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俺の為のオム・ファタール

 


深夜に目が覚めた。
懐かしい実家の自分の部屋の時計は夜中を指していた。
 
「は?」
 
暑いのにどこか肌寒い夏の夜だ。

周りを見渡せば寸分違わぬ小学6年生の時の自室で、勉強机の横に投げ捨てられたランドセルから給食袋がはみ出していた。
 
あぁ、コレ出さないと母さんに怒られるんだよな……。
 
そんなことを考えて、ベッドから降りてソレに手を伸ばした。
小さくまろい手が視界に入って武道は動きを止めた。
 
コレは何だ?
いったい何が起きている?
 
自分は26歳の男だ。いくらオメガと言えどこんな可愛い手をしているワケが無い。
驚いて自分の手を見ても見えるものは変わらず、まだ喧嘩慣れなどしていない柔らかい拳だった。この頃から多少のヤンチャはしていたが不良としてデビューするのは中学に上がってからだった。
この頃の武道はまだ風呂敷マントで公園を駆けまわっていたワンパク小僧だ。
 
「……行かなきゃ」
 
デジタル時計の示す8月13日。日付が変わるか変わらないかの時間。
この日が何を示しているのか、武道には分かってしまった。具体的な時間も場所も聞いていない。けれど、己が死ぬ瞬間に思い浮かんだ運命の相手の顔が自分の人生の最大の後悔なのだと分かった。
 
着替えて、家族を起こさない様にこっそりと家を出る。
 
出逢わなければ良かったと思いたかった。
酷い男だった。どうしようもなく我儘で、人の人気持ちなんて分からないサイコパス野郎。レイプされたし無理矢理番にされて、勝手に解消された。
最低なアルファだし、おまけに犯罪組織のボスだった。なんて運命だと散々呪ったのに武道は足を止められなかった。
 
子どもの短い足でフラフラと歩く。行き先は鼻が知っていた。
 
この広い東京で番の匂いを探して歩くなんてできるワケが無い昔の自分は思っていた。運命などというワケの分からない何かに翻弄されるなんて真っ平で王子様なんて待ちたく無くてがむしゃらに理想のヒーローになるために模索していた。
今思えばいくら何でも風呂敷マントのヒーローは無いだろうと思うがこの頃から自分のセンスは壊滅的だったのだから仕方が無い。
 
自分の住む住宅街を抜けて大通り添いに歩いて行く。
かすかに感じる色々な匂いの中から脳みそを痺れさせるソレを嗅ぎ分ける。薄い匂いと濃い匂い。今日に限っては薄い匂いの方へ行くのが正解だった。
 
発情期が来る2年後までアルファの匂いなんてよく分からなかった。
けれど、今の自分は脳裏に刻み込まれた経験によって身体が番を求めていた。東京から出てどこかへ行こうなんて考えたのはきっとこの世のどこかには自分を捨てた番がいるのだろ勘違いしたからだ。
 
目が覚めるまで無意識だったけれども、気付いてしまえば滑稽な事だった。
こんなにも項が寂しいのだ。
 
噛まれたい。噛まれて所有されたい。
匂いを嗅ぎ取れば簡単に分かることだった。
 
そして、ソレが分からなかったのはもう佐野万次郎が死んでいたからだろう。
あの時背中を押した誰かに感謝したいくらいだった。走馬灯なのか死後の世界なのかは分からない。電車に轢かれて、植物状態で見ている夢かもしれない。
それでも、番を喪ってフラフラと理由も分からずに彷徨い歩く人生を送るよりはマシだろう。
 
時刻は深夜2時。オバケでも出そうな時間だと考えて自嘲する。
オバケは自分だ、と。
 
どうして此処にいるのかは分からない。
確かに自分は26歳で散々な人生の果てに死んだハズだ。それが何で小学生の姿で真夜中に目を覚ましたのか。
何が起きているのかは何も分からない。それでも、自分がすべきことは分かっている。
 
飢餓感が抑えられない。
早く会いたい。会って噛んでもらいたい。
でも、しなきゃいけない事がある。順番が大切だ。俺たちはもっと早く会わなきゃいけなかった。
 
いつの間にか歩いていた歩幅は広がって、急ぎ足になって、ついには駆けだした。
 
どこかの商店街だ。
もう此処がどこなのかも分からない。
 
間に合うだろうか? きっと間に合うだろう。
そうでなければ何故この日の事を夢見ているのか分からない。
 
やはり、きっとコレは死に際に見ている都合の良い夢だ。
 
散漫な思考がそう思い至る。
 
こんな都合の良い事が起こってたまるか。
 
シャッターの閉まったバイク屋の前へと辿り着く。
かすかな、でも確かな残り香がする。
 
店の裏へと行けば開けられたドアがある。もう先客がいる。
 
まだ血の匂いはしない。
 
とてもいい匂いがする。でもこれじゃない。
かすかな残り香の方がよほど官能的だ。
 
ドアを開ける。
 
中へと入る。
 
やっぱり、良い匂いだ。
 
物音がする。犯人はバイクを盗みに入ったと聞いた。きっとソレだ。
 
人影は三つ。
 
バイクを運ぶ子ども。対峙する良い匂いの男。そして、その背中に迫る子ども。
 
「やめろ一虎あぁ!!!」
 
声が響く。子どもは止まらない。
 
だから、俺が此処にいる。
 
ガァアアアアンッ!!!!!
 
飛び出して、愚直なタックルを子どもに食らわせた。
不意打ちのソレに子どもは勢いよくふっ飛ばされ、仕掛けた武道と一緒にディスプレイされたバイクへと突っ込んだ。
 
「い゛ッでぇええええっ!!??」
 
犯罪の興奮の冷めやらない脳みそは自分を襲った小柄な何かが分からない。ソレを良い事に武道は押し倒した子どもをバイクごと床に押さえつける。
 
「君じゃない。黙って」

集中して、的を絞って、武道はフェロモンを子どもに浴びせかけた。頭を狂わせるような濃厚なソレは本来ならアルファを性的に興奮させるためのものだ。
しかし、過ぎれば劇薬となり神経を焼き切ることだってできる。
 
「あ゛ぁ゛あ゛あ゛ああああああああ!!??」
 
事例は少ないと教えられたがやればできるものだとぼんやりした頭で思う。
神経を焼き切る事こそ無いが、子どもは過ぎた興奮に目を回し、鼻血をボタボタと溢れさせる。可哀相に思わないことも無かったが、この子どもが男を殺したせいで自分の人生が滅茶苦茶になったのだと思うと少しだけ留飲が下がる思いだった。
 
「ひっ!?」
 
ユラリと立ち上がり武道は男を見る。
悲鳴を上げたもう一人の子どもを庇う様に男は前へ出る。その子どものお友達が自分を殺しかけたというのに呑気なものだと思う。
それでも、年長者はかくあるべきで、良いお兄さんだったのだろうと分かる。
 
「すごく良い匂い……」
 
うっそりと笑いながら武道は男……真一郎と対峙する。
化け物の様に見えた武道の正体がオメガの子どもだと男はすぐに気付く。恐らく、ヒートを起こしかけてフェロモンの受容体が暴走をしているか、伝達物質の異常を起こしているか、その両方かだ。
 
「お前……」
「でも、貴方じゃない……」
 
自分じゃないならコイツか、と背後に庇った子どもを守ろうとレンチを握り直す。しかし、相手は子どもだと内心でストップがかかる。どうすべきなのか。どうすれば、全員が助かる、と真一郎は思考を巡らせた。
しかし、予想に反して武道は二人に襲い掛かるようなことは無かった。
 
「居直り強盗はもうおしまい?」
「え……?」
「その人無事だったし、俺、行かなきゃ。運命が待ってるんだ……」
 
その言葉を聞いて、真一郎はやっと事態を正確に把握した。目の前のオメガの少年は自分を助けるために此処へやってきたのだと。
どういう理屈なのかは分からないが運命に近いアルファの危機を悟って単身乗り込んできたらしい。
 
フラフラとした足どりで武道はその場を離れて裏口へと行こうとする。
ヒートに入りかけの少しぼんやりした熱っぽい瞳で少年はふらふらと外へと出ようとする。
このままではまずい。何故か真一郎には少年のフェロモンは感じられないが、相手は既に一人フェロモンで攻撃をしているのだ。
このまま被害者を増やす可能性と少年が被害者になる可能性のどちらも大いにある。
狙って一人に対して大ダメージを与えるフェロモンを出せるオメガなど真一郎は聞いたことがない。しかも番契約はまだしていないらしいのに、もう誰が自分の番なのか分かっている様な口ぶりだった。
何もかもが異質でいっそ恐怖すら覚えるが、それでも相手はヒートに苦しむかなり幼いオメガだ。絶対に自分はこの子を保護しなければならない、と真一郎は覚悟を決める。
 
「お前、名前何て言うんだ?」
「? 花垣武道」
「そうか、武道。良い名前だな」
「ありがとうございます?」
 
そわそわとしつつも武道は逃げ出したりはしない。まだ意思の疎通は可能そうだった。
 
「良い匂いって言ってたが、俺の事じゃないのか?」
「お兄さんも良い匂いだけど、ちょっと違うんです。すごく近いけど、貴方は俺の運命じゃないんです」
「おおう……」
 
告白した訳でもないのに振られたような気分だ
 
「残り香みたいなのを辿って来たんです。そしたらちょうど殺されそうになってたので助けました」
「それはありがとう。残り香……か」
 
客の第2性などは分からない。けれど、ヒントはあった。真一郎とかなり似たフェロモンを持つアルファなど一人だろう。
 
「分かった。会わせてやるから少し待て」
 
真一郎の言葉に武道は不満そうにしつつも従う。元来素直な子どもなのだろう。出会い方が違えばきっとこんなに警戒が必要な子ではないんじゃないかとすら思う。

「代わりにコレ持ってていいから、そこに座ってろ」
「…はい」
 
事務所にあった弟……万次郎の忘れ物のパーカーを与えるとギュッと抱き締めた
あぁ、やっぱりこの子は万次郎の運命だ。と確信しつつ真一郎は電話を掛けた。
 
 
・・・
 
 
程なくして、パトカーがやってくる。救急車はまだらしい。
そのサイレンの音に商店街の隣人たちが何だ何だと野次馬に来た。子ども達の顔が見えない様にパーカーを被せ、事情を説明する。
 
強盗をしてしまった弟の友人二人、そして、自分を助けるために攻撃をしてしまったオメガの少年。特に少年……武道はヒートを起こしており危険な状態と言える。
何故自分にそのフェロモンが嗅ぎ取れないのか分からないが、弟の幼馴染……場地圭介にも嗅ぎ取れないことから番ってもいないのに既に運命の相手に特化したフェロモンを出しているのだろう。
 
ごめんなさい、と泣き崩れる場地に大丈夫だからと声を掛ければ少年は少しムッとした様子でパーカーから顔を上げた。
 
「何も大丈夫じゃないっスよ。そんな鈍器で首狙ってたんスよ? 俺がタックルしてなきゃ頸椎骨折で即死でした」
「あ…あぁ……ゥ…うぅ……」
「泣かすな泣かすな! せっかく泣き止ませたのに!」
「大いに反省してください」
 
子どもの様に頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向く様はヒートでぼんやりとしている事も相まって本当に幼気な子どもの様だった。
事情聴取をするにしても今の様子ではどうしようも無いとまずは救急車を待つ。加減はしたと武道は宣っているがオメガのフェロモンで攻撃されてどうなるかなど専門家でない限り分からない。幸いにもバースの研究機関が近かったためそちらからも応援がもらえると駆け付けた警察が言っていた。
 
これが正当防衛になるのか、それともヒートによる心神喪失状態と判断されるのか分からない。それでも、自分を助けるための行為だったのだと真一郎は弁解したかった。
武道本人は全く悪びれる様子も無く万次郎のパーカーに懐いており、真一郎を助けた時よりも症状が重くなっているらしく応急処置の抑制剤を飲ませたのにも関わらず、分かりやすく肌を上気させ、その瞳を潤ませていた。もう自力で歩く気力も無いであろうに場地に釘を指すために顔を上げる辺りかなり負けん気の強いタイプなのだろう。
ヒートであることは明白なのにフェロモンを感じさせない謎のオメガに警察も口を出せずにいた。
 
全ては救急車か研究者が到着してからだろう。
万次郎に会わせてやるから待て、と言ってしまったが実際に武道と万次郎が出会ったら何が起こるかは分からない。運命の番など、映画かドラマの中でしか見たことが無かった。
 
しかし、武道がヒートの辛さに耐えかねて無差別に全員を誘惑するフェロモンを放てばこの場にいる全員が被害者になる事が分かっていた。専門家の処置が先か、武道の我慢に限界が来るのが先か、警察は状況を説明され緊張した面持ちで待機していた。
 
しかし、事態は思わぬ方向へと進展した。
 
「あ、来た」
「へ……?」
 
ポツリ、と武道が呟き、スックと立ち上がる。
警官や真一郎の静止も聞かずに店のドアへと歩き出した。
 
ガチャリとドアを開けて、艶やかに微笑んだ。野次馬の人ごみなど一切目に入っていないとでも言うかの様に、ただ一人だけを見つめる。
 
「はじめまして、俺の運命♡」
「な、ぁ……」
 
兄を心配して駆け付けたつもりだった。
しかし、兄の店へと近付くにつれて濃厚なフェロモンが香ってくる。何故、この人ごみはこのフェロモンを前にして平気な顔をしていられるのか。自分が正気を保てているのかすら万次郎には分からなかった。
 
そして、人ごみを掻き分けて行った先で、瞠目する。
 
「俺の、運命……?」
「そ、君の運命だよ」
 
艶やかににっこりと笑うソレはオメガだ。
 
自分に運命の相手がいるなんて思ってもいなかった。自分で掴み取ってこその未来だと思っているし、何かに指図されるなんてまっぴらごめんだと思って生きてきた。
しかし、実物を目の前にすると今まで抱えてきた矜持など投げ捨ててしまいたくなった。
 
恐らく年下……小学生であろうチビの少年だ。可憐というにはほど遠く、可愛いと言えば可愛いのかもしれないがソレは大人が子どもを見た時に感じるであろうソレだ。万次郎が武道を見て可愛いと思うであろう要素はほとんどないと言ってもいい。
 
正直に言ってしまえば好みでない。
そんな相手であるのに目が離せない。離したくない……と考え、気付く。
 
クレイミングだ。
アルファ同士でならオメガを巡っての威嚇、アルファとオメガの間でのことなら求愛行動にもなる。
相手はオメガだ。通常ならこれは求愛行動であるハズである。
しかし、万次郎はコレが求愛であるとは思えなかった。
求愛なんて生易しい行為ではない。
 
これは勝負を挑まれているのだ、と本能的に理解した。
視線を合わせ、先に逸らした方が敗け。
 
挑まれているのだ。
この東京卍會総長、佐野万次郎が。ケツの青い餓鬼風情に。
 
腹を立てて手を出せばきっと簡単に倒せてしまう。
けれど、その瞬間に万次郎は雄として敗北するのだ。
 
とんでもない奴の運命になっちまった。アルファ相手にこんな行為をするオメガなど聞いたことが無い。
 
生意気だと感じるのにどこかゾクゾクした感覚が背筋を伝う。周りに誰がいるかなんて分からない。きっとコレは人に見せるものじゃない。暑いのか、寒いのか、初夏だったはずだ。じっとりとした空気が生温く肌を撫でている。いや、少し寒いのかもしれない。鳥肌が立っている気がする。心臓がバクバクと鳴っている。血が廻っている。額から頬に感じるのは汗だろうか。分からない。
 
好みではないと思ったのに、この青い瞳が何よりも美しいと感じる。美しい、なんて万次郎は久しく感じた事が無かった。
頭を垂れ、項を噛めと命令されている気分だった。押さえ付けて、屈服するのはお前の方だと噛み付いてやりたい。
誘惑するフェロモンと攻撃するフェロモンが同じだなんて知らなかった。
 
グチャグチャになった思考で、それでも負けるまいと睨み返す。
 
どのくらい睨み合っていたのか分からない。
その戦いを制したのは万次郎であった。
 
「あ……」
 
急に、糸が切れたかの様に武道がフラリと倒れた。
咄嗟に前へと飛び出して万次郎はその身体を受け止める。そしてその無防備に晒しだされた項に歯を立てようとして、邪魔をされた。
 
「ストォオオオオップ!!!!」
 
空気の読めない奴だと威嚇フェロモンを放ちながら睨みつけた先には先ほどまで心配していたハズの兄がいた。
すっかり忘れてしまっていたが、この兄を心配してここまで来たのだと思い出した。
 
「兄貴……?」
「あっぶねぇえええ! 未成年に事故らせる所だった!!」
 
テンション高く真一郎は万次郎から武道を取り上げた。
元気そうだ、心配して損した、と思うと同時にその後ろにエグエグと泣いている場地がいて状況が分からない。場地と真一郎は暫く接点が無かったハズだ。
 
「え、何だこれ……?」
 
 
・・・
 
それから間もなくして救急車と研究員がほとんど同時に現場に到着した。
倒れた武道と羽宮が救急車に乗せられ、万次郎は残った真一郎と場地、そして警察から話を聞いた。だいぶ混沌とした内容であり、渋滞した情報に頭が痛くなったが羽宮が元気になったら一発殴ろうと心に決める。場地はもう既に殴った。
 
話を聞いて、どうやらあの場であの少年のフェロモンを感じられたのは自分だけだと分かり万次郎は安心した。正体不明の独占欲がムクムクと心の中で育っていくのが分かる。
もし万次郎が来る前に他の誰かを誘惑などしていたら自分が何をするか分からないと自覚していた。そんな凶悪な考えを凌駕する様に、あの強烈なフェロモンで圧倒されかけたことが頭から離れない。抑制剤に入っていた睡眠導入剤が効いていた様で、昨夜は万次郎の勝ちで終わったがそうでなければ危なかったかもしれないと思う。
 
そんなとんでもない運命の相手と、万次郎は再び会う。
翌朝、真一郎を通して万次郎は病院から呼び出しを食らった。会いたく無ければ会わない事も可能であるが、フェロモンの攻撃を食らった事には変わらないので万次郎の方にも検査と問診が必要な様だった。
会いたくないということは無かった。ヒート中とは言えとんでもない奴であったが、自分の運命だ。好みではないハズなのに惹かれるものが確かにあった。
 
そして何より、兄の命の恩人だった。
自分のためにそこまでしてくれたというのに此処で逃げるのはあまりにも不義理だと、基本的に自己中心的に生きている万次郎でも思う。
 
しかし、昨日の少年の様子を思い出すとやはり会うのは少しだけ怖い気もした。
あの少年が万次郎よりも強いなどとは全く思わない。どちらかと言えば本能を引きずり出される事への忌避感なのだろう。
自分が自分でいられなくなる。強い情動に支配されて冷静さが失われる。幼い頃からあった怒りに我を忘れそうになる感覚と似ている様に感じられた。
そして不快感だけでないのが特に恐ろしく感じる。怒りに身を任せる行為は楽と言えば楽であるが、結局後から思い悩んだり悔いたりすることを考えればアレは悪い事であると判断が付く。
そう思えることが自分が自分である証の様な気がしていた。
 
「……」
 
昨夜のクレイミングを思い出して、万次郎はゾワゾワとした気分になる。
悪寒といえば悪寒なのかもしれないソレはどこか官能的で忌避感の無いものだった。胸の辺りにある甘いわだかまりと、丹田の辺りに感じる妙な熱さ。きっと身を任せてしまえば気持ちが良いのだろうという期待感すらあった。
これは本当に自分なのだろうかと疑問に思うのに、もしそうでなかったとしても良いのだと言う破滅願望にも似た興奮があったように思う。
 
思い出すだけでソワソワと落ち着かない気持ちになる。
またあの青い瞳に見つめられたいと思ってしまう。
 
そんな様子の万次郎を真一郎は心配そうに見ていた。
命を助けられた自覚はある。しかし、あのオメガが危険人物であることには違いはない。
ヒートにあてられていたとはいえ故意に人を傷つけるフェロモンを出したのだ。コレが単純な腕っぷしの話なら元・暴走族の総長と現・暴走族の総長である佐野兄弟に敵はいない。荒事には滅法強い自信があった。
 
どうしたものかと考えているうちに彼のオメガのいる病棟へと到着してしまった。
会って礼を言いたい気持ちと会うのが怖い気持ちがない交ぜになった二人の耳に突然、怒鳴り声が聞こえた。
 
「危ない事しちゃダメだっていつも言ってるでしょうが!!!」
「ごめんって母さん! でも仕方なかったんだもん!!」
「あと給食袋も出して無かったでしょう!? アンタいい加減にしなさいよ!?」
「ソレは本当に申し訳ございませんでしたぁッ!!!!」
 
母親と男児の会話だった。
コミカルさすら感じさせるそのやり取りに張り詰めていた感覚がほぐされるのを感じる。悪気なくそちらの方を向いて、真一郎は口をあんぐりと開けて固まった。
そのコミカルな声の主が、先ほどまで会うことに少しの恐怖を感じていたハズのオメガの少年だった。
 
「えぇ……?」
 
ヒートで常とは違う状態にあることは想像していたが、実際に少年を目の当たりにするとあまりにも普通の男児であった。母親に叱られてピーピー半泣きになっている。
昨夜の妖艶さはどこへと行ってしまったというのか。
 
真一郎が声を掛けるべきか悩んでいる間に、万次郎が先に動いた。
 
「おい、お前」
「あ、コラ! 万次郎!?」
 
そのあまりに不躾な声のかけ方に真一郎は焦るが時すでに遅し。そのコミカルな親子はパッと万次郎の声に反応して二人の方を向いた。
 
「あ! 君!」
 
少年、武道はこれ幸いとでも言うかの様に万次郎の方へと駆けだした。嬉しそうなのは万次郎と会えたことへの悦び以上に母親のお説教から逃げられたことに起因していそうだった。
本当に、どこにでもいそうな普通の少年だった。
 
「昨日は急にクレイミングしちゃってごめんなさい」
「え、あ、いや……」
「母さん! 母さん来て!! この子、俺の運命!!」
 
騒がしい。
本当にオメガか? と疑問に思ってしまうほど儚さも可憐さも無いその様に真一郎は少しだけ安心する。
昨夜の様はヒートにあてられたせいだったのだ、と。この感じの子どもの相手なら真一郎にもできる。
 
「アンタねぇ」
「あの、昨夜は危ない所を息子さんに助けていただきありがとうございました」
 
パッと頭を下げると武道の母親は少しだけ驚いてすぐに頭を上げる様に言ってきた。彼女もまた普通の母親といった感じで、母を亡くして長い真一郎には少しだけ眩しく感じた。
そうして保護者同士で話を始めるとその間に子ども同士で万次郎と武道はお喋りを始めた。
 
「何かお前、昨日とイメージ違うな」
「うーん、初めてのヒートで大分頭おかしくなってたからそう言われると面目ないというか。恥ずかしいというか……。まぁ、とにかく、こっちが素だよ」
「ふぅん?」
 
へにゃりと笑う武道に先ほどまで抱いていた期待と不安が霧散してく。そして同時にやっぱり好みじゃねぇな、と思う。
どんな子が好きかと言われたら上手くは答えられないが、もう少し可愛い子か大人っぽいエロい子が良いと思う。取り敢えず今の所オメガと言えど女の子の方がいいなぁ、と考えた。
 
「でも、お兄さん助けられて良かった」
「あぁ、ソレはありがとう」
「コレで心残りも無いハズだからね」
「あ?」
 
急に自分の分からない話を始める武道に万次郎は眉間に皺を寄せた。
昨日と様子が違っていてもやっぱり同じ人間なのだろう。置いてけぼりにされているのが不快だった。
 
「あぁ、そうだ。最期に握手しよう?」
「最後、ってお前は俺のだろ」
 
何を勝手に自己完結しているんだと怒りが湧く。好みでは無いと感じてはいるが、間違いなく目の前の少年は自分の運命だ。
雰囲気が変わってもソレは変わらない。コイツは自分のものなのだと本能が叫んでいるのが万次郎には分かった。
 
「うーん、まぁそうなんだけれども……」
「変な奴だな。まぁ、いいけど」
「ふふ、ありがとう。もし覚えてたらでいいんだけど……。君はこれから色々な事を体験する。もしかしたら辛い別れや悲しい事も起こるかもしれない。でも立ち向かって、できれば乗り越えてほしい」
「は?」
 
急に大人の様な事を言い出した武道に万次郎は呆気にとられる。ふわっとした具体性の無いその願いにどう答えようかと思った瞬間、手を取られた。
 
「バイバイ。これはちょっとしたヒントなんだけど、親友と喧嘩しても絶対にすぐに仲直りして? そしたらきっと、君は君でいられるから」
「は? ちょ、おま……え?」
 
ニッコリと大人の様に笑うその顔は昨夜の様に艶やかで一瞬だけ昨夜の事を思い出した。
そして、その握られた手から、己の運命が消えたのを感じる。
 
「は?」
 
そして後に残された少年がキョトンとした目でこちらを見ていた。
 
「あれ? 俺、何してたんだっけ……?」
「はぁああああああ!?」
 
 
 
・・・
 
万次郎の叫び声に驚いた保護者が事情を聞き、すぐに武道は検査室へと送られた。
昨夜からつい先ほど、万次郎の手を握るまでの記憶はどこかふんわりとしていて離人感のある物となってしまっていた。万次郎と手を繋ぐまではそんなことはなかった事と、直前までの会話から武道は解離性同一症を発症したのではないかと推測された。
 
通常よりも早い段階のヒートの発生と、運命の番と邂逅したしたことによるストレスが原因では無いかと考えられたがソレ以降、武道が離人感に悩まされることはなく研究及び治療は保留となった。
なによりも注目されたことはヒートを起こしてから運命の番に触れるまでと、その後でフェロモンの構成が変わってしまっていた事だった。
基本的に、オメガのフェロモンは番契約をしてから変容する。しかし、武道は初回のヒート時にフェロモンが変容し、落ち着いた後に元のフェロモンへと戻ったのではないかと考えられる。二度目のヒートの際はフェロモンの変容が無かったため、変容したフェロモンが番契約後と同じ構成をするかは本人たちが自身の意思で番った後に分かるだろう。
 
「って言うのが此処までの話だ。お前、あの時の人格だろ」
「へ? えー? そんな感じになってるんだぁ……」
 
番の悲劇を防ぐ夢を見て、もう人生に後悔は無いと思い最期に手に触れた。
その時、自分の意識が身体から離れる様な奇妙な感覚があったことを武道は覚えていた。
 
「で? お前は何なの? どうして未来を知っていて、あの時俺にソレを伝えに来た」
「うーん、話は長くなるんだけど聞いてくれる?」
 
 
君は俺のオム・ファタールだった、っていう話なんだけれど。
 
 
 
 

 
 
 
 ・・・
 


 
 おまけ

 
花垣武道を愛していた。

ソイツは12年前に佐野万次郎の人生に彗星の様に現れた。
殺される所だった兄を助けた運命のオメガ。まだ適齢期でも無いのにヒートを起こし、フェロモンの匂いを辿って危機的状況にあった番の兄弟を助けた謎の少年。
翌日話してみればソイツは普通の小学生で、万次郎は気が抜けた事をよく覚えていた。どうやら二重人格の様で、その時のことはしっかりとは覚えていないらしかった。

調子に乗りやすくて、服のセンスが壊滅的で、アホっぽい所はちょっと可愛いかもしれないけど間抜けなペットを愛玩する感覚に近かった。
全然好みじゃなくて、でも何故か不思議と惹かれる感じもあって、コレが運命の番ってヤツなのかと少しだけ苦々しく思ったりもした。

それでも一緒に過ごせば情も湧いてきて、一緒に笑いあって、喧嘩に巻き込んで泣かせて、心配させて……。そんな何気ない日常の中でその善性や真っ直ぐな性根に少しずつ惹かれていった。
始めは好みじゃないと思ったけれど、大人になるにつれてもしかしたらこういう奴の方が相性がいいのかもしれないと思い直した。

そんな花垣武道が消えた。

正確には、14年前に一度だけ会った二重人格の方の武道が表に出てきて14年間一緒にいた武道の人格が隠れてしまった。

話を聞けば、ソイツは当時14年後からタイムリープしてきた大人の花垣武道らしかった。
そいつの世界では兄の死を皮切りに仲間や家族を次々に亡くし、犯罪者への道を転がり落ちた万次郎が武道を監禁していたらしい。どういう仕組みかは分からないが、その未来を回避するために14年前に精神だけ飛び、今、再び戻ってきたのだと言う。

その話を聞いて、そんな未来もきっとあったのだろうと万次郎は納得する。
自分の凶悪な衝動性については十分に自覚をしていた。今日日、まともに生活を送れているのは家族や友人、武道の支えがあったからだと分かっている。

そんな、自分を支えてくれていた番が失われた。

凶悪な自分がまた顔を出す。
14年前に助けてくれたのはこっちの武道だと分かっている。コイツがいなければ最悪の人生を送っていたであろうことは簡単に想像がつく。

しかし、14年間傍にいたのは俺の武道なんだ、と心が叫んでいた。

別人格の方が出てきたと報告すると武道はすぐに検査入院をする流れとなった。
武道担当の研究員である稀咲鉄太とその助手の看護師の橘日向は休日であったのに病院にすぐに飛んできた。この二人は未来の(もう現在であるが分かりにくいのでそう称するとする)武道の世界では反社の構成員とその被害者であったというのだからこの男はあの数時間で何人もの命を救ったのだろう。
コイツが喧嘩してもすぐに仲直りをするように言った事を覚えていたからこそ、親友である龍宮寺は今自分の妹と結婚して元気にやっているのだ。アレが無かったら喧嘩の果てに龍宮寺を助ける事が遅れて死なせてしまっていただろう。

恨んではいけない、怒ってはいけない。
ソレは逆恨みにしかならないのだ、と自分に言い聞かせる。

「怒って良いですよ?」
「は?」

検査入院から帰ってきた武道が万次郎にそう告げた。

「急に自分の番が別人になってしまって戸惑わない人はいないです。何より、自分でもどうやったのかよく分かりませんが貴方の人生を大きく捻じ曲げたのは俺ですから」

本来辿るべき歴史を変えたのだ。恨まれたって仕方の無い事をしている自覚がある。
誰かを助けた代わりに、誰かを傷つけた可能性だってある。あの行動の影響が他のどんな所で出たのか分からない、と稀咲と橘を見て武道は思った。

「良かれと思って、自己満足で動きました。ソレがどんな影響を及ぼすかなんて考えてませんでした。今の貴方の苦しみは俺に責任がある」

武道の表情は真剣そのもので、悲劇のヒーローぶった所など無く、ただただ現実を受け止める者のそれだった。

「あと、実は俺の方も自分が誰なのかよく分からないんです。俺は自分の住んでたこの家の配置も、近所の道も何も知らないハズなのに、何故か分かる。きっと俺の中の、ずっとアンタと一緒にいた俺の記憶なんです」

真剣な表情を崩して、少し困った様に笑う。
その顔をを見て万次郎はやっと気付く。この男も突如まったく知らない世界に落とされてしまった被害者であると。番を失った悲しみに支配されかけていたが、きっとこの男の方が失ったものは多い。

職も人間関係も、自分が生きてきた12年を失ったのだ。

「俺、アンタの事ホントは怖くて仕方なかったんですけど、今はそんなことも無いんです。アンタが悲しそうだと胸が締め付けられる。怒ってても傍にいてやりたいと思う。きっと、前までの自分だったらそんなこと無かった」

あの夜、自分を監禁していた反社会勢力のボスに対して、運命の番として責任を取れと迫ったつもりだった。まだ子どもだった万次郎にクレイミングまでして……。
自分がいなくなった後、武道と万次郎がこんなにも穏やかな関係を築くなど思っていなかった。

「きっとアンタの事スゲェ好きだったんでしょうね、俺」

独白の様に続けられる言葉に万次郎は何も言えずにただ涙を零した。

「俺も、武道の事、愛してた」
「あぁ、俺の事じゃないのに何かスゲェ嬉しいや。コレ、アンタの武道の感情っスよ」

どうしてくれんですか、とつられる様に武道も大粒の涙を流した。

「きっと、アンタの武道はすぐに戻ってきます。消えてないです。ていうかきっと、ちょっと忘れちゃってるだけで、俺も多分アンタの武道です。記憶喪失だとでも思ってちょっと待っててください」

なんだかちょっとだけ、悔しいですけどね。と武道は笑った。

 
・・・

その夜、今までの武道としていた様に同じベッドで眠る。
もういい歳だというのに二人は番う事も身体を繋げることも無くただただ家族の様に過ごしていた。欲情しなかったワケでは無い。ヒートの度に死ぬような思いでただただ寄り添った。

それでも一つになれなかったのは、番ってしまえば自分の武道がこの14年前に一度だけ出逢った男になってしまうのではないかと恐ろしかったからだった。自分へと特化したフェロモンを放つあの少年へと目の前の恋人が変容してしまうのではないか、と。
その不安は結局、杞憂に終わり、現実では時限爆弾式に己の番は失われた。こんなことならもっと早く手を出して、こうなる前にもっと愛してやれば良かったという後悔だけが残る。

ただ寄り添って眠る毎日があんなにも愛おしい。
目の前で横になっているのは武道であるのに、武道ではないという思いが胸に渦巻く。暗い気持ちを抱え、どうしたらいいのか分からずにただ瞳を潤ませた。
28にもなるのに幼子の様で情けない。こんな時、今までどうしていたのだろうと思い返す。

今までだって眠れない夜はあったハズだ。
こんな夜はいつだって……。

「マイキーくん?」
「タケミっち……?」

ぼんやりとした様子で武道が万次郎の方を向く。
あの武道が自分にこんなことをしてくれるワケがない、と驚いているとトロトロとした瞳が自分を見つめ微笑む。

「眠れないの? 大丈夫だよ」
「タケミっち?」
「ふふ、変なマイキーくん。抱っこしてあげるからねんねしようね?」
「タケミっちだ……ッ」

自分を抱き込み、背中をトントンと撫でる手は自分の知っているもので、万次郎はその胸に縋る様に抱きついた。
そうだ、こんな夜はいつだって武道がいたのだと万次郎は思い出す。

「ふふ、寂しがり屋さんだなぁ」
「どっか行かないでよ……」
「大丈夫。大丈夫だよ……おやすみ」
「うん……おやすみ」


・・・

 
その夜、万次郎は最悪な夢を見た。
14年前のあの日、兄が死ぬ夢だった。その後、龍宮寺が死に、場地が殺され、羽宮を殺す夢だ。

そして気付く。これはあの武道が語っていた本来の自分の未来だと。

飢餓感が抑えられない。悲しい、辛い、どうして自分ばかりが?
その日の夢に武道は出てこなかった。いったいどこで出会うのだろうと思っていたが知りたくない気もした。自分の武道と同じ顔をした男に無体を働く自分など想像したくも無い。
それでもきっと、できてしまうのだろうと夢の仲の自分を見ていて思う。

苦しい。苦しい。
誰か助けてほしい。

がむしゃらに手を伸ばした先は……。 
 

「あれ? おはよう、万次郎くん」

バチリ目が開いて、ヘラリと笑う男が目に入る。
その笑みは自分の武道のものと同じであるのに、ソレが自分のものではない事が分かってしまって少しだけ悲しくなる。

「朝ごはん、食べますよね?」
「……うん」

落胆するのは失礼だと分かっているのに、失望が隠せない。きっと武道もそれに気が付いているのに何も言わずに朝食を用意してくれた。

「……?」

もそもそと口に運ぶと完璧にいつもと同じ味がして、目玉焼きも両面固焼きになっていた。そして向かいに座る武道のを見れば片面半熟で元の武道と同じ焼き方をしていた。

「……」
「ふふ、変な気分ですね。俺、もともと目玉焼きの焼き方に拘りなんて無かったし、自分で調理だって滅多にしなかったのに、自然とこうしなきゃって思ったんです。ホント、アンタが俺に愛されてて面白い」
「あぁ……」

穏やかに笑う武道はどこか達観したようで、自分の武道と同じ歳なのに大人っぽかった。

「……」

昨夜のあれは幻だったのかと落胆しつつ、他に何かがおかしい気がしてどこかゾワゾワした気分になる。いつも食べている朝食だ。何もおかしいことなどないのに、人が作ったものを食べることに妙な忌避感があった。

「……」
「怖かったら食べなくてもいいですよ?」
「は?」

突然何をふざけたことを言い出すのかと睨みつけるが、武道は至極真面目な表情をしていた。

「君が俺とこういう朝食をとっていたと俺は何となく知っているけど、俺の知る万次郎は人の作ったものなんか食べないし、飲み物だって市販の口が開いてないものからしか飲まない慎重な男だったよ」
「……」

そうであろう、と万次郎もその言葉に納得する。
昨夜夢に見た男は今の自分とは似ても似つかない生活をしていた。どうやら、自分は昨日の夢に大分参っているようだった。

「うん……。昨日、そんな夢を見たんだ」
「へぇ?」
「どういう影響なんだろうな? お前にタケミっちの記憶が流れ込んでくる様に、俺にもあの男の記憶が流れ込んできてんのかな?」
「うーん、どうなんスかね」

自分が自分で無くなってしまうかもしれない不安感。
武道はコレにずっと耐えてきたのだろうかと思うと今は会えない番が恋しくなる。

「でも、大丈夫っスよ」

ヘラリ、と武道が万次郎の知っている笑顔で笑った。

「あんな男、なりたくても今更なれないっスから」
「……そうかな?」
「はい、今のアンタには仲間がいます。俺だってすぐにアンタのタケミっちに戻ります。そしたら、反社なんてやってる暇なくなりますよ?」
「そうなの?」
「えぇ! 俺は我慢できますけど、もうずっと項を噛んでほしくて仕方が無いんですから! そしたら番契約の届け出や病院の検査とかてんやわんやになりますし、おじいちゃんやお兄さん達に結婚だって急かされてるんです。あのデザイナーの……あ、三ツ谷くん! あの人が万次郎くんのタキシードのデザインしたいんだってタケミっちに文句言ってましたよ!」
「……そっか」


・・・


それから何度かの悪夢の夜を過ごすうちに、だんだんと武道は元の武道へと戻っていった。記憶を元に演技をしているという様子はなく、忘れていた自分を取り戻していったという感じで万次郎は安心した。

日を追うごとにフェロモンの構成も変わり、完全に元の武道のものへと戻ったようだった。『多重人格者のΩフェロモンの変容について』というタイトルで事例研究の論文を稀咲が出す予定であると聞いて万次郎は少しだけ苦い気持ちになる。タイムリープをしているという非科学的な奴の事例研究をそうと知らずにしている学者が哀れでならない。

武道に確認をすると、武道にもあのタイムリーパーの記憶がしっかりと残っているらしかった。初めの頃の離人感がだんだんと薄れていき、完全に統合した流れらしい。

そして、夜な夜な見ていた反社の男の夢も見なくなった。
自分が自分で無くなることは無く、まるで自分のそっくりさんが出てくる映画でも見ているかのようだった。それでも、やっぱりこういう人生を歩む可能性があったのだとはありありと実感できて、夢の中の男に少しだけ共感することも多かった。

あの男の最期に、思う所が無いワケでは無かった。
最期に望んだのが番の笑顔を見てみたかったことなんて、どんな人生だよ、と自嘲する。笑顔ひとつ見せない相手なのに、惹かれてしまって、魅力的なオメガに狂わされた有象無象と一緒なのかもしれないと不安に思う。反社会的組織のボスが、だ。そんな映画みたいなドラマチックな人生を、自分が送るなんて思えないのに、確かに自分なのだと分かる不思議な気分だった。

手離すことこそが愛だなんて、自分にはまだ至れそうも無い境地だ。
あぁするしか武道を守る術がないのだから仕方が無いのだけれども、もし自分がその立場になったらと思うと自信が無かった。

武道に夢の話をするとケラケラと笑ってそんな心配はしなくていいのだと言った。

「あの人、そんな事不安に思ってたんですねぇ。俺にとって、あの人こそがオムファタールだったのに」
「……」

こうして、ときどき顔を出すタイムリーパーの部分に少しだけ嫉妬する。存在すらしなかったことになった自分に嫉妬するなんて馬鹿らしいと分かっているのに。
そしてそんな時に武道は少しだけ意地悪な表情でニヤリと笑うのだった。

そんな顔も可愛く感じて、あぁ、コイツが俺のオム・ファタールなんだと実感する。
どんな世界でだってコイツに恋に落ちるのだ、と。



終。
 
 

 

・・・

 



おまけのおまけ


武道とあの未来人の統合が終わった頃、予定よりも少し早い時期にヒートが来た。
何となく、そうなるだろうと思って一緒に働いている兄たちには休暇を申請していて良かったと思う。散々揶揄われたが特定の相手のいない兄たちに何か言われる謂れは無いと思う。ベータとアルファの男にしかモテない兄たちとは話が合わない。人の事を揶揄ってないで早く自分の幸せを見つけてほしいと万次郎は切に願った。

この1週間は缶詰になると分かっていたため用意は完璧で、しかもこのヒートでやっと番うことができると万次郎はワックワクで支度をした。

ムワリと温度すら感じられる様なフェロモンが室内に充満している。そのフェロモンを発している武道はもう我慢が出来ないとボロボロと大粒の涙を流しながらハクハクと熱い息を漏らしていた。

「じゃあ、噛むね」
「んぅっうううううう♡♡♡」

横たわる武道を後ろから抱き締めて、万次郎はその項に歯を立てた。
コレで、もう武道は他の誰かを誘惑できなくなったのだと思うと仄暗い喜びが心を支配する。この感覚を万次郎はいつかの夢の中で感じた気がしたが、今は目の前の番を愛でる事が優先だった。

すでに出来上がった身体はどこもかしこも敏感で、万次郎を求めている。
項を噛んだだけで絶頂し、多幸感に溢れた表情で武道は万次郎に手を伸ばした。

ぐるりと身体を捻って、ギュウギュウと抱き着いて来るその様が可愛らしく、いじらしくて万次郎は噛み付く様にその唇にキスをした。
ムニムニと触れ合っていた唇に舌を突き立て、隙間から中へと侵入する。抵抗なく迎え入れられた口腔でぬるりと舌が絡みつけられた。触れ合うのが気持ち良くて、少し動くだけで背筋の辺りに甘い疼きが奔る。

嗚呼、コイツを孕ませたい。
そんな本能的な欲望が万次郎の胸の内を支配する。

犯して、揺さぶって、その最奥に種付けして、自分のものだとマーキングしてやりたい。
キスをするだけでこんなにも気持ちが良いのに、コイツの中に入ったらどんな心地がするのだろう。しかし、お互い初めてなのだと理性が囁く。

そうだ、犯す前にもっと昂らせてやらないといけない。
余裕の無い頭で考えて、万次郎はキスをしたまま武道の身体に手を伸ばした。

性急な手付きで、自分と比べると少しフニフニとしたわき腹や胸を撫で上げる。乱暴に揉みしだいてしまいたいのを我慢して事前に予習していた柔らかい触れ方を意識する。

「んぅ♡ んぁっ♡ んぅうーっ♡♡♡」

万次郎の手付きに合わせて、唇の隙間からくぐもった喘ぎが漏れ出した。ちゃんと気持ちが良いらしいと確信をもって、万次郎は少しだけ強めに胸の頂に触れた。

「んぁあああっ♡♡♡♡♡」

その瞬間、絡めていた舌が逃げて、背筋が仰け反る。プシャリと性器から白濁が溢れ出して絶頂を万次郎に知らせていた。

「あぁ、ここが好きなんだな?」
「ひっ♡ あぁっ♡♡♡ んぁあっ♡♡♡」

きゅ、きゅ、と乳首を摘まみ上げて刺激すればその度にそういう楽器の様に武道は甘い声が上げた。
指先一つでこんなにも乱れる恋人が愛おしくて顔中にキスを落とした。武道は擽ったそうにしつつも従順にその愛撫を受け入れ甘えた声を上げる。

気持ちが良いのに一番触れてほしい所には触れてもらえなくて、強請る様に武道は腰を揺らした。前戯も良いが今は早く犯されたかった。
それに気が付いて、万次郎は乳首を愛撫していた手をゆっくりと下へと撫でおろす。既に何度かイッてしまっているのに健気に屹立し続ける陰茎を擽られ、とうとう武道は泣き出した。

「ひぁあんっ♡ ちがっ♡ もっ♡ 焦らさないれぇ♡♡♡」
「わりぃ」

万次郎の背中に爪を立てて、抗議する様に縋る。
その声に素直に謝り自分のミスを挽回する様にキスをした。

「んぅう♡ ひぁあっ♡♡♡」

柔らかな尻肉を割り開き、その奥のぬかるみ触れれば既にそこはとろとろと万次郎を受け入れるための準備を終えて寂しげに指に吸い付いてきた。
すでにこんなになっているのに前戯は不要だったかと反省しつつも、未だ処女であるそこに己の剛直を突き刺すのはどうにも憚られ、万次郎はゆっくりと指を沈めた。

「ぁ♡ あぁっ♡」

簡単に指を受け入れたそこはキュウキュウと貪る様に指を締め付け奥へと誘う。その柔らかな媚肉の中に少しだけ他と違う硬い箇所を発見して、万次郎はそこを圧し潰してみる。
万次郎の予想通りそこは前立腺で、コロコロとしたソレを刺激する度に武道は絶頂を迎えた。もう何度もイッてしまっているせいで吐き出される体液は薄くなってしまっているが、何度でも絶頂を繰り返す。

「ひぃああああああっ♡♡♡♡」

その様が可愛らしくて万次郎は指を増やし、前立腺を指で挟み込む様にこね回すと、武道はガクガクと腰を痙攣させて悲鳴じみた嬌声を上げた。

これだけ乱れていれば大丈夫だろうと確信して、万次郎は指を引き抜いて自身の逸物を秘部へと押し付ける。触れるだけでそこはちうちうと万次郎へ吸い付き挿入を強請った。

「挿れるな」
「~~~~~~っ♡♡♡♡♡♡」

散々啼かされた果ての挿入に武道の悲鳴はもう声にならないものだった。
番と一つになれた悦びで武道は深い絶頂を迎えた。
背中に回した腕でギュウギュウと万次郎を抱き締めて、同じように胎の中の逸物も締め付ける。
その刺激に持っていかれそうになるのを何とか耐えて、万次郎は武道にキスを落としてやり過ごす。ヒート中は何度でも繋がるであろうことは分かっていても初めてのセックスは心残り無く楽しみたかった。
暫くそうしていて、だんだんと武道が落ち着いてきた所で耳元に囁く。

「じゃあ、動くな♡」

その言葉に武道は首肯だけで応える。口を開けば喘ぎ声しか出せる気がしなかった。

「っ♡ っ♡ っ♡ っ♡」

万次郎の首筋に縋りついて、その律動にひたすら耐える。
万次郎の逸物が入り口で泡立った己の愛液を潤滑油にゴリゴリと前立腺をその雁首で刺激しながら奥をノックした。孕まされたいのだと降りてきた子宮口がその子種を強請り鈴口にキスをする。
何度も繰り返し中を愛されて、追い詰められ、快楽の海に溺れてしまう。息もできない様な快感の果てに叩きつけられた精液の熱さに武道は自分がおかしくなってしまったのではないかと思う程の強い絶頂を迎えた。

「ひっ♡ ぁあああああああっ♡♡♡♡♡♡」
「うぐぅっ……」

ギュウ、と痛い程に締め付けられたナカが痙攣する様に万次郎の逸物を絞り上げる。ゴクゴクと子宮口で精液を飲み込んでいく様な動きに万次郎は呻き声をあげた。
そして、程なくしてノットが子種を一滴も残さずに番の胎へと送りこむために膨らんだ。その刺激でまた武道は絶頂してしまう。

少し苦しくて、気を紛らわすためにキスを強請ると万次郎は甘やかす様にその舌で武道の口腔を愛撫した。

そうして何十分かが過ぎれば少しずつノットが萎んでいき、ゆっくりと萎えたそれを番の胎から引き抜いた。
一度射精されれば暫くは落ち着くらしいと分かっていたためあまり刺激しない様に抱きしめるにとどめる。せっかくならこのまま第2ラウンドをキメてしまいたかったがそんなことをすれば案外体力のある武道よりも先に自分がへばってしまうことが分かっていた。

「へへ、子ども、できるといいですね」
「うん、今度こそ……」

絶頂後のぼんやりとした頭での会話で思った事をそのまま口に出してしまう。
その内容に少しだけ違和感を覚えつつも、万次郎はただただ幸せを享受した。

今度こそ、幸せにしてみせる、と頭のどこかで誰かが囁いていた。