると武道は己の胸をオナホールの様に使われている様に感じ悔しさに涙を流す。

「あっ、あんっ、ひんっ……んっ」

それでもその腰の一振りごとに頭の中で快感のスパークが起こり胎はジュクジュクと濡れてしまう。奴隷どころか物の様に扱われるなんて真っ平なのに番の性器が自分の身体に触れているだけでおかしくなりそうな程に武道を興奮させる。被虐の悦びなのか雌の本能なのかも判断のつかない、凌辱への身体の許容にどこか冷静な頭の片隅で絶望的な気分になる。

「ん、そろそろ出すわ。咥えて」
「ヒッ!? やっ、あっぐ、んっ…んぅぅうっ……!!」

不意に口に突きこまれたソレをされるがまま咥え込んだ次の瞬間に喉奥に熱い飛沫を浴びせられる。青臭い匂いが鼻の奥を擽り、単純な苦しさと舌の根元に感じる苦みに涙が零れる。
アルファの精液は通常の男の物よりも多いとは胎に注がれたために知っているが、口に出されるとまた感覚が違う。ゴクゴクと飲み込んでいかなければ溺れてむせてしまいそうな
量を注がれ、情けのつもりなのか単純に入りきらなかったのか唇に押し付けられた亀頭球で口を塞がれる。
キスの時と同じ位置に手を置かれているのに先ほどの甘さとは打って変わった凌辱に頭が混乱する。

「んぅうっ! ぐっ、んっ」
「あ゛ー……。お前、口もイイんだな?」

嫌だ嫌だと思っていたのに、武道は佐野の言葉に頬がカッと赤くなるのを感じた。無理矢理男のモノを咥えさせられて、更に喉奥に出されるなど気持ちいいハズが無い。
しかし、胸を使われた時と同じように、武道の身体は喉奥の熱い飛沫の感触を快感としてえていた。長々と喉奥へと射精されているこの間にも、武道の胎はキュウキュウと雄を求め絶頂を繰り返す。鎌首をもたげることこそ無いが男性器からはダラダラと精液が漏れ出ている。

何をされてもオメガの身体は快感として受けて止めてしまう。
そう理解すると快感と屈辱以外の涙が武道の頬を濡らした。

現状に追いつかない心を置いていくままならない身体。全てがちぐはぐで悲しくて、ボロボロと涙が零れる。
その様を佐野はまた満足そうに眺めた。

「ふっ……んぅ…」

佐野は武道に無視をされたり、憎いと睨まれたりするとその顔をする。ソレは武道も何となく気付いており、昨夜話していた事に起因する表情なのだと分かっていた。
ソレが憎らしく、しかし、顔の上に跨る彫刻の様な身体と興奮に汗を滴らせた顔を見るとオメガの本能がこの雄の子を孕みたいのだと叫び、欲情する。
コレが運命だからなのか、佐野そのものの持つ魅力なのか武道には判断がつかない。もしもコレが運命だからならば、こんな酷い事をされても欲情するのだからオメガという生き物は相当の馬鹿か淫乱に違い無い。

いっそこの男に堕ちて、何もかもを忘れて媚びてしまえばそれこそが報復になるのではないかと夢想して、武道は酸欠に意識を手放した。



・・・



そうして、奉仕されたり奉仕したりの日々が始まった。
佐野は気まぐれで、武道に優しく甘える日とボロボロになるまで酷使する日、時間は完全にランダムだった。そんな佐野の態度に武道の心は摩耗していくがソレでも佐野は宣言通り胎を揺さぶることはしなかった。

昔、佐野から逃げた先の研究機関で学んだいくつかの事が頭に過る。着床に必要な時間は受精後おおよそ12日前後。その間に別の雄のフェロモンに当てられると着床が阻害されることがある。ピルを飲めば済む事だがもしも病院にいけない、薬の無い状況で中出しされた場合応急処置としてそういう手が無いことも無い、程度の知識だ。
実際、そんな状況になったが武道はまだこの状況になってからアルファどころか佐野以外の人間にすら会っていないためその知識は全く役に立たない。

そんな状況で佐野に全てを握られているのに、武道は今の環境に適応し始めていた。
筋肉痛に悩まされたのは監禁二日目まで、どうにか逃げてみようかと出口を探して諦めたのはその日のうち、テレビもラジオも携帯電話もないので日付は分からないし、天窓はあるがまともな生活リズムは送っていないので時間も分からない。体感時間二週間ほど経った頃にはヒトとは案外日光が無くても生きられるものなんだと妙な感心を覚えた。
きっともう胎の中の細胞は命になる準備をしているのだろう。

これだけ一緒にいても佐野の事はよく分からなかった。犯罪組織のボスであるとは知っているため畏怖はある。しかし、子どもの様に甘えられたり甲斐甲斐しく世話を焼かれたりすると武道は佐野を拒めなかった。
ソレが良くない傾向だとは分かっていた。絆されているという自覚がある。監禁され、手酷く身体を性玩具の様に使われて、酷い扱いを受けている。そう理解しているのに、オメガの身体が番にされる全てを悦んだ。

健全なる精神は健全なる肉体に宿る、と言うけれどもこんな淫乱な身体には淫乱な精神しか宿らないのだろうと武道は諦めた。同時に、その有名な一節は実は元ネタの詩では意味が変わる続きがあるのだとバイト先の年下店長に馬鹿にされたことを思い出して武道は穏やかな気持ちになる。
中卒の馬鹿なオメガが考える事になど大した意味はない。下手な考え休むに似たり。自分が馬鹿であると自覚した先に穏やかさを得られるのは自分より出来の良い人間がいるからだな、と武道はまた無意識に過去に縋った。

そんな思考遊びをしていてもしなくても武道がこの部屋から出られることは無いし、縋れるものは過去と佐野だけだった。

部屋の中には何もない。
ベッドとサイドシェルフ。高い天窓、けして狭くはない部屋、開かないドアが一つ。開くドアはシャワーとトイレ。

今日も今日とて意味も無く回らない事を知っているドアノブを捻る。

「え?」

カチャリと軽い音を立ててドアノブが回る。
早鐘の様に打つ鼓動を聞きながら、ゆっくりと手前に引けばそれなりの重さを伴ってドアが動く。驚くほどあっさりと部屋の外への道が開いた。

「えー?」

ドアを開けた途端ズドン! なんて事はないだろうなと警戒しつつも顔を出してみる。そこは廊下ではなくまた部屋だった。寝室と同じく窓の無い殺風景な部屋。ベッドとシェルフの代わりに冷蔵庫と流し台、電子レンジだけがある。
次のドアが何処に続くのか気になりつつもこの部屋に何があるのかも気になって、武道はとりあえず冷蔵庫を開けた。

「うーん?」

冷蔵庫には大量のミネラルウォーター。全て500ミリリットルの未開封のペットボトルのみ。何故か銘柄はバラバラ。冷凍庫には市販と分かる冷凍食品がこちらもたくさん。武道がこの二週間食べてきたものだ。
あの佐野万次郎に手料理など期待すべきではないし今時の冷凍食品は実際美味しい。

別に今、喉は乾いていないし腹も減ってはいないと冷蔵庫を閉じる。電子レンジには何も入っていないし、流し台には生ゴミすらない。

もう一度部屋を見回して気付く。
ドアにシリンダー式のカギ穴が無い。簡単な錠前も無ければつっかえ棒が置けるようなとっかかりも無い。
しかし、この二週間ドアが開くことは無かった。武道が非力だった、ドアの開け方が違った、などという事はないハズだった。ならば何故、目の前のドアに鍵が付いていない様に見えるのか。数秒考えて、もしかしたらこのドアは別の部屋などにある電気システムで施錠されているのではないかと思い至る。
自分はいったいどこに監禁されているのだと疑問に思いつつも、もしもこの予想があっているのならどうしてドアが開いたのかに思考が移る。

電気系統の異常、何かの罠、武道に思いつくのはそんなものだった。
前者なら逃げるのにまたとないチャンスであるし、後者なら逃げた後今よりも酷い状況に置かれるだろう。

ゴクリ、と生唾を飲み込んで深呼吸をする。
行くも戻るも地獄に違いないという確信が武道にはあった。罠でもいい。昨日までの行き止まりの地獄も胎にいるのであろう子ども抱えて逃げ隠れするこれからの地獄も大して何かが変わるようには思えなかった。それなら進んでみようと武道は次のドアへ手を伸ばす。

とても不思議な心地だった。
きっと、再び佐野に会う前の武道だったら今以上の地獄を見ることになる可能性に怯えて立ち止まったままだっただろう。逃げるばかりの人生だった。その結果がコレで、最悪なんて言葉で表せないくらい最悪の事態だ。
いつでもどん底の気分だった。しかし、喉元過ぎれば何とやら。一度墜ちてしまえば底は無く、いつでも見上げた先は過去だった。輝かしい星空に手を伸ばしても、所詮は星は星。手が届かないから星なのだと自嘲する日々。
その星が永遠に手に届かない場所へと消えてしまって、泥沼の底でのたうつ自分だけが未だ存在している。

そんな事ってある?

と嗤いながら吐き捨てる。本当ならこんな汚泥の様な自分ではなく星である彼女が生き残るべきだった。
関わるべきではなかった。コレが届かぬハズの星の手を取った天罰ならば神とは意地の悪い生物なのだろう。
いっそ生まれてこなければ良かったのだと、過去形の懺悔ばかりが心を締める。

暫く、前に進むことをしていなかった気がする、と武道は嗤った。




続。