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悪霊の棲む身体、前編

 
クスクス、クスクス。
 
放課後の校舎に笑い声が響く。
 
―――ねぇ、あの噂知ってる?
―――どの噂?
―――渋谷の小学校の、
―――六年生
―――男の子? 女の子かも?
―――どっちだっけ?
―――どっちでもいいよ。
―――それでね、その子、
 
 
―――呪われてるんだって。
 
 
 
他愛ない無邪気な噂話だった。こっくりさんや夜に出歩く二宮金次郎のような怪談話。
しかし、その噂の的である少年、花垣武道にとってはたまったもんではなかった。
 
「うがー! どいつもこいつも人の事呪われてるだの何だの勝手なこと言いやがってぇ!!」
 
せっかく来年には中学に上がるというのに、このままでは不良として中学デビューする処か周りから一歩引かれたヤバい奴になってしまう、と武道は地団駄を踏む。弱きを助け強きを挫く不良(ヒーロー)に憧れ、公園を駆けずり回り、膝小僧は常に擦り傷か絆創膏かカサブタで飾られている。
呪い、などという陰鬱な響きの似合わない元気な少年であった。
 
そんな武道が呪われてるなどと言われ始めたのは夏頃であった。
武道自身に何かが起きたワケでも、何かをしたワケでもなかった。そも、武道はオバケが苦手な可愛らしい小学生であり、心霊スポットや墓場に肝試しに行く様な罰当たりな事はしない健康優良児である。
 
しかし、ある日、突然、そんな武道の周りで不審な事が起こり始めた。
 
曰く、黒い影が見えた。
曰く、どこからかジットリとした視線を感じる。
曰く、長く話すと寒気がする。
 
そんな事を言われ始めた頃はイジメかと思った。自分がそんなものの対象になるなど考えたことも無かったが、なってしまったのなら仕方が無い。主犯を見つけ出してやる、と殊更明るく振る舞った。
しかし、主犯は見つからなかった。いなかったのかもしれない。
 
そうして、暫くすると幼馴染みのタクヤ以外は武道に寄り付かなくなってしまった。呪いが移ったら嫌だから、とやんわりと周囲から避けられる。
積極的に危害を加えられる事はなく、ただただ呪われた子だという噂だけが広まっていった。
 
「ていうかさ、呪いとかマジ失礼じゃね? 俺オバケ苦手なのに呪われる様なことするワケねぇじゃん」
「まぁ武道のそういうとこ知ってんのなんて俺だけだし仕方なくね?」
「くそーーーーッ!!」
 
最近はこの幼馴染と家族とぐらいしか話した記憶が無い避けられっぷりだ。
登下校は変わらず幼馴染であるタクヤとしているし、家に帰れば以前とほとんど変わらない日常がある。しかし、全ての休み時間でクラスの違うタクヤと一緒にいるワケにはいかないし、体育などクラスメイトとわちゃわちゃする様な授業でも遠巻きにされている。
元々は友達の多いタイプであったためにそのギャップは大きく、こうして強がってはいるもののかなり淋しい思いをしていた。それでも元気なフリをできているのはこの幼馴染が強い意志を持って傍にいてくれているためだった。武道が強がって断らなければ全ての休み時間を一緒に過ごす事になっていただろうと予想がつく。
こうして一緒に下校する時間が一番自然で心安らぐ時間だと武道は感じていた。
 
「タクヤはさ、俺の周りになんか変なの見たりしねぇの?」
「うーん、俺は霊感とか無いしなぁ」
「だよなぁ、俺も無い!」
 
怖いから無くていい、と言い切る武道をタクヤはのほほんとした様子で眺めた。
 
「お前といて怖い目にあったことなんてほとんどないよ」
「……ほとんどって何だよ」
「急に中学生っぽい奴に突っ込んでったりとか? 川に飛び込んだりとか? 仔猫とか、何か守るためとは言えお前死んじゃうんじゃないかって思った」
「ソレはごめん。でもいつも大人呼んで来たりしてくれてありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
 
こうして幼馴染との関係だけはしっかりと続いているのなら迷惑な噂話なんて気にしないでもいいんじゃないか、と思う。しばらくするとまた寂しくなったりもするが今の所はこの繰り返しで武道の精神は安定していた。
 
「じゃあなー、また明日!」
「うん、また明日ね」
 
タクヤの家まで一緒に帰り、一人になるとやっぱり少し寂しい気持ちになって武道は帰路を急いだ。昔から、タクヤと一緒に帰った後は一人であるのだから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
 
自分は呪われてなんていない。
家族も恐ろしい目になどはあっていないし、幼馴染だって元気だ。
 
「……」
 
ランドセルを握りしめ、テクテクと歩く。
夕日に照らされて、影の伸びる足元を見ながら武道はテクテクと歩く。足音は一つだ。当然だ。此処には武道一人しかいないのだから。
 
 
呪いが感染して人に移るなど勝手な事を言わないでほしいと、武道は長い長い影の足元だけを見ながら思う。長く伸びた影は一人分だ。西日を背に、前へ前へと伸びる。勝手に動いたりなどしないし武道から離れたりなどしない影だ。
 
じっとりとした視線も寒気も勝手に感じないでほしい。
それは本来すべて武道だけのものなのだから、と少しだけ視線を上げて影の顔を見た。
 
武道の影だ。
 
ただ、そこにいるとだけハッキリと感じ取れるナニカ。
ソレが何なのかは分からない。病気になることも、肩が重くなることも無い。実害らしい実害はない。ただ、そこにいる。
 
害は無いのだから気付かずに放っておいてくれよ、と武道は噂話好きの誰かへ思う。
ナニカがいた所で変わらないだろう。いるだけなのだから、と武道はつまらなく思う。
 
最初はとても怖かった。
本当に呪われたのだと思ったし、オバケに憑りつかれたのだと思った。しかし、武道の不安に反して一カ月経っても2カ月経ってもソレは何かをすることは無かった。それだけ経ってしまえば、ソレが傍にいる事は簡単に武道の日常になってしまった。
何かを感じ取った周りの人間の方が余程鬱陶しい。
 
「……」
 
一つだけ不安があるとすれば、影がだんだんと濃くなっている事だろう。自分の影も、人の影も、マジマジと見つめることなどほとんどないために確信は持てないが、何となく武道はソレが大きくなっていくのを感じていた。
家族にも友達にも危害が及ばないのならソレでいいのではないか、と武道はぼんやりと考える。
影は武道から離れる事は無いし、お祓いだってお守りだって気休めにしかならなかった。ソレは武道の影の中でジッとしているだけだ。
 
突然出て来て、急に食べられてしまうのではないか、殺されるのではないか、そんな事を考えてみて、不思議と何だか違う気がした。
ソレが何を求めているのかは分からない。
 
ただ、確かにソレはそこにいた。
 
夕日に照らされ、黒々と伸びる武道の影。
その場所を誰かに指摘されることはなかったため、ソレがそこにいるのだと知っているのは武道だけだった。お祓いに行った神社の神主だってそこにいるとは言わなかった。それなのにどうして自分がソレの所在を感じることが出来たのかは分からない。
ただ何となく、そこにいるんだなぁ、と分かってしまった。特にこうして影が濃く、大きくなる夕日の射す時間に武道は特にソレの存在を感じる事ができた。
 
「……」
 
影に手を振ってみると影もまた自分に手を振る。
コミュニケーションとは言えないけれども、諦めなければいつかソレが何なのか分かる日が来るのだろうか、と武道は少しだけ期待をして帰路につく。
 
 
・・・
 
 
夜、自分の部屋の電気を全て消して、布団に包まる。
 
影が消えて、闇と混ざる。
その時、最初の頃は存在が希薄になっていたけれど、最近はむしろそこに確かにいるのだと感じる様になった。ソレの存在が濃くなったのだろうと武道は何となく思っていた。
 
神社のお祓いや持ち歩いているお守りも意味は無く、学校での疎外感はまだインチキ霊能者に大金を払う程でもない。
そこにいて、だんだんとただ大きくなっていく謎の存在を本気で何とかする気になれないのはソレが何となく武道に好意的であると感じているからだった。
 
闇の中で感じるソレはどこか暖かい様な気がする。ソレが武道に憑いたのは夏ごろで、人肌程度の温度は不快であっても仕方が無いハズなのにそうは思わなかった。寒気がするなんてとんでもない、と武道は思う。冬になったら、もしかしたら暖房がいらないかもしれない、と謎の期待感すらあった。
 
暖かく、まるで撫でられている様な不思議な感覚だった。
触れられてなどいないハズなのに柔らかい意志の様なものを感じる。コレが綺麗なお姉さんだったらいいのになぁ、と思春期らしいことも考えるが何となくコレは背の高い男性なんだろうと夕方に影を見ながら思った。
とうとうソレの性別すら分かる様になってしまった。と、少しだけ不安な気持ちになる。
 
悪くは無い感情を抱いているソレが、いったい何なのかはまだ分かっていない。正体を知ってしまった後にこのままでいられるのかも分からない。
分かっているのは、この闇が何故か武道に好意的で着かず離れず傍にいるという事。そして、武道も何となくこのオバケが嫌いでは無いという事だけだった。
 
もしも、正体を知ってしまっても好きでいられるか、それだけが心配だった。
 
 
・・・
 
 
結局、呪われているという噂は払拭できないままに半年が経ち、武道は中学生になった。
周囲からの腫物扱いにも慣れ、とことん好きに生きようと思った武道はまず初日に改造制服で登校した。髪もバッチリリーゼントにキメれば霊感少年だという噂よりも見た目のインパクトでとんでもない不良だという噂の方が勝つだろうという目論見だった。
それは確かに功を奏し、武道は色んな意味でひそひそと遠巻きにされた。幼馴染はその恰好を見て爆笑して過呼吸になりかけた。そして武道の現状を知っている母親はもう好きにしなさいとばかりにまるでソレが当然とばかりのしれっとした顔で保護者席に座っていた。
色んな意味で周りの視線を独り占めしていた武道であったが、もう一人、周囲から視線を集める者がいた。赤毛のリーゼントの少年だった。
武道のアップフロントのソレとは違うダウンフロントのソレは同じリーゼントというくくりでも武道の数倍お洒落かつイマドキの不良らしいものだった。そんな姿に当然武道は目を輝かせて突っかかって行った。
 
「おいお前! 何だその髪めっちゃカッケェな!! やんのかゴルァ!」
「あ゛ぁ!? 褒めんのかガン飛ばすのかどっちかにしろや!」
 
飛びつく勢いの武道の顔面に綺麗に一発入れたその少年に武道はふっ飛ばされつつもキラキラした目を向ける。綺麗に入った割にダメージは少なそうで、すぐに立ち上がって武道は駆け寄った。
 
「お前めっちゃ強いじゃん!! お洒落だし強ぇし最強だな!!!」
「お前も……いや、お前はなんか微妙にダセェな」
「酷い!!」
 
精いっぱいナメられない様にしてきたつもりだったのに! と少年の周りでキャンキャンわめく姿は小型犬の様で赤毛の少年は少し鬱陶しそうにしつつも相手をする。何となく憎めない雰囲気があった。
そんな二人の後ろで保護者の母親たちは仲良さそうに連絡先を交換したりなどしていた。大ごとにはならない雰囲気を感じ取ったのだろう。
 
「オレ、花垣武道! 同じ新入生だろ!? お前は!?」
「……千堂敦」
「へー! じゃあアッくんだな!!」
「いきなり慣れ慣れしいなこのチンピラ」
「へへっ」
 
微妙に嫌な顔をする千堂に武道はめげずに笑いかける。名前を聞いて何も言われなかったのが少し嬉しかったりもした。
呪われた少年として、武道の名前は渋谷の小学生や教員の間でも囁かれていたし見た目の情報も出回ってしまっていた。去年の夏から何度か度胸試しだと全く知らない者から呼び出しをされ、見知らぬ誰かから物理的に後ろ指をさされた事数回。中学デビューと共に自分の妙な噂を知らない者と友達になりたいという気持ちが武道にはあった。
それが自分と同じ不良であれば最高だ、と。
 
そんな目論見の武道と妙なのに懐かれたと思いつつも褒められて嫌な気はしない千堂が話しているとズンズンと近付いてくる影があった。
 
「お前らか入学初日から飛ばしてる馬鹿どもは!」
 
急に怒鳴り付けられ、二人は少しだけ驚くもギッと睨み返した。生活指導の教師らしいその男は体格も良くジャージを着ている事から恐らく体育教師なのだろうなと二人は思う。武道の不良スタイルに負けず劣らずのコッテコテスタイルだった。
 
「お前等何組の阿呆だ」
「1A花垣武道」
 
顎を上げて臆さずギンッと睨みつける武道に千堂はギョッとする。反抗するにしてももうちょっと上手いやり方があるだろう、と。いきなりぶん殴られても知らねぇぞ、とひやひやした気持ちで教師を見れば何故かその名前に目を見張っていた。
有名なのかコイツ、と自分よりも少し身長の低いアップフロントを見る。
 
「ほー? お前が例の……」
「だから何? センセーが何とかしてくれんの? オレがつまんねぇ噂自分で払拭すんの邪魔するつもりかよ」
 
あくまでも反抗的な態度を崩さない武道を教師は面白いものでも見る様に眺める。どこか見下した様な視線だった。
 
「校則は校則だ。その制服と髪、直して生徒指導室に明日の朝来い。反省文の原稿用紙はその時渡してやる」
「……」
 
踵を返して教師は二人から離れる。
そのやり取りの真意が分からずに千堂は居心地の悪い思いをした。
 
「お前、何か小学校の時にしでかしたのか?」
「なーんもしてねぇのに突っかかってくるヤツばっかだからいっそ何かしてやろって思って!」
「ふぅん?」
 
変な奴だけど悪い奴ではないと思ったが、もしかして認識を改めるべきかと考え、気付く。自分は名前を聞かれなかった、と。
唇を尖らせて拗ねた様な顔をするコイツはまさか自分を庇うために率先して自分が前に出たのかと瞠目する。
 
そんな千堂の表情に気付いてか気付かないでか武道はヘラリと笑って宣った。
 
「そんな事よりその髪めっちゃカッケェからさ! ブリーチ?の仕方教えてよ!!」
「……おー」
 
翌朝もちろん指導室にはいかなかったし、千堂は隣のクラスから怒号が飛ぶのを聞いたし、中学時代中に黒染めする武道をついぞ見ることは無かった。
 
 
 
・・・
 
そんな風な出会いを果たし、武道は幼馴染のタクヤ、親友の千堂、そして何となく仲良くなったマコトと山岸の5人でフワッとした不良グループを形成していた。
山岸が加入した時に呪いの噂の暴露をされたのは業腹だったが、千堂もマコトも大して気にしてなさそうだったので腹パン一発で武道はチャラにした。
 
たまに知らない人間から後ろ指を指されたりクスクス笑われたりもしたが、小学生の頃と比べれば楽しい青春を謳歌していた。
 
そんなある日の事だった。
他の4人と予定が合わずに珍しく武道一人で外にいた。
 
最近は5人揃っているか、いなくても3人組くらいの人数で行動しているおかげで変な奴に絡まれることもほとんどなくなっていた。絡まれたとしても不良として喧嘩で片を付けるという流れが出来ていた。
 
偶然なのか、一人の所を狙ったのか、路地に引きずり込まれる。驚いているうちに地面へと引き倒されあっさりとマウントを取られた。
 
「へー? コイツが例の?」
「案外フツーじゃん」
「呪われてるってんだからもっと暗い奴かと思ってたわー」
 
武道よりも大柄な、高校生ぐらいであろう男たちが武道を見下ろす。
 
「誰だテメェら」
 
ギッと睨みつけるも男たちはニヤニヤと見下ろすだけで答えない。どこかのチームに入っているとか、どこかの学校の生徒であるとかそういう所属にこだわりが無い奴等らしい。名を上げたいとか、ナメられたくないとか、そういった不良ではない、武道とは違う人種だ。
それを何となく察しつつ、武道は考える。
 
この状況をどうすれば脱することができるのか。
恐らく相手に正々堂々という意識は期待できない。救援を呼ぼうにも複数人で手足を押さえつけられているため上げられるのは声くらいだった。声を上げた所で助けてくれる奇特な奴もいないだろう。絶体絶命という言葉が頭を過った。
自分だけで何とかできる相手でも無ければ、救援も期待できない。一通りボコられて、死なずに帰れれば御の字というものだろう。
 
反抗すれば恐らく相手の好意は激化するだろうと予想はつく。
マウントを取り、殴りながら何やら罵倒の言葉を投げかけてくる男たちに武道は思いのまま嬲られるしかない。骨が折れた様な感触は無いが、殴られれば痛いし手足の押さえつけられた部分は恐らく鬱血しているだろうと予想が出来た。
こんな卑怯な奴等に、という悔しい思いと同時に、こうはなりたくないという軽蔑の気持ちが湧き上がる。自分よりも年下を複数人で嬲るなど武道からしたらあり得なかった。
そんな気持ちが表情に出ていたのだろうか、男たちは不愉快そうに武道を嬲る手を強くした。
 
「何だテメェ、その目はよぉ」
「まだ反抗する気があんのかよ」
「ちょっと遊んでやって終わろうかと思ったけど、ちょっとコイツ痛い目見た方が良くね?」
「あ? アレやんの?」
 
不穏な会話が武道の上から降ってくる。
何をしでかすつもりなのかと戦々恐々としていると男が武道の服の中に手を入れた。
 
「は?」
 
殴られても呻き声も上げなかった武道が思わず声を上げた。
男たちの意図が分からなかった。辱めとして服を脱がすならともかくとして、身体の方をまさぐられるなど考えたこともない。
しかし、男たちの下卑た笑いを見て武道は気付く。服を脱がす以上の辱めを自分に与えようとしているのだと。
今まで呪われていると後ろ指を指され、無駄に他人に絡まれる事だってたくさんあった。しかし、ソレを理由に恨まれたり過剰に嬲ろうとしてきた者はいなかった。
目の前の男達だって面白半分に武道にちょっかいを掛けて来た様子で、武道も相手のことなど何も知らなかった。
 
ソレが何故、そんな気色の悪い事をしようとするのか。
流石にコレはマズいとどうにかして逃げなければいけないと暴れようとするが男たちの手はびくともしなかった。
自分がもっと強ければ、一人で外になど出なければ、と後悔の念の様なものが湧き上がる。話にしか聞いたことの無い行為をされようとしている恐怖に体温が急激に下がっていくのを感じた。
 
そんな時、急に胸の辺りからパチンッという静電気が弾けるような音がした。
 
「うぉっ!?」
「あ? どうした?」
 
見れば、以前もらって首から下げていたお守りが落ちていた。
 
「あ……」
 
別に大切なものだと思っていたワケでも無いし、本当に効果があるものだとも思ってはいなかった。ただ何となく気休めに首から下げる習慣は出来ていた。
そんなものを持っていても影は武道の中にいたし、知らない奴が影を見たのだと騒ぎたてるのも止まなかった。
ソレが今更なんなのか、と瞠目する。まさか不良相手の喧嘩に何か効果があるとは思えない。本当にただの静電気かもしれないと考え直した瞬間、またパチンッと音がした。
 
「なんだ?」
 
今度はお守りとは関係の無い方向からの音だった。ソレが何の音なのかは分からない。ただ、二回目の音を皮切りにその音は断続的に鳴り響く。男たちは気味が悪そうに周りを見回した。
 
パチン、パチン、とソレは威嚇なのかただ音が鳴っているだけのかも分からない音を鳴らす。
 
「テメェが何かしてんのか?」
「は?」
「答えろ! 呪われ野郎!!」
 
武道を組み敷いていた男が青筋を立てて怒鳴り付けた。
怖いのだろうか、少し顔色が悪く見えた。妙な音がしたくらいでそんなにも取り乱すのなら初めから自分に絡まなければいいのに、と武道は思うが言葉にはしなかった。
 
「知らない。俺は呪いに何かされたことないもん」
 
いつもそうだった。
闇に睨まれた、悪寒がする、そんなことを周りが勝手に言うだけで武道自身はソレに何かされた事など一度も無かった。
 
「このっ……う゛ぁっ」
 
素直に答えたにも関わらず男はその返答が気に入らなかったのか武道の顔を殴ろうとした。その瞬間、またパチンッと音がして男が仰け反った。
 
「ガ、ぁ……ッ」
 
その喉が奇妙にへこんでいた。武道及び周りの全員がソレが何なのか分かった。
ヒトの手だった。
指の痕が付く様に、ギュっと握り潰される様にソレは男の首をへし折ろうとしていた。
 
「待って! ダメ!!」
 
咄嗟に声を上げたのは武道だった。
他の誰もが男が縊り殺されるのをただ眺めているしかなかった中、武道はソレに声を掛けた。
 
「助けてくれてありがとう……。でも、人を殺すのはダメだよ」
 
男の首の手の痕に添わせる様に武道も触れようとする。その瞬間に、パッと男の身体が跳ね、地面に転がった。
 
「ヒッ」
 
首に残る赤黒い痕に男たちは小さく悲鳴を上げた。そして武道は転がった男には触れずに後ろを振り返った。
 
「ねぇ、コレ以上マズイ事になる前にこの人連れて逃げてよ。俺、これを制御できるワケじゃないんだから」
 
そう言えば男たちは悲鳴を上げて逃げて行った。気絶した男を背負ったのは一人で、複数人いたのに最低限の根性があるのは一人だけかと武道は顔を顰めた。徒党を組んで一人を嬲る程度の奴らに求め過ぎかとも思うが、仲間の回収すらまともにできるのが一人なのはどうかと思う。
 
「ねぇ、お前は何なの……?」
 
ポツリと虚空に消えた言葉に応えは無かった。
 
 
・・・
 
その夜。
怪奇現象のお陰か大した怪我も無く帰宅した武道は沁みる擦り傷に半泣きになりつつもシャワーを浴びて寝間着を着た。
いつもよりも気配の濃いソレを少しだけ恐ろしく思いつつも武道は布団を被る。
 
途端に、ズン、と重みの様なものを感じる。
呼吸は滞りなくできるのに身体が動かない。いつもはそんなことは無いのに、今日は様子が違う様だった。
 
コレは怒っているのかなぁ、と武道は申し訳なく思う。
いつもは優しく頭を撫でてくれるのに、今日はそれが無い。暖かい闇に包まれているのは同じなのに、自分に憑いているものの感情に怒気のようなものを感じた。
自分に怒られても困るんだけど、と言ってやりたいのに声が出ない。そもそもソレが武道の声を聞いているのかも分からない。憑かれて1年経つか経たないくらいであるがコミュニケーションが取れたことは無かった。
 
好意があるのだろう、と武道は勝手に思っていた。
自分に触れ、自分に近付く者を威嚇し、害する物を駆除した。これが好意が根源でなかったらなんなのかと思う。もしかしたら、太らせてから食べるとかそういった何かかもしれないが、ソレはソレだ。
 
いつもは輪郭のぼんやりした闇であったが、今日は何だかしっかりと形が感じられる。
首筋から頬を撫でる指先の感触がやけにリアルで、自分は今大人の男の人に触られているのだとより強く実感する。あまり柔らかくは無い乾いた指先が肌を撫でるのを武道はただ受け入れるしかなかった。
いつもなら優しく、父か兄の様に撫でてくれるのに今日の感触は親愛のこもったソレではない。それが少しだけ悲しく、恐ろしいのに、路地裏で男たちに服の下をまさぐられた時の様な嫌悪感が無いのが少し不思議だった。
 
恋愛感情がレイプの免罪符になるとは武道も思ってはいない。
しかし、好意があり、ソレが自分を助けたのだと思うと何となく悪い気はしないと思ってしまう。自分でもちょっとチョロいのではないかと思うが悪い意味ではなく脈打つ鼓動は自分では止められなかった。
 
もうどうとでもなれ、と覚悟を決めて受け入れるのだと自分に言い聞かせる様に念じた。
どうせ自分は動けないのだし、ナニカはきっと今夜は一つ先に進んだ行為をするのだろうと分かっている。
もしかしたら本気で嫌がったらやめてくれるのかもしれないが、そこまで全力で拒絶をする気にもなれなかった。
 
「っ!」
 
首筋をなぞられる度にゾワゾワと背筋が変な感じになる。胸の奥なのか腹の奥なのか分からない場所がギュッとなるような気配がして、頭が働かない。きっとコレが気持ち悦いという事なのだろうとぼんやりと思う。
いまだ精通が来ていない自身を少しだけ情けなく思ったりもするが、ソレよりもしたい事も気になる事も多いのだと気にしていないフリをしていた。自分で身体を触れば何となく気持ちが良いのかもしれない、と思うけれども確信には至らず、何だか腹の奥の方が気持ち悪くなってきていつも射精する前に途中で終わっていた。
しかし、その腹の気持ち悪さが、今日に限っては何だかこそばゆい様な主張をしていた。
体温が上がって、頬が上気するのを感じる。
まだ少し撫でられただけなのにこんなになってしまって、これから自分はどうなってしまうのだろうという期待があった。
 
「んっ♡」
 
いつの間にか声が出る様になっていた。
拘束を解かれても武道は逃げようとはしない。その事をソレが気付いたのかもしれなかった。
頬を撫でていた手が唇に触れる。皮膚と粘膜の狭間の薄い箇所をザラリと撫でられ、両頬が包み込まれた。
 
食べられる、と思った。
今までは感じなかった息遣いの様なものを感じる。すぐそこに、ソレがいる。
こちらから触れようとしても触れられないのに、向こうばかりが武道に触れるのを少しだけズルいと思う。代わりに布団を抱き締めてソレの代わりにする。
 
「ぁ……♡」
 
薄く開いた唇にヌルリと湿った様な感触がした。唇ごと食べてしまう様に、大きく口を開けたソレが武道の口を貪る。口の中へと侵入した舌の様なものが喉奥まで蹂躙する様にズルズルと口内を撫でまわした。
上顎が、舌が、喉が、その感触を享受する。首筋に触れられていた時以上のゾワゾワが背筋を奔り、腹の奥で何かが弾ける。
 
ファーストキスだというのに、こんな背徳的で淫靡な快楽を教え込まれてしまってこれからどうしたらいいのかと不安になる。
自分はもうこのナニカに貪られる快感を忘れられないのだろうと理解してしまった。
 
「っ♡ っ♡ っ♡」
 
ジュルジュルと舌を吸われる度に腰が跳ねる。唾液を啜られているのだと布団に縋りつきながら気付く。喉奥を舐められ、えずきそうになりながらもキスなのか捕食行為なのかも分からないままに柔い粘膜を差し出した。
 
キモチイイ、キモチイイ。
 
それしか分からない。何度も腹の奥で何かが弾けた。
コレはいやらしい行為なのだと何となく理解はしていて、ヒトではないナニカとえっちな事をしているのだという背徳感が頭の片隅で燻っていた。
 
「ふっ♡ は、ぁ゛……♡♡♡」
 
ズルリと武道の口内からソレが出て行き、やっと呼吸が楽になる。
ドロリと濁った思考は元に戻らないまま、胸が呼吸に合わせて上下した。
 
「あ……? あ、あ゛あ゛ぁ゛ぁッ♡♡♡♡」
 
終わったのかと思った瞬間、急激な快感が下半身を襲い武道は悲鳴を上げた。
服を脱いではいないのに直接、武道のモノが熱い粘膜に覆われ吸い上げられる。その瞬間、武道は精通を迎えた。初めての事へ戸惑う前に、ソレが当然なのだと言わんばかりに吐き出された精液を啜られる。
 
「あ゛♡ 待゛っで♡♡♡ あっ♡♡♡ あぁ゛ッ♡♡♡♡♡♡」
 
他の部屋の親に聞かれるということすら考えられずに、悲鳴染みた喘ぎ声が室内に響く。こんな声を上げたら母親が血相を変えて入ってくるであろうに、そんな事にもならずに武道はシーツに縋りつく事しかできなかった。
逃げようにも服を着ているその中に食らいつかれてはどうしたらいいのか分からないし、電気を付けてもきっと今日の影は消えないのだと分かっていた。
 
先ほどまで武道の口内を貪っていた大きな口の様なものが、今度は武道の性器を嘗めまわす様にしゃぶっている。舌の様なものが竿に巻き付いて扱き上げ、その動きに合わせて腰が跳ねてビュッと白濁を吐き出す感触があった。
酷い水音を立てて、武道のけして大きくはない性器が嬲られる。半剥けの皮の中に舌先を突っ込まれて敏感な粘膜を舐め上げられては悲鳴を上げた。
 
唾液の時と同じく、影は武道の体液を啜っているのだろう。ソレが何になるのかは武道には分からないが、飲みたいのなら飲めばいいと思う。
超常的に酷い目に遭っている自覚はありつつも、影に貪られ、求められるのは悪い気分ではなかった。
快楽を感じる以外の事が出来ずに、まともな思考が動いていないという理由もあっただろう。
 
親に心配をかける様な事さえなければ、ナニカにこのまま貪られて、頭がおかしくなってしまったって良いとすら思っていた。それほどまでに快楽に頭が支配され、影の事を愛しく思ってしまっていた。
 
「あ♡ あぁ♡♡♡ しゅき♡♡♡ らいしゅき♡♡♡♡♡♡」
 
呂律も回っていない愛の言葉が虚空に響く。酷く甘いソレをナニカが聞いているのか、理解しているのかも武道には分からない。言葉にすればするほど気持ち悦く、考える脳みそが麻痺していく様だった。

このまま溺れて、食われ尽くしても良いかもしれないと虚空の闇を眺めながら甘い悲鳴だけを上げていた。
 
 
・・・
 
 
「……生きてる」
 
カーテンの隙間から差し込む陽光に照らされた自分の手をヒラヒラと翻した。
 
「喉乾いたな……」
 
結局、武道がソレに貪られて死ぬことは無かった。
朝起きて最初に感じたのは異様な乾きだけで、他に大きな異常もない。少し唇が乾燥している気がして、リップクリームなど持っていない中学生男児は唇を舐めた。
 
水道の蛇口からコップに水を入れて、一杯ほど飲めば気持ちも落ち着いてきた。
 
昨夜自分の身に起こった事は何となく察していた。
最後まではされていない。キスをされ、性器を咥えられた。唾液と精液を啜られたのは恥ずかしくてあまり思い出したくない事だったが、セックスというのはあんなに気持ちが悦いのかと武道はぼんやりと考える。
 
「お腹空いた、かも?」
「あら、早いわね」
「あ、おはよう。母さん」
 
寝間着のままキッチンに立つ武道に母親は少し驚いた顔をした。いつもなら起こしても起こしても起きない息子が珍しい、と。
 
「あのさ、昨日の夜、何か変な声とかしなかった?」
「え? 特に……。何かあったの?」
「いや、ちょっと変な夢見たから。魘されてたかも、って思って」
「……また何かあった? お祓い、行く?」
「ううん、大丈夫。たぶんそこまでじゃないから」
「そう?」
 
万が一、親に情事の声が聞こえていたら嫌だなと思いつつ確認せずにはいられなかった。次に昨夜の様な事があった時に、何としてでも声を抑えるべきかどうか、と。
母親に心配をさせたいとは思わない。武道が元気であればいいのだと笑う母が、本気で悪霊や呪いの類を気にしていると武道は分かっていた。そうでなければ子どもの戯言の様な噂話を信じて神社や自称霊能者にお金を払ってお祓いなどさせるワケが無い。
まだ大金を払う程どっぷり浸かることは無かったし、そんなことに使うくらいなら中学の制服を改造したいと武道は強請った。自分が憔悴さえしなければ下らない噂に振り回されることもないハズだと考えて、オバケは怖いと思いつつもヘラヘラと笑ったのは効き目を感じないインチキなのかも分からないものに支払うべきものも無いと考えたからだった。
そして何より、ナニカを祓ってほしいと武道は本気では思えなかった。
 
そんなナニカとえっちな事をしてしまったのだと思うと、自分を心配してくれる母と目を合わせずらかった。
 
「大丈夫じゃなくなったらちゃんと言うから、安心してよ」
「不安だわ~、アンタ自分の限界とかフツーに見誤りそうだもの」
「ひでぇ」
 
ヘラヘラと笑いながらインスタントの味噌汁を作るとご飯がよそわれる。塩分が沁みるなぁ、と自分でも爺臭いと思いつつもほぅ、と息を吐く。
純潔を奪われるのはいいけど、水分と塩分を奪われるのはちょっと困るなぁ、と今後の事を少しだけ憂いた。
 
母親に少しだけ心配されながらも登校して、いつも通りの日常を過ごす。
ソレの気配を色濃く感じつつも周りから何か言われる事もなかったので気のせいかもしれない。精通を迎えたからといって世界が変わったりはしないんだなぁ、と少しだけ大人になった気分だった。
 
しかし、そんな日常が一瞬で非日常になった。
 
女子に呼び出されたのだ。
しかも、学校のマドンナと名高い橘日向という少女にだった。頭が良くて美人の少女に呼び出され、告白される。とてつもなく非日常だ。
昨日までの自分だったら何も考えずに浮かれて受け入れていただろう。実際、今の武道もかなり嬉しいと思った。どうして自分が? という疑問もありつつ自分を魅力的だと言ってくれる女子の存在が嬉しくないハズが無かった。
しかし、浮かれてOKを出すにも昨夜と昨日の事が頭に過る。
 
「ごめん。オレ、君の気持には応えられない……」
「……」
 
目の前の少女が傷ついた顔をする。
彼女も自信満々という感じではなく、勇気を振り絞って告白をしてくれたのだと分かっていた。それを振るのは良心が痛むし、勿体ないと男としての下心がザワついた。
しかし、自分に手を出そうとした輩が首を捩じ切られかけたのを武道はしっかりと覚えていた。その後に、身体を貪られたのだ。
軽率に受けいれて、少女に万が一の事があったら嫌だった。
 
「どうして?」
「橘も知ってるとは思うけど、オレ、呪われてるから」
「うん、噂は知ってるよ。でも、私はそんなんじゃ諦められない」
 
真っ直ぐに、橘は武道の目を見た。
長い睫毛に縁取られた、意志の強そうな瞳だった。
 
「花垣くんが私を好きになれないと思うのならいいの。でも、私は貴方が好きです。呪いだとか、不良だからとか、そんな噂や人からの判断なんて気にならないくらい、花垣くんを見て好きになりました」
「……」
「だから、他の何かを理由にして振るのだけはやめて。諦めきれなくなっちゃう……」
 
ジワリ、と彼女の瞳に涙の膜が張るのが見えた。
泣かせてしまった、申し訳ない、綺麗だな、と色々な感情が胸の中で渦巻いて、同時にやっぱり彼女と付き合う事はできないと確信する。
自分の心の中には既にナニカがいた。ソレに触れられ、貪られ、憑り殺されても仕方が無いと思えるくらい、溺れている自覚があった。
彼女の手を取って、ナニカを祓って真っ当な幸せを得ようとする道もきっとあるだろうに、武道はソレを選ぼうとは思えない。
 
流された自覚はあった。
いつの間にかそこにいたソレに人生を滅茶苦茶にされかけている自覚もある。
なのに、自分の頭を撫でる感触が、その好意が心地良いと思うのを止められなかった。
 
「ごめん……」
「ッ……!」
「オレ、好きな人がいるんだ」
 
ハッキリと口に出された言葉に、張っていた涙の膜が零れ落ちるのが見えた。
少女の失恋に、自分のせいで泣かせてしまったという罪悪感が胸を支配する。勿体ない、おかしいんじゃないか、自分でも分かっていた。目の前の真っ当な美少女ではなく、人外の黒い影のようなナニカの手を取るなど正気では無い。
 
「そっか……」
「本当に、ごめん」
「ううん、いいの。はっきり言ってくれてありがとう」
 
ボロボロと零れ落ちる涙を拭う権利も、慰める面理も、自分には無い。
馬鹿な事をしたなぁ、と思いつつも目に見えないナニカに背中から抱き締められるような温度を感じた。
 


 ・・・

それから、武道はナニカに愛されながら時々迷惑な輩に絡まれる日々を送ってきた。
輩の中には一線を越える馬鹿もいて、その度にナニカが半殺しにしている。どこからともなく聞こえる静電気の様な音も、誰も触れていないのに宙に浮いて締められる首も見慣れたものになった。
 
噂の一人歩きではなく、完全にちょっかいを掛けると物理的に呪われる中学生になってしまったと武道は項垂れた。そもそもちょっかいを掛けないでくれよ、と思いつつも不良はやめたくないので自分に責任がゼロとも言えないのでそこには触れない。
結局そのまま2年生へと進級し、周囲から遠巻きにされつつも幼馴染と新しい人のみが武道と関わる日々となっていた。
 
そんなある日、物好きというものは確かにいるのだなぁ、と武道は呆れた気分になった。
 
武道の噂は小学生の頃から渋谷中に怪談として響き渡っていたが、2年ちょっと経った今さらになって、従兄の不良から呼び出しを受けるとは思ってもいなかった。
 
同じ渋谷ではあるが、別の学校の一つ年上の男だった。
従兄は番を張っていると言っており、武道も憑りつかれるまではソレを素直に信じていた。しかし、今となっては懐疑的なものだった。キラキラとした気持ちで他人や世界を見ていられたあの頃が懐かしいと武道は思う。中二病かと自分でも思うが、そもそも自分が幽霊に呪われているという事自体が中二病的妄想の産物なのではないか。正体不明の影のせいで常に賢者タイム気味の頭が冷静な答えを導き出そうとする。
しかし、そんな考えを否定する様に武道の周りでは怪奇現象は起こり、むしろ日に日に力を増しているのが武道にも分かった。毎晩ではないけれども、体液を貪られるたびにソレの形がクッキリとしていくのを感じる。背の高い男性だとは分かっていたが最近はエンジンオイルの様な匂いを感じる事も多く、自動車事故か何かで死んだのだろうかとソレの生前に思いを馳せる事も多い。
そしてソレと同時にヒトではない形にもなれるのだろうという嫌な感じの進化も感じていた。武道に触れる唇があり得ない箇所を同時に貪ったり、明らかに手が4つ以上なければできないような触れ方をされることが増えた。
人間の体液を啜って悪霊が更にヤバいものにパワーアップしているのだと何となく感じた。
 
それでも、自分に憑りつく悪霊が嫌いになれないのだから重症だと思う。
 
夜な夜な自分に触れる不埒な手の感触にゾクゾクした快感を覚えてしまうのも、その暖かさに安心してしまうのも仕方の無いことなのだと自分に言い訳をする。自分は今そういう歳ごろなのである、と。
今の所、武道に振り掛かる災厄は悪霊が全て振り払っており、これでえっちなイタズラさえされなかったら悪霊では無く守護霊だと思ったりもしてしまっただろう。やり方は手荒であるが。
 
そんな若干スレてしまってきている武道は万が一相手が超常的な力で怪我を負っても別に構わない、という気持ちで呼び出された先へと向かった。
顔見知りである従兄が可哀相な目に合うかもしれないが、そもそも自分を可哀相な目に合わせる様に動いたのは相手が先だ、と。
 
「……うわぁ」
 
着いた先で行われているものを見て武道は顔を顰めた。
見世物の様に喧嘩をしている自分と同い年か一個下くらいの少年達とソレを取り囲む恐らく一個以上は上に見える不良達だった。
武道自身、不良を目指しているし、周りに逃げられるが喧嘩だってしたいと思っている。しかし、ソレは自分の意思によるものでありツッパリ的反骨精神に基づくものだ。見世物として誰かに強要される様なものではないし、するものでは無い。
ましてや見世物にされている少年は不良なのかすら分からない者もいる。
 
コレはダサい、と武道は確信を持って言える。
こんなものは武道の思う不良ではない。
 
その声を聞いた取り巻きの一人が振り返り、武道を睨みつけた。
 
「んだ? テメェ、ガンつけてんじゃねぇぞッ!! 失せろガキがっ!!!」
「あー、すみません。此処に呼び出されたんスけど、マサルくんっています?」
 
ヘラリと笑って言えば取り巻きは怪訝にしつつも何かを思い出す様に考え、他の男へと声を掛けた。するとそちらの男の方は何かしら言われていたのを覚えていたらしい。最初に声を掛けた男を小突いて何事かを小声で話し、武道に向き直る。
 
「おぅ、遅かったじゃねぇか。キヨマサくんがお待ちだ」
「え、誰……?」
 
自分は確かに従兄の名前を出したのに、全く知らない男の名前を出されて武道は眉間に皺を寄せた。
 
「良いからとっとと行けノロマがよぉッ!!!」
「えぇ……?」
 
最初の男を皮切りにザワザワと何かが伝播していく。開けられる道にモーセにでもなった気分であるが、実際は畏怖ではなく気味悪そうに、もしくは少し馬鹿にした様な視線だと武道にも分かった。
不良からしたら霊感少年など小馬鹿にするもの筆頭の一つだろう。
 
恐らく武道も自分が当事者でなければ懐疑的な視線で見ただろうと思う。しかし、この二年ちょっと超常現象に曝され続ければもう他人だろうと自分だろうと何が起きても不思議では無いと思っていた。
 
道を空けられた先にいたのは全く見覚えの無い男であり、自分よりも一回り以上ガタイの良い姿に従兄ではなくこの男が番を張っているのだろうなと理解した。そして、面白半分に従兄を使って武道を呼び出した、と。
噂の霊感少年をおちょくってやろうという魂胆だろうか。正直に言って迷惑過ぎるし、実際に噂の様な怪異や異常現象が起きたらどうするつもりなんだろうかと再び呆れた。
 
見世物の喧嘩に、考えなしの弱い者イジメ。自分が目指す不良とは遠い者だった。
それでも確かに強いのだろうなとその身体つきから予想は出来た。しかし、武道が理想とする拳一つの戦いをするかと言えばその有様からはないだろうな、と確信できる。“正々堂々”とは縁遠そうだ。
 
正直に言って関わりたく無い人種と言って差し支えない男が目の前にいる。
 
自分に憑いている悪霊の今までの行動を思えば恐らく自分の身に危険が迫ればコイツが何とかするだろうな、という確信もあった。しかし、そうなればまた噂が広がり周りから倦厭される。そして何よりも嫌いでは無いナニカが自分のためにヒトを傷つけるのは少しだけ嫌だった。
どうしたものか、と考えながら相手の顔を見つめればキヨマサと呼ばれた男は値踏みする様に武道を見下した。
 
「ほぉー? テメェが噂の呪われ野郎かァ」
 
キヨマサの声には想像していたのと違うのが来た、というニュアンスがあった。
武道の今日のスタイルは金髪リーゼントに改造制服だった。自分と比べれば小柄でヒョロいだろうが、一般的に想像される暗くイジメの様な噂を流される気弱な少年という見た目ではない。
それをキヨマサがどう思ったのかは武道には分からない。しかし、キヨマサはニヤリと笑い、口を開く。
 
「んじゃあ、今日の特別試合のファイターはテメェだ」
「は……?」
 
何を言われたのか分からなかった。単語自体はしっかりと聞き取れたが、まず武道はこの催しが何なのか分かっていない。従兄から呼び出されたから応じただけである。
その生返事をどうとったのか、キヨマサは額に血管を浮かべて武道に掴みかかった。
 
「文句でもあんのかクソガキがよぉ?」
「ぐ、ぅ……文句も何も、此処で何がやってるのかも俺は知らねぇんだけどッ!?」
 
胸元を掴み上げられ、少し首が締まった状態で凄まれるも武道は果敢に睨み返した。殴られるかもしれないがその時はその時だった。
ヒトに対する怖いという気持ちは悪霊が他人に危害を加えた時からあまり感じなくなっていた。自分のために他人が怪我をする方がよほど恐ろしいし、このクズみたいな不良もどきが相手ならそう罪悪感も湧かないだろうという思いもあった。
 
「あ゛ぁ!? この東京卍會メンバーのキヨマサ様主催の喧嘩賭博を知らねェだと!?」
「東京卍會……?」
 
更に分からない単語が増えて武道は眉間に皺を寄せた。
東京卍會も喧嘩賭博も初めて聞く言葉だった。固有名詞と、読んで字の如くの催し物なんだろうとは分かる。しかし、自分が自分の思う不良でいる事が大事な武道は他の不良がどんなものかには興味が無かったため不良のチームという物を知らなかった。そのために東京卍會というチームがどの程度のものであるのかは分からないし、喧嘩賭博などという見世物を行う様なチームなどなおさら興味が湧かなかった。
 
「チッ、ニワカがよぉ。所詮キモ男だわ」
「んぐ、けほっ……」
 
パッと手を離されて、少しせき込み、呼吸が楽になる。
よろめかなかった自分を褒めてやりたい気持ちになったが、まだその段階では無かった。
 
キヨマサは顎で先ほどまで少年たちが戦わされていた広場の方を指し示す。
 
「今日の敗者のダメ男VS呪われキモ男の試合だ。とっととヤれや」
「……」
 
何なんだと思いながらそちらを見れば明らかに怪我をしたボロボロの少年がビクリと身体を震わせた。
恐らく武道が来る前に見世物にされていた少年なのだろう。そして、罰ゲームとして呪われているという噂の自分と再び戦わされそうになっている、と。
 
仕方なく、武道は広場の方へと脚を向けた。
キヨマサとその取り巻きを撒いて逃げる自信もあまりなかったし、ソレをすれば従兄もただでは済まないだろうなと予想もできた。番張っていると見栄で嘘を吐き、武道を碌でも無い場所へと送りこんだ犯人であるが従兄がボコボコにされるのは流石に可哀相だと思う。
 
蒼褪めた顔で武道を見る少年にヘラリと笑いかけた。
 
「安心して、この程度で君が呪われたりとかはしないから」
「へ……?」
「もっと、俺の身に危険が迫ったりしたら話は別だけど、怪我してる同い年の子とちょっとじゃれたくらいじゃ発動しないんだ。アレ」
 
地面に座り込んでしまっていた少年に手を差し出して立たせる。
 
「大丈夫? 足とか挫いてない? もう一試合できるかな?」
「え、あ……うん」
「よし、じゃあちゃっちゃと終わらせちゃおう!」
 
武道のあまりに普通の様子に少年は目を白黒させる。戸惑う様子の少年から数歩離れてファイティングポーズをとればレフェリー役と思しき上級生が声を上げた。
 
「特別試合! ダサ男VSキモ男ファイッ!!」
 
あんまりな呼ばれ方に微妙な気持ちになりつつも、武道は少年が動ける事を確認してから自分も動き出した。
敗けられないという焦りのある少年に対し、武道もまた実際に喧嘩らしい喧嘩をするのは久しぶりだと思う。この2年、本当に他人が寄り付かなかったんだと少し悲しくなった。
 
少年のガムシャラな拳を受けつつ、隙を見てタックルを食らわせると試合は簡単に結果が出た。先の試合で消耗している相手に敗ける程武道もひ弱では無かった。
 
途端、ギャラリーからブーイングが起きる。掛け金を返せだのクソ野郎だの汚く強い言葉がボロボロの少年に投げかけられた。
 
「……」
 
そんな弱い者イジメ以外の何でもない様子に武道は白けた気持ちになる。
そしてそんな中で少年と同じく顔を青くしている子どもを見つけそちらに手招きのジェスチャーをした。
 
「あ゛?」
「何やってんだテメェ!」
 
勝手な事をする武道にも野次が飛ぶが武道は気にしなかった。
 
「君らの友達だろ、回収してあげなよ」
「ひ、ぅ……」
 
怖気づいた様子ではありつつも武道に声をかけられ、タタタと少年に近付くと肩を貸す。それを見ながら、この胸糞悪い環境の中でもちゃんと支え合える友人がいる事に少し安心した。
ヘイトを集めながら武道は広場の中心で嗤う。そして、少年たちが避難した事を確認すると、この催しの中心人物であるキヨマサを睨みつけた。
 
「来いよ。呪われたヤツが見てぇんだろ!? アンタが相手して見ろよ、臆病者!!」
「あ゛あ!?」
「あんなボロボロの奴が相手で呪いが発動するワケねぇじゃん。テメェが相手して発動させろよ。それとも怖気づいてんのか!?」
 
勝算は無かった。
先ほど首を絞められた時に自分と相手の体格差は分かっている。自分だってそれなりに鍛えているが、キヨマサと自分が喧嘩をして勝てるワケがないといっそ開き直った確信がある。それこそが勝算だった。
 
武道には自分がボコボコにされれば悪霊の呪いが発動する確証があった。
 
さっきまでは好意を持つ悪霊に他人に危害を加えさせるのは嫌だと思っていたが、そんなことはどうでも良くなる程、武道はこの催しに嫌悪と怒りを覚えていた。
自分が酷い目にあってもいい。自分を守ろうとしてくれている悪霊の好意を踏み躙る様な行為だってしてしまえる。
 
何もかもが気に入らなかった。
 
「呪いが怖いのか?」
「言うじゃねぇか」
 
階段の一番上で、偉そうにふんぞり返っていた男が額に血管を浮かび上がらせて立ち上がる。緩慢な動きであるがそれこそが上に立つ者としての矜持なのだろう。
余裕たっぷりに、しかしコバエが囀るのを許さない圧倒的な暴力を、この男は持っているハズだ。そうでなければこの男の周囲に人が集まるワケが無い。
 
東京卍會がどんなものなのかは武道には分からない。
キヨマサがその末端なのか、幹部なのかも。どの程度のものなのか、今日初めてチームというものを認識した武道には未知の存在だった。
 
それでも、コレが不良であると黙認して、この場を去るのは武道の矜持が許さなかった。
 
突然呼び出されて、呪われたキモ男だと馬鹿にされて、不良でもなさそうな少年を傷つける道具にされて、見世物にされた。意味が分からないし腹が立つ。
 
ドロリとした感情が胸の内に溜まるのを感じた。
このまま黙ってすごすごと帰るのは武道の矜持に関わる事だった。
 
呪いが発動しなくても良い。その方がきっと平和だし、自分への好意を踏み躙らなくても済む。
しかし、もしも発動して、この男が瀕死の重傷を負ったとしてもかまわない。ここまで馬鹿にされて、黙っているのは自分ではない。
例え呪われているとしても、自分は不良であり、花垣武道である、と自信を持って言える。勝てる相手にふるう暴力など武道は持ち合わせてはいなかった。いつだって、不良とは自分たちを押さえつける権力や常識へ反抗するためにその拳をふるうものだと武道は理解していた。
 
「吠え面かかせてやるよ」
「クソ餓鬼がぁ……ッ!」
「うぐっ……!」
 
重い拳だった。
腹にめり込んだソレにふっ飛ばされて武道はアスファルトに叩きつけられる。
 
当然だ。相手は年上で、体格も何もまるで違う。不良としての場数だって相手の方が圧倒的に積んでいて、正直に言えば自分が勝てる要素など何一つないと分かっていた。
それでも、自分は不良であるという矜持だけで武道はキヨマサに喧嘩を売った。理由などそれだけで十分だった。
 
服越しに擦り傷が出来たのが分かった。衝撃に一瞬息が出来なくなり、咳き込み、呼吸を整える。骨は折れていない。
野次が遠くに聞こえる。キヨマサの一撃で倒れたダセェヤツだと罵る声がする。大口を叩いたくせにと嘲笑う声だ。その声を聴きながら武道はゆっくりと目を開けた。
 
のそり、と武道は立ち上がる。
その目に光は灯ったままだった。
 
遠くで観衆がどよめくのが分かる。まさかこの体格差、実力差の戦いで、武道が立ち上がるとは誰も思ってはいなかった。
そして誰よりも驚いたのがキヨマサだった。拳はしっかりと相手の腹に入った感触がしたし、吹っ飛んだ男はあまりにも軽かった。その軽さは一瞬、ナメられた怒りを忘れさせる程だ。せめて一撃で沈ませてやるのが良いだろうと存在しないハズの仏心の様なものを感じる程だった。
 
しかし、ギラついた瞳がキヨマサを捉える。
赤子の様に大きな瞳は黒いのに、確かにその輝きを感じさせた。
 
呪われていると噂され、キヨマサ自身も根暗野郎をコケにしてやろうと思って同じ学校のソイツの従兄を使って呼び出したのだ。それなのに、その男の瞳に暗さは無い。ただ真っ直ぐにキヨマサを射貫く様なギラつきだけがそこにあった。
 
「トーキョー卍會ってヤツはこんなもんかァ?」
 
キヨマサの一撃を食らって、たったそれだけで明らかに疲弊した男の口から紡がれた言葉がソレだった。
強がり、負けず嫌い、大言壮語、兎にも角にも殴られてふっ飛ばされた男の言葉ではないと誰もが思った。キヨマサを煽って殴り殺されでもしたいのかと疑う程だ。
 
「上等だ、殺してやるよ」
 
こんなチビの、ワケの分からない呪われ野郎に大口を叩かれては、チームのメンツが立たない。武道は確かに、キヨマサの地雷というものを踏んだのだと誰もが分かる。
 
「うぉらっ!!」
「がっ、は……ぁっ!」
 
次は腹ではなく顔面に拳を叩きこむ。先ほどと同じように武道は吹っ飛び、受け身すら取れずにコンクリートに叩きつけられた。そして同じように、のそりと立ち上がる。
 
「……ッ!」
 
ゾンビもかくやという風体だ。武道が何か言う前にキヨマサは武道に駆け寄り、蹴りを入れる。簡単に転がる身体にゾッとしつつも馬乗りになって襟首をつかんだ。
 
「ハッ、よほど死にてぇみてぇだなぁ?」
「……」
 
殴られた際に出血したらしい額は腫れて切れていた。それでも骨は折っていないと分かっているし、殺すという言葉だってよくある脅しだった。本当に殺したらめんどくさい事になると分かり切っているし、実際に人を殺した事など無かった。
こう言えば手加減をしてもらえない、されたとしても痛い目に合うと理解して大抵の者は泣いて許しを請うのだとキヨマサは知っていた。
そして、目の間の不気味な男もその大抵に含まれるのだと思っていた。
 
しかし、その考えは打ち砕かれた。
ニヤァと男は嫌な笑いを浮かべた。ギラついたままの瞳が弓なりになり、キヨマサはゾワリと背筋に悪寒が奔るのを感じた。そして次の瞬間、胸倉を掴み返されガツンッと額に衝撃と痛みが奔る。
 
「ぐっ、あ゛ぁッ」
 
思わず呻き声を上げ、手を離してしまう。その瞬間に武道は掴んでいた胸倉を押し返しキヨマサを退ける。
頭突きをキメた本人ももちろん無傷というワケにはいかず、元々切れていた額からは更に血が溢れていた。
 
「ハッ、ざまぁ見ろ」
 
窮鼠猫を噛むを体現する様な逆転劇に周りのギャラリーが一瞬沸きかけ、すぐに静まる。
キヨマサにダメージは入ったが昏倒させるほどではなかったため、すぐに態勢を立て直し鬼の形相で武道を睨みつけギャラリーに叫んだためだ。
 
「殺してやる! バット持ってこい‼」
 
ドスの効いた声は分かりやすく激昂し、本当にこの少年を殺すのだろうと言う勢いを感じさせた。
しかし、同時にどこのチームに所属しているワケでもなく、見た目だけは不良という体は保っているが明らかに一般人でありキヨマサよりもよほど小柄な少年相手に得物を使うなどあり得ない、とギャラリーも興醒めの色を見せる。
その強さと所属チームのネームバリューで慕われていた男だ。その男が明らかな弱者相手に敗けてはおらずともみっともない姿を晒しているのだから仕方の無い事だった。
 
そんなギャラリーの反応にますます激昂し、キヨマサは武道に掴みかかった。
 
「このクソ餓鬼がァ!!!」
「あ゛、ぐぅ……ッ」
 
武道を押し倒し、けして細くは無いその首に、キヨマサの大きな手がかけられる。
殴る蹴るという単純な攻撃では無い、殺害目的のソレにギャラリーが悲鳴を上げた。
 
「あ゛ぁ゛ッ……」
 
力任せに絞められた喉はただただ痛いだけで、武道は呻き声を漏らす。上手く血管を締めていれば簡単に気絶してそこで終わったであろう蹂躙は、このままだと喉が潰れるか骨が砕けるまで続けられるだろうと予想された。
 
「カッ、ひゅっ……あ゛」
「あ?」
 
しかし、ギャラリーの誰かが止めに入る前に、暴れる武道の首元からパサリと一体のお守りが落ちた。首から下げられていたのであろうソレはそれまでどんなに殴られても蹴られても襟から出てくることは無かった。ソレが不自然な動きをしたように感じて、キヨマサは一瞬その動きを止めた。
そして、その瞬間にパチンッと静電気の様な音を立てて、お守りが弾け、破れた。
 
「は……?」
 
多少の違和感どころではない確実に起きた怪奇現象だった。
ラップ音というヤツだろうか、と思い至る時には既にキヨマサの身体は宙に浮いていた。
 
「ガッ、は、ぁッ!!」
 
ドサリと音を立てて地面に叩きつけられる。東卍の抗争でもそんな状況に陥った事は無くキヨマサは混乱する。
確かに、自分は目の前のガキを殺そうと馬乗りになって首を絞めていたハズだ。それなのに、変な音が聞こえた瞬間に弾き飛ばされた。ガキは明らかに疲弊してキヨマサを退ける力など残っていない様子だったはずだ。何より、小さく弱いガキが自分を浮くほど弾き飛ばすなどあり得ない。
 
あんな呪われていると噂される様な根暗チビに、と考えて、気付く。
 
この男の目はこんな色だったか、と。
ギラついた瞳が何度もキヨマサを射貫いたハズだ。しかし、ゆらりと立ち上がった男の目はただただ暗い色を湛えていた。
 
「誰だ、お前……」
 
思わず呟いた言葉にソレはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。先ほどの頭突きを食らわせた時の嫌らしいソレとはまた違う余裕たっぷりのソレにキヨマサはゾッとした。
ソレは明らかに先ほどまで嬲っていた男とは別の生き物だった。
 
まるで自身の所属するチームの総長を彷彿させる様な妙な威圧感だった。
小さく、分かりやすい強さなど無いのにただただ余裕と奇妙な恐ろしさを感じる。
 
「さぁな?」
 
目を見開くキヨマサの顔面に勢いよく膝が入る。グチャンッと嫌な音が鳴った。
キヨマサには何が起きたか分からなかったが、ギャラリーにはしっかりとその姿が目に入っていた。
虫の息だったハズの男が急に自分よりもよほどガタイの良い男を弾き飛ばし、ニヤリと嗤った挙句に勢いよく地面を蹴って相手の顔面に膝をたたき込んだのだ。その人が変わった様な様子にキヨマサだけでなく誰もが何かが起きたのだと悟る。
 
「呪い……?」
 
誰かがポツリと呟いた。
その声は妙に広場に響き渡り、誰もが今日の賭けの対象が誰だったのかを思い出した。
渋谷で数年前からまことしやかに囁かれる怪談話。
 
黒い影に憑りつかれた子ども。
面白半分に手を出そうとした奴が謎の怪我を負い瀕死の重傷になった。
明らかにヒトでは無いナニカが報復に来る。
 
呪われていると言えば確かにそうなのかもしれない。しかし、当の少年はその怪異に愛されているとしか表現ができない様なものだ。
 
そのナニカが、恐らく、目の前にいるのだとその場にいる誰もが理解した。
 
触れてはいけないものに触れてしまった。
虎の尾を踏んだ。
 
きっとコレはそういう状態なのだと。
目の前の男に、見世物にされていた少年に手心を加えていた様な優しさは見られない。このナニカは自分のものに手を出された事を怒っているのだと、加害者を叩きのめす事しか考えていないのだと。
 
影が延びる。
まだ夕刻では無いハズなのに、異様な長さの影がキヨマサに落ちた。
途端に、キヨマサの身体は痙攣した様に自由が利かなくなる。マズイ、とその場の誰もが思った。パチン、パチン、と奇妙な音がどこかで鳴っていた。
 
どうすればいいのか分からなかった。ただこのままではいけないとだけは分かる。
武道をどうにかすればいいのか、しかしどうすればいいのかも分からない。下手に手を出せばキヨマサの二の舞である。武道は不敵に嗤ったまま、地面でのたうつキヨマサをに下ろしていた。
 
そんな修羅場に一筋の光が射した。
 
ビュッと音を立てて、その男は弾丸の様に武道に蹴り掛かった。黒い学ランがはためいてフワリと浮いてその場に取り残される。ソレが地面に着く前に、男の傍に居た長身の男がキャッチした。
 
目にもとまらぬ、という言葉を体現する華麗な蹴りだった。
それなのに、武道は造作も無いように避ける。先ほどまでのキヨマサのパンチにふっ飛ばされていた男とはやはり違う動きだった。
 
「真一郎……?」
 
蹴りを避けられ、地面に着地した男は目を見開く。
自分の蹴りを避けた男など過去に一人しかいなかった。そして、絶対に違う人物だとと分かっているのに、その動きが過去に見たモノと重なった。
 
「よぉ、万次郎。元気そうで何よりだわ」
 
絶対に違うと分かっていた。
何故ならその男は既に死んでいたからだ。
それなのに、その男はかの男と同じ喋り方と笑い方で万次郎に顔を向けた。
 
「久しぶりだな?」
 
兄、真一郎と同じ笑い方、同じ喋り方の全く違う顔の男が不敵に笑っていた。